27:記憶と記録を司る者
過日、都市国家群において――戦神ポーラ、狩猟神メイ、雷神スージーら、覚醒した神々の座の女神たちが、三つの都市で騒動を引き起こしていた頃。
教皇国からは、聖女シモーヌの密偵たる小鴉が放たれていた。
かの三女神、もしくは「本物の魔女」たち――少なくとも、被害者である都市国家の人々にとって、彼女らは、そうとしか呼びようのない存在であった――が、それぞれ散々に暴れて立ち去った後、小鴉はそれらの都市の上空から、被害状況をつぶさに記録した。
小鴉は、かつて、こことは異なる世界における、ひとかどの女神であった。こちらの世界では「神格」を維持できず、現在の外見は小さな禽獣となり果てているが、いまだ彼女の身には、神の証たる「権能」が備わっている。
すなわち、記憶と記録を司る神――それが小鴉の本分であった。
ひと通り各地を巡り終えると、小鴉は而して「魔女」たちの追跡に入った。盟主たるシモーヌから、そう指図を受けていたからである。
飛び去った方角から、三女神がまっすぐ王国へ、それも王都へ向かっていることは明らかだった。可能であれば、気付かれぬよう、ぎりぎりまで接近し、外見的特徴を記録しておきたい――ほどなく小鴉は、まっしぐらに王都目指して空を疾駆する双頭の鷲の姿を捕捉した。
しばし距離を取りつつ追跡を続け、いよいよ王都へ接近しかけた頃、地上から不意に、剣呑なる気配を感じ取った。
小鴉の全身を、悪寒が駆け抜けた。と同時に、視界に靄がかかりはじめる。いつの間にか、左右の翼が凍りついていた。
急速に意識が薄れ――小鴉は、力なく、地へ墜ちていった。
小鴉が意識を回復すると、そこは見知らぬ石壁の小部屋だった。窓はなく、壁面の燭台には炯々たる灯火が揺らめき、狭い室内を照らしている。
どうやら、テーブルの上に寝かされているようだった。
とくに束縛などは受けていないが、まだ全身が凍りついたように、身動きが取れない。
足音が響き、誰か、テーブルの傍らへ歩み寄ってきた。
「ようこそ、王都へ。シモーヌの御使いどの」
涼やかな声が、小鴉へささやきかけた。
テーブルに横たわる小鴉をのぞきこむ、黒髪白皙の美青年。
その穏やかな、しかし全身ぞっと総毛立つような、妖艶凄絶なる微笑が……小鴉の視界の中、燭の明かりに、ぼうっと浮かび上がっていた。
王都上空における「神々の戦い」のまさに直前。
接近する「異界」の気配を、いち早く感知したのは、仔ウサギの魔神パイモンであった。
ちょうどレダのもとを離れ、魔神ストラスと合流しようとしていた矢先のこと。
このとき既に、主人たるレダとアンズーは、接近しつつある戦神を迎え撃たんと上空へ舞いあがっていた。
パイモンは、急ぎ王都外城門へ赴き、ストラスに伝えた。
神々の座の大神たちとは別の、なにやら異様な気配が近付いてきている。あるいは、自分たちの手には負えない相手かもしれない……と。
事態はストラスから、すぐさま地上のノガレへ伝達された。
「話はわかりました。であれば、女神様の邪魔にならぬよう、こちらで対処しておきましょう」
ノガレは貴族や王侯らを外城門へ引率し終えて、役人らへの指示や状況説明などに追われていたが、ストラスからの知らせを受けると、素早く対応に動いた。
ノガレはストラス、パイモンらと合流し、「異界」の気配の迫る方角へ、ピンポイントで強烈な冷気を送り込んで目標を凍らせ、墜落させたのである。
傍らでそれを見ていたパイモンが、少々意外そうな反応をしていた。
「あのー、それ、魔法ですよね……? 本物の」
この世界の地上には、かつて「本物の」魔法が存在していた。それは古代、魔界から地上へ召喚された魔神たちが、人間たちへ伝えた、物理現象制御の技術体系である。
しかしシモーヌの女神教の台頭ともに、禁忌の呪法とされ、その技術はことごとく失われた。いまでは魔法の詳細は忘れ去られ、ただ漠然としたイメージだけで語られる不可思議な異能、はたまた怪奇現象のごとき扱いとなりおおせている。
「その昔、東のほうで教わったのですよ。ほんの嗜み程度ですけどね」
ノガレは涼しい顔でパイモンの問いを肯定したが、それ以上詳しく語ることはなかった。
ノガレは、捕獲した「密偵」の身柄をストラスに託し、ひそかに郊外のモランソルニエ侯爵邸へ運び込ませた。
ノガレ自身も、その後から、そ知らぬ顔でレダたちを案内して、侯爵邸へ入っている。
深夜、ノガレは侯爵邸の地下室へ赴き、「密偵」と対面した。
「ほう。かなり濃密な『神気』の残滓……これは、思わぬ拾い物をしたかもしれません」
地下室の台上にて意識を取り戻した小鴉。その全身を観察しながら、ノガレは、端正な頬を、わずかに歪めていた。
「では、色々と聞かせていただきましょう。ああ、あなたは、じっとしているだけでいいのですよ。すべて、こちらで勝手にやりますので」
ノガレは、小鴉の精神にじっくりと干渉し、潜り込み、内側からその正体を探り当て、引っ張り出した。
ギョーム・ド・ノガレの、内なる存在……不死人の能力によって。
不死人とは、本来実体を持たず、人間の精神を侵食し、その肉体に憑依して活動する、高次元精神生命体の総称である。この世界より一段上位の精神世界から「墜ちて」きた存在であるとされる。
シモーヌの女神教の経典においては、人の弱き心につけこみ、悪へと堕落させる者……すなわち悪魔として定義されており、現在でも地上には複数の個体が存在していた。
――ただし、ギョーム・ド・ノガレの肉体は、不死人に乗っ取られているわけではない。
むしろ、かつて自身の肉体に憑依をはかった、どこの馬の骨とも知れぬ不死人の精神を逆侵食によって破壊し、その寄生憑依能力を乗っ取って、自身の能力とした――という経緯の持ち主である。
そういう意味では、ギョーム・ド・ノガレは、厳密には不死人そのものではなく、不死人を取り込み、使役している者、というべきであろう。
その能力をもって、ノガレが小鴉の肉体と精神から引き出した、膨大なる記憶。
「これは――!」
ノガレ自身、その拾い物の大きさ、情報の重要性に、やや驚きもし、興奮すら面にあらわしていた。
神格を喪失せし旧き神――異界の女神、記録と記憶を司る者、セシャト。
彼女の記憶は、大半がヘリオポリスという、この世界とは異なる次元に存在する「神域」と、そこに住まう異界異形の神々、それら神々に服属する異界の大地と住民たちに関する膨大な記録であった。
――ノガレ自身、ヘリオポリスの存在や、その神々について、もともと少なからぬ知識がある。そういう意味で、セシャトの記憶と記録は、ノガレとしても満更知らぬわけでない情報が大半を占めていた。
しかし、実際にそれらの神と邂逅した経験はノガレにはなかったし、また神々という当事者間でなければ到底知りえない、様々な実情、意外な内幕なども、そこには赤裸々に記録されている。
ノガレは驚嘆と興奮に打ち震えながら、セシャトの記憶を取り込むことに夢中になった。
ただ、ノガレにとって疑問だったのはシモーヌと異界の神々の関係である。
なにゆえ、この両者が知己であるのか。あまっさえ、本来なら縁もゆかりもない別天地であるこの世界において、互いに協調するような動きを見せているのか。
ほどなく、その解答も、セシャトの記憶から得ることができた。あくまでセシャトの視点からではあるが、シモーヌの「実体」とその過去に関する詳細な記録を、ノガレはそこに見出したのである。
「エジプシャン・メーソン……。確かに彼は、そんなものも作っていましたが……よもやそこから、現在まで関係が続いているとはね」
ノガレは、嘆息とともに、おもむろに不死人の力を小鴉の肉体から引き上げ、憑依を打ち切った。
――必要な情報は、全て抜き取り終えていた。
あとに残されたのは、ノガレの侵食によって精神を破壊され、生ける屍と化した、哀れな旧神……セシャトの残骸だった。




