夢幻は優しくて
注:◇◆◇を境に、途中でアシェルに視点が切り替わります。
◇◇◇
「アシェル……もういいぞ、目を開けろ」
俺はアシェルに声をかける。
アシェルはゆっくり目を開くと、そこに広がる光景に驚きを隠せない様だった。
「……ここはどこだ? 先程まで真夜中の森にいたはずだが……それに、この身体は?」
俺たちは現在、陽光が降り注ぐ広い草原にいる。
そこには春の風が吹き、空を飛ぶ鳥の群れや、野生の鹿などもいる。だがここは俺の作り出した異空間──ウロボロスの“腹の中”だ。
アシェルの身体は、祠に納められていた彼の遺灰から再構築した。
灰の髪に赤い眼、血の気の引いた白い肌と、身に纏う黒革の軽鎧。少しおどろおどろしいが、長年悪霊をやっていたからだろうか? しかし、その表情は柔らかい。
サンディには、既に再構築による治療を終えている。だからアシェルをその身体から引き剥がしても問題はない。いまは眠っているが、その寝息は優しい。
「ここは、現実であって現実でない場所。俺たちの生きている世界とは隔絶された空間だ」
「あの一瞬でこの娘の治療を終えたばかりか、転移までしたということか……? 無詠唱で時空魔法を使えるとは。トモエ、お前はいったい何者なのだ」
アシェルは驚きに眼を見開き俺に尋ねてくる。
「まあ、転移とは少し違うんだが……ちょっとした特技のようなものだ。気にしないでくれ。あと、見ての通りだがサンディの身体は返してもらったぞ。その代わり、こちらで義体を用意させてもらった。動きづらくなければそのまま使ってもらって構わない」
「この身体……まるで生前の俺の肉体そのものだ。お前はそんなこともできるのか……?」
「まあ、ちょっとした特技のようなものだから気に──」
「──するなと? ……お前には迷惑をかけたからな。話したくないのであれば無理には聞かないが……」
アシェルは気になって仕方がない様子ではあったが、元々義理堅い彼はそれ以上この話題に踏み込んでくることはなかった。
「そんなことより……アシェル、この景色に見覚えはないか?」
「いや、知っているようで……思い出せないな。だが……穏やかな所だ。それに、どこか懐かしいような気もする」
ふむ、俺の想像力が足りないのか……それともアシェルの記憶が曖昧なのか……まあいい。俺は続いてアシェルを目的の場所まで案内することにした。
「そうか……まあ、そんなことより見せたいものがある。付いてこい」
俺はアシェルと並び、ゆっくりと草原を進んだ。
しばらく歩いたところで、草原の向こうにポツポツと家が建っているのが見えた。
アシェルはそれを見て何かに気がついた様な顔をするも、この場所がどこなのか、未だその確信には至っていないようだった。
俺たちはそのまま家の横を通り過ぎ、小さな川を飛び越えて、また草原を進む。なんてことない、どこにでも在る様な田舎の集落。
だが──アシェルにとっては違う。
足を進めるにつれて、段々とアシェルの表情が真剣なものへと変わっていくのがわかる。
そして、ようやく草原の終わりが見えかけた時、俺はアシェルにもう一度問いかけた。
「どうだアシェル、まだ思い出せないか?」
俺の言葉に、アシェルは躊躇いがちに言葉を絞り出す。
「ここは……いや、しかし……あの場所はもう既に…」
「じゃあ、あれが何かわかるか?」
俺が真っ直ぐ指差した方向、丘の向こうに、空へと細く伸びた白い影。
瞬間──
アシェルはヒュッと息を飲み、俺の問いに答えることもなく、全力で駆け出した。
◇◆◇
「ま、まさか……まさか……ッ!!」
トモエが用意してくれたこの身体には傷一つないし、脚は驚くほど軽い。
だが丘を駆け上がる俺の心臓は高鳴り、呼吸は荒くなっている。
俺の向かう先には、簡素な木造の小屋が建っていた。
煙突から上がる煙は、誰かがパンを焼いているのだろうか。木の間に張られたロープには真っ白なシーツが干されていて、風を受ける度にふわりと舞い上がる。
舞い上がったシーツの向こうで、一人の女性が井戸の側で釣瓶から桶に水を移し替えている。
(これは夢か……それとも幻か?)
ようやくその女性のところにたどり着く頃には、既に俺の頭の中は真っ白になっていた。
目の前に居る女性が誰なのかを俺はよく知っていた。だが、知っているが故に、そんな筈はないと目を疑ってしまう。
だって彼女はもう、とうの昔に──この世を去ったのだから。
「エ……エヴリンッ!!」
恐る恐る俺はその後ろ姿に声をかけた。興奮と緊張で喉は乾き、その声は酷く掠れ、震えている。
ドクン ドクン ドクン──
緊張した俺には、空を飛ぶ鳥の羽音も、丘を吹く風の音も、草木が擦れる音も、何も聴こえはしなかった。ただ、自分のものとは思えないほど高く音を立てる心臓だけがそこにある。
(静かにしてくれ、彼女の声が聴こえない!)
もう一度、彼女の声が聴きたい。会って、きつく抱きしめたい。
ずっとずっと、それだけを思って生き永らえてきた。悪霊となっても、彼女の姿を、声を、笑顔を、忘れたことなど一度もなかった。
これが夢でも幻でも、何だって良い。ただ一言──
エヴリンと呼ばれた女性はゆっくりと俺の方を振り返ると、にっこりと微笑んで言った。
「お帰りなさい貴方、どうしたの? そんなに驚いた顔をして……」
その時、二人の間に一段と強い風が吹き抜けた。
ロープに掛けていたシーツが舞い上がり、一瞬俺の視界を遮る。
風が止むと、視線の先にいたエヴリンは消えていた。
「……ま……幻……?」
俺はがっくりと膝を折り、その場にしゃがみ込む。
「ああッ、もう! 意地悪な風!! 洗濯がやり直しじゃない!!」
背後から声。振り返れば、飛ばされたシーツを拾い上げ、不機嫌そうに口を窄めるエヴリンがいる。
「あなた、マルスを起こして来て貰えないかしら? あの子ったら、今日貴方が帰ってくるって話したら、起きて待ってるって言って聞かなくて……結局明け方まで無理して起きていたのよ? もう、いったい誰に似たのかしらね……」
くすりと微笑みこちらを見るのは、間違いなく最愛の妻──エヴリンだ。
「エヴリン……君は、どうして……。それに、マルスもいるのか?」
「あら、当たり前じゃない。これは貴方の──」
「俺の──?」
「“夢”なんだから……」
そう微笑んで、ゆっくりと、エヴリンは朝日に溶けていく。シーツがまた、風で高く舞い上がる。
「そ、そんな!! 待ってくれ! いやだ! 置いていかないでくれ!! 俺も連れて行ってくれ!!」
俺の伸ばした手は、何も掴まず空を切る。
涙が溢れ、目の前が霞む。胸が、痛いほど締め付けられて苦しい。こんな、こんなものを見せられるくらいなら……俺はいっそ……
「──アシェル」
振り向けば、トモエがいた。彼女は真剣な眼差しで俺を見ると、顎でこっちだと合図する。
「ついて来い──見せたいものがある」
◇◆◇




