第百七訓 正しい言葉遣いで喋りましょう
「さあさあさあさあ! 颯くんも一文字くんも入って入って~」
「あ、うん」
「お……お邪魔するでありマス……」
母さんの明るい声に促されて、俺と一文字は家の中に入った。
玄関で靴を脱ぎ、上がり框をまたぐ。
すると、靴を脱ぎっぱなしにした俺とは対照的に、一文字は玄関の床に膝をついて、脱いだ靴の爪先を揃えて、きちんと置き直した。
「……いや、別に脱ぎっぱなしでもいいじゃん」
「そうはいかないよ。ボクはお招きに与った側だからね。こういうところはキチンとしないと」
俺の呆れ声にそう答えた一文字は、自分の靴に続いて、脱ぎ散らかしたままの俺の靴も揃える。
「いや、俺の靴まで揃えなくていいって……」
「まあ、もののついでだよ」
「あら~、ごめんなさいね、一文字くん!」
余計なお世話だと渋い顔をする俺とは正反対に、母さんは満面の笑顔になった。
「お客さんなのに、こんな事してもらって。おまけにウチの颯くんの分まで。でも、そんなに気を使わなくてもいいのよ? 自分のお家だと思って寛いじゃって~」
「あ、は、ハイ」
母さんの言葉に、一文字はカチンコチンという擬音がピッタリなぎこちない挙動で頭を下げる。
「きょ、恐縮でありマス……」
「……」
いつも俺の前で見せている不遜で尊大な態度はどこへやら、まるではじめてのおつかいでスーパーのレジに並んだ幼稚園児のような一文字の姿が滑稽で、俺は思わず吹き出しかけながら、慌てて目を逸らした。
と、逸らした目で玄関の三和土を見た俺は、そこに靴が二足しか置かれていない事に気付いて、ふと母さんに尋ねる。
「……そういえば、ミクはまだ来てないのか?」
「あぁ、ミクちゃんはまだよ」
俺の問いかけに、母さんは軽く首を横に振った。
「ミクちゃんは、自分のお家で料理を作ってからこっちに来るって。色々と作ってるみたいだけど、お昼前には来れそうですって言ってたわよ」
「そっか……」
母さんの答えを聞いた俺は、ミクが俺の為に料理を作ってくれている事に対する喜びの気持ちを抱いたものの、今すぐにミクの顔を見られない事に対するガッカリした気持ちが僅かに勝って、思わず顔を曇らせる。
「つうか……料理だったら、ウチの台所で作ればいいじゃんかよ……」
と、思わず愚痴めいた言葉が、口から漏れた。
それを聞いた母さんは、苦笑しながらかぶりを振る。
「うーん、残念だけど、それは難しいわよ。だって、ウチはウチで、颯くんの為のご馳走を作ってる最中だからね」
「ご、ご馳走……ですと!」
母さんの言葉に顕著な反応を示したのは、一文字だった。
彼は、鼻孔を大きく玄関に漂う香りを嗅ぐや、パッと表情を輝かせた。
「ご、御母堂様! この香り……もしかしなくてもカレーで御座りますな!」
「ご、ゴボウさま……?」
“お母様”の時代じみた呼び方である“御母堂様”を“ゴボウ様”と聞き間違えたらしい母さんが、戸惑いながら目をパチクリさせつつ、おずおずと頷く。
「え、ええ……そうよ。ちょうど今煮込んでるところだけど――」
「おおおおお! ファンタスティックコロンビアアアアアア!」
母さんの答えを聞いた一文字は、その小さな目を極限まで見開きながら、両手を大きく広げて突き上げ、大きな奇声……もとい、歓声を上げた。
「な、なに? どうし――?」
「Yeah~、ボカァ嬉しいんです、御母堂様!」
突然の奇声にびっくりしている母さんに、一文字は興奮覚めやらぬ口調で捲し立てる。
「なにせボクは、一ヶ月前くらいに本郷氏より賜りし御母堂様お手製のカレーを口にして以来、すっかりその味に魅せられてしまってまして。もう一度食べてみたいと、秘かに切望していたのであります!」
「あ、そ、そうなんだ……」
「いやぁ、冷めた状態でも美味だったあのカレーライスを、出来たてホカホカで食べられようとは……本当に嬉しいでありマス!」
緊張と歓喜と興奮が相まって、まるでどこかのカエル軍曹のような口調になりながら、湧き上がる感情のまま力説する一文字。
すると、最初はドン引きしていたらしい母さんの顔も次第に綻んだ。
「あらあら、そうだったの~! そんな風に言われたら嬉しくなっちゃうわ~」
声を浮つかせながらそう言った母さんは、リビングへ続くドアを開けながら、俺たちに向かって手招きをする。
「さあ、ふたりともこっちにおいで。私はこれから唐揚げを揚げるけど、代わりにお父さんが――」
「か、唐揚げですとぉっ?」
一文字は、母さんが口にした一言に、カレー以上に顕著な反応を見せた。
彼は大きく広げた鼻孔から荒い息を吐きながら、興奮気味に母さんに問いかける。
「ご、御母堂様! か、カレーだけでなく、唐揚げも御座るのかッ?」
「御座るって何だよ……」
興奮するあまり、まるで江戸時代の武士のような言い回しになっている一文字に、思わず俺は失笑する。
まあ……、確かに『御座る』には「“ある”の尊敬語」っていう意味もあるけど、今の用法は明らかに間違っているぞ……。
だが、当の一文字は、俺が漏らした失笑にも全く気付かぬ様子で、更に問いを重ねる。
「ほ、本当でアリますかッ? あ、あの、塩麹で味付けして、胡麻油で揚げた唐揚げもご用意頂けるのでありますかッ?」
「え、ええ」
一文字の剣幕にたじろぎつつ、母さんはぎこちなく頷き、ふと訝しげな顔をした。
「あ、でも……なんで知ってるの? ウチの唐揚げの味付け……」
「唐揚げも、この前食べたのであります!」
母さんの問いかけに、一文字はめちゃくちゃいい笑顔で答える。
「塩麹が肉に沁み込んで、冷めてても本当に美味しかったです! あの唐揚げを出来たて熱々で食べられるとは……いやぁ、本日はこの一文字一最良の日となりそうでありマス!」
「うふふ。嬉しいなぁ。じゃあ、今日は腕によりをかけて美味しい唐揚げ作っちゃうわよ!」
一文字の大げさな言葉を聞いた母さんは、まんざらでも無さげに腕捲りしてみせた。
「さあ、どうぞどうぞ! 遠慮なく入って~」
「あっ、ハイ!」
母さんに促され、一文字が先に立ってリビングに入る。
白け顔の俺が、その後に続こうとしたが、不意に腕を掴まれた。
俺は怪訝に思いながら、腕を掴んだ母さんに向かって首を傾げてみせる。
「何だよ? どうしたの――」
「颯くん、良かったわねぇ。こんな良い子がお友達になってくれて♪ ……まあ、ちょっと変なところはあるけど」
「は、はぁ~?」
母さんの言葉に、俺はあらん限りの力を込めて顔を顰めてみせた。
「“変なところはある”の部分は、大いに同意だけどさ。さっきも言ったけど、一文字は友達なんかじゃなくて、ただの知り合い! それ以下はあっても、それ以上は断じて無いの! アンダスダン?」
「またまたぁ。仲睦まじげで、ホントに親友みたいよ、あなたたち。うふふ」
「……いや、冗談でもマジでやめてくんない?」
比喩ではなく背筋に冷たいものが走り、俺は更に顔面を引き攣らせるのだった。