07:誤算と清算
カスティージャ伯爵の領館から別邸までは、さほどの距離もなかった。
馬車なら数刻で辿り着ける。
豪雨の夜。
異端審問官ヘルモウは、護衛の騎士四人を従えて、馬車に揺られ、その別邸へと乗り込んだ。
目的は、伯の孫娘、七歳のプリカ・ド・カスティージャの身柄を確保すること。
プリカには異端の疑いがかかっている――そう告発したのは、他ならぬヘルモウであった。
むろん、口実でしかない。
聖エリゴス騎士修道会としては、プリカを伯への人質とするための口実であり、ヘルモウにとっては、幼い少女を合法的に「審問」にかけるための口実である。
「出迎えもないとは。使用人の躾がなっていないな」
門扉は開け放たれているが、迎えの人影は見えない。
やむなく馬車は正門をくぐって前庭へ入り込み、屋敷の玄関口の庇下にまで直接乗り付けた。
石造りの二階建てで、そう大きな建物ではない。造りはしっかりしているが、カスティージャ伯の人柄の反映というべきか、貴族の邸宅にしては飾り気も無く、地味質朴という印象を受ける。
「はて。誰も出てこないが」
ヘルモウ一行が馬車を降りても、正面玄関の扉の向こうからは、物音ひとつ聴こえてこない。護衛の騎士の一人が、ランタンを手に、ノッカーを打ち叩いたが、それでも邸内は寂として、なんの反応もなかった。
「おかしいですな。不在ということはないと思うのですが」
護衛たちが首をかしげた。庭に面したいくつかの窓からは、カーテンごしに、炯々たる灯火が洩れている。おそらく、それらの部屋のどれかにプリカが寝かされているはずだった。
「鍵は……かかっていませんね」
「何事かあったのだろうか?」
「ともあれ、入ってみよう。いくら呼んでも出てこないのだ、勝手に入ったからとて、先方も咎めはすまい」
「では、私が先に……」
護衛の一人が、そっと扉を開いて、玄関ホールへと踏み込む。ヘルモウら残りの者たちも、すぐ後に続いた。
中は意外に明るかった。天井と壁面に架け並べられた燭台の灯が皓々とホールを照らし、そこから先へと伸びる廊下の彼方まで、ひと目で見通せる。
内部に装飾のたぐいは見当たらず、むき出しの石壁や石床には、空虚な気配すら漂っていた。
貴族の住居というより、これは――。
「これはまるで、牢獄の入口だな」
ヘルモウが、ぽそりと述懐した。
プリカ・カスティージャは病弱ゆえ、滅多に外出もせず静養している――とは巷間の噂である。
あるいは静養というより、何らかの理由で厳重に隔離、幽閉されているのかもしれない。この邸内の様子から、なんとなく、ヘルモウはそんなことを推測した。
実際には、前日までに邸内の家財調度がすべて運び出されており、床の絨毯まできれいに剥がされて、すっかり空き家と化していたためで、事情を知らぬヘルモウらの目に、いかにもうら寂しげな空間と映るのは無理もなかった。
ヘルモウと護衛四騎士――あわせて五人は、ホールの奥へと歩をすすめた。
前面には長い廊下が伸びており、右手の壁沿いには、二階へ続くとおぼしき石階段が、ゆるやかなカーブを描いている。
「諸君らは、その廊下のほうへ進んで、一階の部屋を手分けしてあらためたまえ。ドアを片っ端から開けてゆけば誰かいるかもしれん。二階には私が行く。おそらくプリカ・ド・カスティージャがいるはずだ。最初の『審問』が済むまで、諸君らは上がってこなくてもよろしい」
ヘルモウはそう指図するや、護衛と別れて、ひとり階段をのぼっていった。
ヘルモウがさっさと階段の彼方へのぼり去ってゆくと、四人の騎士たちは、互いに顔を見合わせ、うなずきあった。
「プリカ・ド・カスティージャって、たしかまだ、七つか八つの」
「ああ。それも、生まれつき病弱で、ろくに外に出たこともないとか」
「どう考えても、異端ってわけではないよな」
「だが、ヘルモウ様が、そうと言えば、そういうことになる。今更だが」
「どうでもいいさ。ヘルモウ様がお楽しみになった後は、我らにも『審問』の役儀を回してくれるそうだぞ」
「さすが、ヘルモウ様は話がわかる御方だ。なにせ子供の『審問』は格別だからな。これほど高尚な仕事は他にあるまい」
「レダ・エベッカにはがっかりさせられたが、今度は期待できそうだな」
ささやきあいながら、騎士たちはホールを抜け、廊下へ入った。
途端、壁面の灯火がちらちら揺れた。
どこからともなく、生暖かい風が吹いてきた。
見れば、廊下の右手に、半開きのドアがある。
「なんだ?」
「気をつけろ。何か変事が起こったのかもしれん」
四人は、佩剣の柄に手をかけながら、慎重に廊下を進み、開いたドアの向こうへと踏み込んだ――。
二階に上がると、廊下には照明ひとつなく、真っ暗な闇が広がっていた。
ヘルモウはランタンに火を灯して掲げ、一歩、また一歩、ゆっくりと廊下を探索していった。
途中、左右のドアを開けると、おそらく使用人の待機場所とおぼしき小部屋があったが、いずれの部屋も室内はがらんどうで、家具のひとつも見出せなかった。
「おかしい。これでは空き家だ。……しかし、伯爵どのは、そんなことは言っていなかったが」
不審に思いつつ、ヘルモウが廊下の角を曲がると、突き当たりに木製の大きな扉が見えた。
ドアはわずかに開いていて、黄色い灯火が廊下に洩れ射している。
どうやら、ここで間違いなさそうだ――と、ヘルモウは、やや足を速めて、ドアへ歩み寄り、取手を掴んで、そっと開いた。
部屋はそこそこに広い。白い石壁に木張りの床。奥のほうに、古びた木製のベッドとサイドテーブルがあるほかには、何もない。そのサイドテーブルの上に、小さな蝋燭の火が灯って、ささやかに室内を照らしていた。
ベッド上、何者かが、毛布にくるまって横臥している姿が見える。
ヘルモウは、これぞプリカ・ド・カスティージャであろうと確信して、室内へ足を踏み入れた。
「よう。やっと来たな」
途端、ベッド上の人物が、むっくりと上体を起こして、顔を向けてきた。
燭の灯火に浮かび上がる、やけに見覚えのあるその顔に――ヘルモウは驚愕し、目を剥いた。
ヘルモウにとっては、あまりに唐突で、あまりに意外な顔が、そこにあった。
「どういうことだっ? おまえは――まさか、おまえは」
「落ち着けよ、おっさん。オマエが来るのを待ちわびていたんだぜ? ふふっ」
そう告げて――レダは、とびきりの笑顔をヘルモウに向けた。
同時に、ヘルモウの背後で、木扉が軋みをあげて、ひとりでに閉じた。
「レダ・エベッカ……! なんで、貴様がここに」
「さーて、なんでだろうな?」
「ふっ、ふざけるなっ、プリカ・ド・カスティージャはどうした、まさか貴様が」
「プリカなら、とっくに移動済みさ。どのみち、オマエが気にすることじゃない。そんなことより、これからオマエが辿る運命について心配するんだな」
言いつつ、レダはひょいとベッドから飛び降り、サイドに掛けておいた三角帽子を掴んで、すっぽりと被った。
その姿を前に、ヘルモウは、思わず一歩、後ずさった。
足に震えがきていた。
本来ならば、小さな子供にすぎないレダを、ヘルモウがそう怖れる道理はない。
だがこのときは、ヘルモウもよほど動揺していたとみえ、赤いドレスに三角帽子のレダの姿が、まるで悪鬼か怪物でもあるように映っていた。
そもそも、レダ・エベッカなる異端者は、とうに火炙りにされて死んでいるはずの身であった。
「魔女殺しの丘」における一連の事件については、むろんヘルモウも聞かされていたし、今回のエリゴスの出征は、そのレダを追討するためのものである。
そうと知ってはいても、実物のレダが――かつてヘルモウじきじきの拷問に全身苛まれ、廃人同然にまでなっていた子供が――いまこうして、何事でもないような五体満足な姿で眼前に立っている状況は、あまりにヘルモウの理解を超えていた。
殺しても死なないような、得体の知れぬ化け物がここに実在して、よりによって自分を待ち構えていた――という現実が、ヘルモウの根源的な恐怖心を惹起した。
ヘルモウはレダに背を向け、ドアノブに手をかけた。いかなるわけか、押しても引いても、ドアはぴったりと閉ざされて動かない。
いよいよヘルモウは恐慌をきたし、肩越しにレダの姿を窺いながら、両手で激しくドアを叩き、助けを呼んだ。
「おい、誰か! 誰かっ、いないのかッ! ここを開けて――開けてくれぇ!」
レダは、冷然と笑みを浮かべて、右手を前に差し出した。
レダは直接触れていない……にもかかわらず、ヘルモウの襟首が、何やら見えざる手によって、ぐいと強く掴まれ、その身体は、宙に持ち上げられた。
「わあっ! なんだ、これはぁ!」
「魔法さ」
レダが答えると、ヘルモウは空中に浮かされた手足をばたつかせながら喚いた。
「ばかな、そんなもの、あるわけがっ……! はは離せぇ! 誰かいないか! 助けてくれぇ!」
「オマエも聖職者なら、ここは他人より、女神や聖女のご加護にでも縋ってみるべきじゃないのか? ほれ、祈ってみろよ。うまくすれば奇跡が起きて、助かるかもしれんぞ?」
「こやつ、主を愚弄するか……!」
レダは深々と溜息をついた。
「主とやらを、最も愚弄しているのはオマエだろ。これまで、いったい何人、無実の男女をその手に掛けてきたんだ?」
「だまれっ、無実などではない、異端者というのは……」
「議論する気はねーよ。自覚が無いなら、それもいいさ。だが――アタシ個人としても、オマエにゃ随分世話になったからなぁ。この変態が。落とし前は付けさせてもらうぜ?」
レダの眼光が、氷刃のようにヘルモウを射抜いた。
レダにも、誤算はあった。
四歳にして「魂の記憶」を取り戻した後、レダが当面の活動目的としたのは、魔女狩りに狂奔する女神教の勢力に、なるべく痛烈な一撃を加えること。
それによって、女神教の最奥部にいまも潜んでいる、レダの「宿敵」を、表舞台に引きずり出す――。
そのために、レダはあえて周囲に目立つような行動を取り続け、結果的に西方最大の騎士修道会たるエリゴスを釣り上げることに成功した。
エリゴスのほうでは、たまたまカスティージャ領の教会に駆け込んできた告発者の証言を受けて、半信半疑で調査に乗り出したところ、実際に不審な点が見え隠れするという報告が寄せられ、身柄確保へ動いたものである。
それらすべて、レダが最初から策をめぐらせ、そうなるように仕組んでいたにすぎない。
レダの当初の目論見では、エベッカ村で騎士らに拘束された後、王都のエリゴス塔に到着した時点で、可能な限りの霊力を解放し、その場で一気にエリゴスの総本部を壊滅させるつもりでいた。
ところが、檻車に揺られて、いざ王都まで送られてくると――。
(なんてこった。これじゃまったく力が出せない)
レダの霊力の触媒となる物質……第五元素、エーテル。
この地上では、レダを含め、ごく少数の存在のみが、この元素を知覚し、霊力触媒として扱う能力を擁している。
本来、エーテルはどこにでも漂っていて、レダにとっては、いつでも無尽蔵に取り出すことが可能なエネルギー源である。
それが、王都の大気中には希薄……というより、ほぼ存在していなかった。
(くそ、どうなってやがる)
レダは内心で毒づきながら、体内に残ったわずかな霊力を駆使し、エリゴス塔の内部に感覚を張り巡らせ、くまなく走査した。
ほどなく、本部敷地内の聖堂に安置されている像か、モニュメント……詳細な形状までは不明だが、ともあれ礼拝の対象となっている何らかの物体が、大気中のエーテルを吸収・遮断していることを感知した。
(シモーヌの罠か……! アタシらを弱体化させる仕掛けになっていやがる)
そう悟ったときには、すでに手遅れだった。
レダはエリゴス塔の内部に監禁され、まったく無力な子供として、ヘルモウの主導による凄惨な拷問を受けたのである。
レダは、自身の痛覚や触覚を完全にカットし、自ら生ける屍に近い状態となって、かろうじて激しい責め苦に耐え続けた。
ヘルモウや騎士たちは、無抵抗なレダを苛みながら、たびたび歪んだ劣情をすら向けてきた。
口に出してはもっともらしく、罪の浄化やらを唱えつつ、実際にやっていることは獣類の所業でしかない。これが魔女狩りの現場の実情であり、聖職者の皮をかぶった外道の存在に、レダがあらためて深刻な侮蔑をおぼえたことも確かである。
こうした拷問と虐待は半月も続き、日ごと肉体の損傷は深まり、目を覆うばかりであった。
このまま推移すれば、生命力が尽きかねない――さしものレダも少々焦りはじめたところで、ついに根負けしたヘルモウが、でたらめな自供を捏造して、レダを火刑場へと送り出した。
魔女殺しの丘は、王都の中心からは離れた郊外にあり、大気中には低濃度ながらエーテルが漂っていた。
刑場につながれたレダは、ようやく反撃の機会が訪れたことにほくそ笑みながら、その霊力を解放したのである――。
異端審問官ヘルモウ・バッサーモが、真に敬虔な女神教信徒であったならば、あるいは自供を取ることにどこまでも固執し、あげくレダが死ぬまで拷問を続けた可能性もある。
実際には、ヘルモウは嗜虐趣味の異常者であり、聖職者の立場と魔女狩りという格好の口実を利用して、欲望を満たしている小人にすぎなかった。
いかなる拷問にも無反応なレダに手を焼き、結局、異端審問官としての体面を保つために、自供の捏造を行なったことは、拷問のプロを自認するヘルモウにとっては痛恨事であったにせよ、結果としてレダの窮地を救ったともいえる。
――とはいえ、それはヘルモウを容赦すべき理由にはならない。
己の誤算から出たものとはいえ、ヘルモウの手にかかって、危うく死にかけた。
ヘルモウにも、きっちり痛い目に遭ってもらわねば、到底釣り合わない。その程度できれいに清算できるものでもないが……。
レダは、見えざる霊力の縄をもって、ヘルモウの四肢をがんじがらめに縛りあげ、部屋の中央に吊り下げた。
「さて」
すっかり身動きを封じられて、宙に浮かぶヘルモウの醜態を、レダは三角帽子の鍔ごしに、厳しい眼で見上げた。
「はっ……離せ! 私は、教皇国の正式な認可を受けた審問官なのだぞ! こんなことをして、ただで済むと……!」
ヘルモウが喚く。
本音では信仰心の欠片もない俗物の分際で、この期に及んでなお教皇国や異端審問官の権威を振りかざそうとする。
その浅ましさが、レダには笑止の限りであった。
「アタシはおまえとちがって、他人を嬲って喜ぶ趣味はないんでな。おまえの罪業の決着は、おまえを恨んでやまない連中の裁きに委ねる」
「なにを、戯れ言を……!」
「だがその前に、アタシからも、散々いたぶってくれた礼だけはさせてもらう」
レダが右手を前へ差し上げると、途端、空中に、光り輝く「右手」が発生した。
レダのものよりも大きく、およそ成人男性の右腕ぐらいのサイズである。さきほどヘルモウの襟首を掴んだのと同種の能力であろう。
その光る右手が、宙を泳ぐように浮遊し、ヘルモウの下腹部を、衣服の上から、がっしと掴んだ。
「潰れろッ!」
言いつつ、レダは右手をぐっと握りしめた。同時に、光る右手が、ヘルモウの下腹部を、情け容赦なく一気に握り潰し、ねじ切ってしまった。
「…………!」
ヘルモウは、声にならぬ絶叫をあげ、二、三度、全身を激しく痙攣させたと見えるや、ほどなく白目を剥いて気絶した。
「ふぅ、だらしない。こんな程度で失神しちまうとは」
レダは、小さく息をついて、光る右手を消し去った。
「少しは苦しんだかな? アタシからのお礼は、これくらいにしといてやるよ。あとは死後のことだ」
言いつつ、思念を練って空気を操り、風の刃をさし招いて、ヘルモウの首筋をひと薙ぎした。
「だが、これで終わりじゃあないぜ。冥界にゃ、おまえを恨んで復讐の時を待ってる死霊どもがゴマンといる」
ヘルモウの首が、ゴトリと床に落ち転がる。
「今度は、おまえが永遠に拷問される側だ。せいぜい楽しみな」
レダは少しばかり溜飲を下げたように、その首へ静かに微笑んでみせた。