第一訓 味噌汁は冷ましてから飲みましょう
「熱ッつッ!」
味噌汁くらいで火傷したのが、動揺してる何よりの証拠だった。
「ちょっ! だ、大丈夫? そうちゃんッ?」
テーブルの向かいから、心配顔の未来が、飲みかけのコップを俺に差し出してくる。
素っ頓狂な悲鳴を上げたせいか、昼下がりで混み合う牛丼屋の店内で、一瞬にして客たちの注目が俺に集まったのが感じられた。
「ら……ららら……外でちゃん付けで呼ぶのは止めろって言ってんだろうが……」
俺は、ヒリヒリする舌を口に含んだコップの水で冷ましながら、恨めしげにミクの顔を睨む。
俺の非難めいた視線を受けた彼女は、その可愛らしい顔にハッとした表情を浮かべ、「あっ……」と声を漏らすと、慌てた様子で形のいい唇を両手で塞いだ。
そして、その上目遣いで俺の顔を見ながら、ちょこんと頭を下げる。
「ゴメン、そうちゃん……じゃなかった、颯大くん。つい、いつものクセで……」
「あ、い、いや……もういいよ……」
まるで捨てられた子犬のような顔でしょぼんとするミクの顔を見た俺は、慌てて首を横に振った。
そして、俺の返事を聞いて安堵の表情を浮かべたミクの可愛らしい顔に、つい見惚れてしまう……。
◆ ◆ ◆ ◆
俺――本郷颯大と、俺の一歳下の沢渡未来は、いわゆるひとつの幼馴染ってやつだ。
家が隣同士だった俺とミクは、物心ついてから、去年俺が大学に入って、少し離れたところでひとり暮らしを始めるまでの間、毎日のように一緒にいた。
小学校と中学校はもちろん、高校も同じ学校だった俺たちは、周りから付き合ってると誤解されるのが常だった。
まあ、誤解されるのも無理はない。
何せ、寝坊助だった俺を起こしに部屋まで押しかけてくるのが、ミクの毎日のルーティンのようになっていたし、高校時代の俺の学校での昼飯は、いつもミクがお揃いで作ってくれた弁当だったのだ。
そういえば、クラスメイトたちからは、『愛妻弁当』だってからかわれてたっけ……。
さすがに、大学生になった俺が家を出てからは、ミクが俺の部屋に来る事は少なくなったし、昼飯は彼女の手弁当から学食のたぬきうどん定食に代わったが、それでも頻繁にLANEや電話でやり取りしてた。
……でも、俺たちは付き合ってなかった。
え? 『そこまでの関係なら、実質恋人同士だろ?』だって?
――うん。俺もそう思う。
ぶっちゃけ俺は、まだ言葉に出して告白していないだけで、もうすっかりミクの事を『彼女に限りなく近い存在』として認識していた。
……いや、“取り敢えずキープ”とかいう邪な気持ちとかは全然無くて、いずれ時が来たらキチンと俺の想いを伝えて、正真正銘の“恋人”になるつもりだったんだ。
――まあ、俺がヘタレだったせいで、いくらでもチャンスはあったのに、なかなか告白する事が出来ないまま、今日まで来てしまったのだけど。
それに、ミクの気持ちも俺と同じだと確信していた。だから、今更改めて言葉に出す必要も無いし、俺が切り出さなくても、いずれミクの方から告白してくれるものだと思ってた。
だから、今日ミクに呼び出された時には心が躍った。
彼女に直接会うのは、かれこれ一か月ぶりだった。
俺は大学のカリキュラムが立て込んでいて、ミクに電話する暇も無かったし、ミクはミクで、今年入学した大学 (さすがに俺とは違う大学に進学した)に慣れるのに大変だったようだ。
最近はLANEのやり取りすら途切れがちで、俺は秘かに悶々としていたのだが、今朝起きて見たスマホに、ミクからのメッセージ通知が入っていたのに気付いた瞬間、そんな鬱屈は嘘のように消し飛んだ。
寝ぼけ眼でスマホを操作して開いたLANEに入っていたミクからのメッセージは、こうだった。
――『そうちゃんに伝えなきゃいけない大切なお話があります。今日会えますか?』
そのメッセージが目に入った瞬間、俺の眠気は吹っ飛んだ。
俺は、スマホの画面を穴が開きそうなほどに凝視しながら、思わず絶叫する。
「つ……遂に……遂にこの日がキターッ!」
メッセージの中の“大切なお話”とは、考えるまでも無く明らかだった。
(ミクは、俺に告白する気に違いない!)
そう確信した俺は、興奮と歓喜で打ち震えながら、灰色の猫が満面の笑みで“OK”と書かれた看板を掲げている絵柄のスタンプを乱打するや、毛布を撥ね退けて風呂場へと駆け込んだ。
それから、柄にもない朝シャワーを浴びて身を充分に浄めた後、一時間かけてタンスをひっくり返しながら、出かける為のイケてる格好を選び、更にたっぷりと時間をかけて洗面台の鏡とにらめっこしながら、念入りに顔面に生えたムダ毛を剃りまくったのだった。
――それから二時間後。
待ち合わせた最寄り駅のロータリーに時間きっかりで現れたミクは、最後に会った時よりも格段に綺麗になっていた。
ショートボブだった高校の頃よりも伸ばし、肩に届くくらいになった黒髪は、初夏の太陽の光を反射してキラリキラリと輝き、薄く化粧をした顔は、まだ少女の頃の面影を残しつつも、以前よりもずっと大人っぽくなっていた。
「そうちゃん、久しぶり~!」
と、自分に向かってにこやかな笑顔を向けるミクに対して、俺はブスッとした表情を作り、
「だから……人前で“ちゃん”付けで呼ぶなって。いっつも言ってんじゃんかよ」
と、口では文句を垂れながらも、心の中では(この笑顔が、もう少しで俺だけのものに……)と、こっそりとガッツポーズをしていたのだった。
その後、少し遅めの昼食を摂る為に、牛丼チェーン店の『古野屋』に入った俺たち――え? 何で女の子とのデートなのに、牛丼屋なんかに入るんだって?
もちろん、俺は最初、もっと小洒落た店に行こうとしたよ。そう……イタリアンレストランの“ナイゼリア”にさ。
でも、ミクが古野屋に行こうって言って聞かなかったんだから、しょうがないじゃん。昔からコイツは、あの〇ン肉マンともいい勝負ができるレベルで牛丼が大好きなんだ。
もっとも、俺はそういうミクの庶民的なところも好きだ。
お財布にも優しいしな……。
おっと……話が逸れた。
ええと……それで、駅前の“古野屋”に入り、それぞれカシラマシマシつゆだく大盛牛丼を頼んだ俺たち。
そして、さほど待つ間もなく提供された大盛牛丼に、俺が早速箸を入れようとした時、
「――あのさ、そうちゃん……」
と、頬を僅かに染めたミクが切り出した。
俺は、内心で(え……? も、もう? は、早い、早いよ! ま……まだ、心の準備が……!)と狼狽しつつ、
「ん……ど、どうした、ミク?」
と、平静を装いつつ答えた。
すると、ミクは小鉢の中に入った生卵を箸でかき混ぜながら、躊躇いがちに口を開く。
「じ……実はさ。今朝LANEで送った内容の事なんだけど……」
「お、おう……あ、アレか……」
俺は、『キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!』という無数の顔文字が、某動画の弾幕メッセージのように視界の中で乱舞するのを幻視しつつも、懸命に興奮を抑えながら、すまし顔で湯気を立てる味噌汁椀を手に取った。
そして、ワカメが泳ぐ味噌汁に箸を入れながら、さりげない様子で訊き返す。
「た……確か……“大切な話”があるとか何とか……」
「……うん」
俺の言葉に、ミクは頬を染めてコクンと頷いた。
そして、コトンと小さな音を立てて箸を置くと、俺の顔を真剣な表情で見つめてくる。
(いよいよ来る……!)
俺の心臓は、今にも爆発四散するのではないかと心配になるくらいバクバクと鳴っていた。
何せ、他人から告白されるなんて、生まれて初めての経験だ。
――と、俺は唐突に思い当たった。
(……あれ? そういえば――告白の返事って、何て言うんだっけ?)
迂闊だった。今の今まで舞い上がっていて、肝心な事を予習するのをすっかり忘れていた……。
こういう場合は、どう返すのが普通なんだ?
(や、やっぱり、「こちらこそお願いします」かな? それとも、「俺もお前の事が……」か? いや、ここはシンプルに「ありがとう」の方がいいのか……? 「黙って俺についてこい!」は……多分アカンな……。じゃ、じゃあ――)
脳内のシナプスが焼き切れんばかりの勢いで、俺の脳内が『告白の適切な返し方』の試行錯誤を始める。多分、その時の俺の脳味噌は、量子コンピュータ『富〇』の演算能力すら遥かに凌駕していたに違いない。
(……はっ!)
そんな感じで、一瞬脳味噌が情報の交通渋滞を起こしかけた俺だったが、脳細胞がオーバーヒートで灼き切れる前に、何とか気を取り直した。
(危なかった……あやうく、人生の記念すべき瞬間を、人事不省で迎えるところだった……)
俺は心底安堵すると、まずは人生初の告白を受ける前に少しでも気持ちを落ち着かせようと、取り敢えず手に持った味噌汁椀を口元に持っていく。
そして――熱々の味噌汁を口の中に含もうとした瞬間、目をキラキラと輝かせた彼女が口を開いた。
「そうちゃん、私ね……彼氏が出来たのッ!」
「ッ? ぷ――ぶふぉッ?」
――そして、俺は舌を火傷したのだった。