05:痩せ畑の青麦の穂
カスティージャの野に、夜の帳が降りた。
領館から北へ三十里ほど、エクスン河の支流の畔に、カスティージャ伯の別邸がある。その門内へ、二頭立ての馬車が慌しく駆け込んだ。
「プリカ、よく聞きなさい」
カスティージャ伯は、馬車から降り立つと、すぐに家僕に命じて、孫娘のプリカを呼びたてた。
「おまえには、これから、エベッカ村へ行ってもらう。これに乗ってゆくがいい」
突然、そう告げられて、プリカは不思議そうに祖父の顔を見上げた。
「どうしたのですか、お祖父さま。そんなに慌てて」
プリカは今年七歳になったばかり。生来病弱で背丈は伸びず、身体は痩せ、手足は棒のように細く、肌は青白い。
弱々しい挙措は吹く風にも耐えられなさげで、その顔つきも、儚さを通り越して、幽玄の境にでもあるような陰鬱な影を帯びている。
普段はこの邸宅でわずかな家僕に守られて静養しており、滅多には外出もしないが、伯はつねにこの小さな孫娘を気にかけて、なにくれとなく面倒を見ていた。
そもそも、伯が王宮を退いて門地にひきこもるようになったのも、両親……伯の息子とその妻が早逝し、ひとり残されてしまったプリカの身を不憫と案じてのことである。プリカは、息子夫妻が伯に残した、かけがえのない珠玉であった。
「あの村に、おまえより少し年下の娘が住んでおる。レダというてな」
「レダ? 噂は聞いたことあるけど……たしか、魔女狩りで連れていかれたって」
「そうだ。だが、もう王都から帰ってきておる。実は、つい先ほど、私のもとへ訪ねてきてな」
「えっ、そうなの?」
「レダは、おまえの身に危険が迫っていると、私に知らせてくれた。私も、最初はまさかと思ったが、本当にレダの予想は当たっていた」
伯は、先刻エリゴスの騎士から手渡された書簡を開いて、内容をプリカに示してみせた。
そこには、教皇国と聖エリゴス騎士修道会総長の名のもとに、カスティージャ伯領への様々な要求が列挙されており――。
最後の一文に、伯爵家の孫娘プリカに異端の嫌疑がかかっているため、一時身柄を預けられたし――と、明記されてあった。
「わたしに、異端の疑い?」
プリカは目を丸くして呟いた。
「それは口実だ。ようするにエリゴスは、おまえを人質に取るつもりなのだよ」
「どうして?」
「私が素直にエリゴスへ協力するように……ということだろうな」
そう語りつつも、それだけが目的ではなかろう――と伯は想像していた。
レダをおびき寄せる生餌として、プリカを用いるつもりではあるまいか。
もしもレダが現れなければ、最悪、そのままプリカをレダの身代わりとして処刑することまでやりかねない。
それは、エリゴスにとっては正義の執行に他ならぬが、部外者にはひたすら理不尽な暴挙でしかない。そして伯に、その理不尽に抗う力はなかった。
いかなる世俗の権力――王国も、大貴族も、女神教の権威の最上位たる教皇国の意向に逆らうことは許されない。
ゆえに、教皇国の認可を受けた騎士修道会は、宗教権威と独自の武力、経済力を背景として、世俗の権力の掣肘を一切受け付けず、宗教的確信の赴くままに行動する。それが現今の大陸諸国の世情であった。
魔女狩りなる凶行が横行する現状も、そのような宗教権威と権力のいびつな結合による、ある種ヒステリックな宗教事情の反映といえるものである。
「どのみち連中におまえを渡すつもりはない。村への受け入れは、レダが話を付けてくれるそうだ。すぐに出発しなさい」
「わたしだけ? お祖父さまは一緒に行ってくれないの?」
「できれば、ついて行きたいが、私が不在となれば、エリゴスはこの近辺でどんな乱暴狼藉を働くかわからん。領民にも難が及ぶこと必定だろう。おまえだけなら、どうとでも言い逃れはできる。大丈夫、そう長いことではない。じきに迎えに行くから」
そう諄々と説かれても、プリカはなお、戸惑い逡巡している様子だった。
まだ七歳の子供である。無理からぬことだが、あまり時間の猶予もない。いかにすべきか――と、伯が思いかけたところで、プリカは小さくうなずいてみせた。
「……わかりました。お祖父さまを困らせるわけにはいきませんから」
「おお、行ってくれるか」
伯が安堵するさまを見て、プリカは、かすかに笑みを浮かべた。子供なりに、祖父に心配をかけさせまいと気遣っているようにも見える。
もとより、この病弱の孫娘を守るためならば、たとえ悪魔に魂を売ってでも――とまで伯は思っていた。
かのレダ・エベッカは魔女を自称しているが、あまりに凡人離れしすぎていて、あるいは小さな悪魔そのものかもしれないとすら感じる。だとしても、伯はいっこうにかまわなかった。
そのレダが、伯の同志として、プリカを保護してくれるという。伯としては、ここは賭けどころであった。レダを信じて全額を投じ、プリカを守り切る。それ以外の選択肢はなかった。
「エベッカ村まで、少し距離はあるが、急げば夜明け頃には着けるはずだ。馬車に慣れていないおまえには、少しきつい行程になるかもしれん。あまり動かず、なるべく身体を休めておくのだぞ」
「はい、お祖父さま。行ってきます」
プリカを乗せた二頭立ての馬は、車輪の音高く、エクスン河の河原道に沿って、北へと駆け出し、夜霧の彼方へ溶けていった。
その様子を見送ると、伯は家僕らを督して、別邸内の家財を、一部の家具類だけを残して、続々と外へ運ばせ、荷車へと積み込ませた。
「本館のほうへ運べ。今夜中に、ここは空き家にしてしまうからな。さあ急げ」
夜は次第に更けてゆく。
最後の荷車とともに、伯が別邸を去ってほどなく。上空に暗灰色の密雲が次第に垂れ込み、激しい雷光が雲間に閃きはじめた。
プリカ・ド・カスティージャは、生まれて初めて、馬車の中で一夜を過ごした。
伯爵家の高級馬車とはいえ、ろくに舗装も行き届かない田舎道を馳駆するとあって、同行した家僕たちは、プリカを案じて工夫をこらした。
プリカの半身を大きな毛布と木綿のシートですっぽりとくるみ、数人がかりでプリカの小さな身体を左右から支え続けたのである。
その甲斐あってか、プリカは体調を崩すこともなく、夜明けまで一時、浅い眠りに落ちていた。
一夜が明ければ、すでに馬車はカスティージャ地方の北辺にさしかかる。
大山脈の懐に抱かれる小集落が、遠く朝靄に霞んで見えはじめていた。
空は厚い雲に覆われていたが、雨は降っておらず、風も穏やかに凪いでいる。
杉並木をくぐり、林道を抜けると、黄色い田園のうちに、もう点在する家屋、その間を行き交う人や驢の影も視界に入りはじめていた。
御者は速度を緩め、荒れた道を慎重に進めてゆく。小さな人影が、道の真ん中に立って、馬車の行く手を阻んでいる様子が見えた。
御者は、見覚えのあるその姿に驚き、慌てて手綱を引いた。この御者はカスティージャ伯の領館に仕えているので、レダの顔を見知っていたのである。
「よっ、来たな!」
そのレダが、満面の笑顔で声をかけてきた。小さな身体に真紅のドレス、頭には黒い三角帽子をすっぽり載せて。
「こっから先には、そんな大きな馬車を止める場所はないからな。そこの脇道に入って、集会所まで行きな。あとは里長のじっちゃんが案内してくれるからさ。プリカって子は、ちゃんと乗ってるか?」
そう呼ばれて、プリカは、客車の窓から顔を出した。
「プリカは、わたしですけど……」
「ほう。これはまた、痩せ畑の青麦の穂みたいな顔だな」
「どんな顔!?」
開口一番、反応に困るような一言を投げられて、プリカは当惑した。
「あはは、冗談だよ。あたしはレダだ。領主のじーさんとも、村のみんなとも、もう話をつけてるからな。しばらく、ここでのんびりしていけよ」
「は、はい。えっと……レダちゃん?」
「それでいいぜ。うちのかーちゃんも、そう呼んでくれてるしな」
「じゃあ、レダちゃん。……噂を聞いたけど、魔女狩りに遭ったって……」
「ああ、アタシは魔女だからな。そりゃ魔女狩りにも引っ掛かるさ。だが『本物』は、あいつらにだって殺せやしない。だから、アタシはここにいる」
「本物……?」
首をかしげるプリカへ、レダはかすかに笑みを浮かべた。
「証拠を見せてやるよ。そら」
レダが指をパチンと鳴らすと、たちまち、プリカの足元が、なにやら、ふんわりとした感触に包まれた。
同乗している家僕たちが驚声をあげている。なんともいえぬ爽やかな芳香が、プリカの鼻をくすぐった。
プリカが慌てて振り返ってみると、客車の中が、見たこともない真っ白い草花で埋め尽くされていた。どこから出現したものか、座席まですっぽり覆われている。
家僕たちもみな白花にまみれ、ただもう驚くやら戸惑うやら大騒ぎ。プリカは目をぱちくりさせて、再び窓の外を振り返った。
レダは得意げに微笑んでいる。
「冥界にのみ自生する薬草でな。花もキレイだが、地上じゃすぐ枯れちまうんで、鑑賞には向かない。枯れる前に煎じて飲めば、少しは顔色が良くなるだろう」
「薬草? これが? ねえ、いま、なにをしたの?」
「魔法だよ。アタシが本物の魔女だって、これでわかったろ?」
「魔法……! これが」
客車から窓外へ、ふわり漂う白い花弁。それを目で追ううち、空から舞い降りてくる黒い影が、プリカの視界に映った。
それは、巨大な鳥だった。四枚の翼をはばたかせて、静かにレダのそばへ降り立ち、金の瞳をプリカへ向けてくる。
プリカは、もう驚きを通り越して呆気に取られ、目を丸くしていた。
「こいつはアタシの使い魔だ。取って食ったりしないから安心しな。残念ながら、もう時間が無いんでな、詳しい説明は、また後日にしよう」
レダは、巨大な怪鳥の背に、ひょいと飛び乗った。
「じゃあな、プリカ。いい子で待ってろよ!」
そう笑顔で告げながら、レダが黒い怪鳥の首をぽんと叩くと、それに応えるように、怪鳥は、大きな頭をぐっともたげて、四枚の翼をはばたかせた。
レダを背に乗せたまま、黒い怪鳥は曇天の空へ舞い上がり、南の彼方へと飛び去ってゆく。その異様な情景を、プリカと家僕たちは、ただ呆然と見送っていた。
「レダ……ちゃん」
ふと、プリカの唇から、その名が、かすかに洩れ出てきた。
青白く痩せた頬に、いつしか微紅がさしはじめている。
白い花、黒い鳥――それらにも大いに驚かされたが、この短い邂逅で、魔法よりなにより強く、プリカの意識に焼きついたのは……。
赤いドレスをひるがえすレダの、元気いっぱいな笑顔だった。