23:超級魔女大戦
暁闇。
王都全域に、突如として避難令が発布された。
宰相ギョーム・ド・ノガレの指揮下、王都各地の行政府の役人たちを総動員し、王都の中心市街に居住する全住人へ、城壁外への避難を呼びかけたのである。
たちまち王都は騒然、慌ただしい物音と叱声怒声が各所に飛び交いはじめた。
「もうすぐ、大きな災いが訪れる! とどまっていれば生命が危ういぞ!」
「王宮の方々も、すでに避難をはじめられた! あれあれ、あそこに見ゆる馬車の列がそうだ! あそこに国王陛下もおられる! 汝ら、すぐに続いて来い!」
「持てるだけの家財は持っていくがいい! だが避難の列に遅れるな! 生命あっての物種だぞ!」
中心市街は一時、恐慌状態に陥りかけたが、ノガレの精力的な指揮と、役人たちの献身的な働きにより、さほど大きな混乱は起きなかった。王都の住民らは、役所側の誘導にまかせて真っ黒い列を連ね、続々と東西の大門をくぐって、夜明けまでにおよそ八割までが、無事に市外へと逃れ出た。
一方、貴族街には、ノガレ自らが説得と誘導に赴いた。
いくつかの大貴族家は、すでにノガレと密約を結び、レダにまつわる、ある程度の事情も聞かされている。
そのレダ当人が、王都住民へ、市外への退避を勧めている――そうノガレに説かれれば、彼らには、否も応もなかった。これぞわれらの真なる女神に忠誠を示す最初の機会ならんと、大貴族たちはむしろ率先して避難指示に従ったのである。
レダは王宮たるベシュアル大宮殿の主塔最上部、その屋根にちんまりと腰かけ、地上の様子を眺めおろしていた。その傍らには、見るも愛らしい仔ウサギと、白い小鳩が屋根に並んで、なにやらこそこそ囁きあっている。いうまでもなく魔神パイモンと魔神ストラスである。
レダの見たところ、地上では、すでに王族が全員避難を終え、王宮やその周辺部は完全に無人となっている。先日エリゴス塔でノガレに捕縛され、数箇所の拘置施設に分散収容されていた騎士団員たちも、厳重な監視下、全員が王都外へと引っ張り出されていた。
その他の区域も、およそ避難は完了していたが、何箇所かの女神教会関連の建物だけは、なかなか避難誘導が進んでいない。
衛兵隊が突入して、避難を強行させようとしているが、一部の高位聖職者らが、頑としてその場を動こうとしない様子。
レダは、しばし注意深く、その状況を観察していた。
(王権の指図には死んでも従わぬ……か。この期に及んで、強情なことだ)
レダは、傍らの魔神ストラスに言伝てして、宰相ノガレのもとへ飛ばした。
教会関連施設の説得を中止し、部隊を撤退させるように。ただ従順な者のみ連れて行けばよし――と。
「巻き込まれて死にたいというなら、無理に連れ出すことはない、と」
パイモンが呟く。
「そうだな。放っておけばいい」
たとえ王権に刃向かってでも、聖女の教えに殉じて落命するのは、彼ら聖職者にとっては本望かもしれない。
もっとも、これからこの場で起こる出来事は、女神教とは何の関係もない、神々の座に連なる者たちの内輪喧嘩にすぎない。
そんなものに巻き込まれて、無為に死ぬとあれば、彼らの魂は、決して浮かばれないだろうが――。
「アタシも、そこまで責任持てねえよ」
レダは、心底ひややかな目で、眼下の街並みを一瞥した。
夜が明ける――。
王都のはるか東を覆う黒い山嶺の狭間から、真っ赤な旭日が浮き上がり、地表を照らし始める。
一朶の雲とてない快晴。
「パイモン。おまえもノガレのところへ行け。ストラスと一緒に見物してろ」
レダは、そう告げて、主塔の屋根にすっくと立つや、前へ倒れこむように、ふわりと宙へ身を投げた。
と、見る間に、横あいから一陣の黒影がレダめがけて交差し、その小さな身体を攫うように受け止めた。怪鳥アンズーである。
そのまま、ゆったりと四枚の翼を広げ、アンズーは王宮直上に浮遊静止した。
レダは、アンズーの背に立ち、あらためて遥か彼方の空を眺めやった。
「おー……まずは、あいつか」
レダの視界に、小さな影が浮かんでいる。
いままさに、獲物を見定めた猛禽のごとく、レダのもとへ、まっしぐらに接近してきている。
次第に、その姿がはっきりと見えてきた。
空を飛ぶ長大な蛇のような怪物の背に、物凄まじい形相の十六、七歳くらいの少女が立ち、黒い貫頭着に、身長の三倍も長い銀の鉾をかざして、レダを睨み付けている様子。
少女を乗せた蛇龍が、大きな顎をカッと開いた。
途端、その口から、紅く眩い光がほとばしった。細い光線が斜めに空を走り、レダの真正面を貫かんとする。
レダは、驚いた様子もない。
つと右手を上げて、小さな掌で、その光条をしっかと受け止め、打ち消した。
その間にも、両者の距離が、ぐんぐんと詰まってゆく。
『そこにいたかぁ! 主神!』
蛇龍の背から、貫頭着の少女が、眦を裂き、喚声をあげて、長い鉾を振り回す。
その先端の三尖刃からは、激しい炎が噴き出ている。少女が鉾を一閃させるたび、轟音とともに、炎の渦が巻き上がり、巨大な業火が天を焦がし、空の一角を真っ赤に染め上げてゆく。
燃え盛る炎塊が、レダの頭上へと降りかかってきた。
レダは、アンズーの背の上で、両手を前にかざした。
青い冷気がレダの周囲を覆う。極低温の障壁が空に張り巡らされ、猛炎の侵攻を完璧に阻んだ。
レダが口を開く。
『ぬるいな。まだ寝ぼけているのか? 戦神よ』
その声は、殷々と空に響いた。さながら天から降ってくる詠唱のごとく。
神声――神々の座に連なる大神たちが、地上に啓示を降ろす際に用いる、力ある言語の総称という。
『ぬかせ! まだまだ、これから――』
蛇龍の少女が、これも四方に響き渡る神声で応えかけたとき。
『楽しそうなことをやっておるな。妾もまぜよ!』
新たな黒影が彼方に生じ、猛然と接近してきたと見えるや、旋風のごとく、邪龍の横合いから、レダめがけて飛び込んできた。
巨大な双頭の鷲にまたがる、年十歳ぐらいの少女。
『受けてみよ、主神!』
少女の右拳が、月光のごとく光り輝いている。勢いよく前へ突き出すと、まばゆい黄金の衝撃波が巻き起こり、風を裂き、うなりをあげて、レダへと襲いかかってきた。
『狩猟神か。相変わらず、威勢がいいな』
レダは、左手をあげて、その衝撃波を軽々と受け止めてみせた。
双頭の鷲の少女が、感嘆の声をあげる。
『おお、さすがは! ならば――』
『ちょ、てめぇ、横から勝手に――ええい、やってやらぁ!』
思わぬ乱入者に、邪龍の少女もわずかに戸惑う素振りを見せたが、むしろ好機と見たか、レダへの攻撃を再開した。三尖の長鉾を振りかざし、さながら小型の太陽でもあるような特大の火炎球を作り出して、レダへと叩きつける。
レダの周囲を守っていた冷気の障壁が、音高く砕け散った。
狩猟神の拳が、続けざまに黄金の衝撃波を発する。その余波は地上にまで及び、直下にある王宮の尖塔群が、ばらばらと崩壊しはじめた。
市街地の一部では、戦神の放った猛炎が飛び火し、火災が生じ始めている。
戦神と狩猟神、二柱の大神は、地上の様子など気にするふうもなく、なおも、熾烈な猛攻を放ってくる。レダは、再び蒼い障壁を張り、それらを正面から受け止め続けていた。
『くたばれ、主神!』
『どどめだ! ゆくぞ!』
轟く神声とともに、激しい業炎と衝撃波が一体となって、輝く朱金の嵐渦と化し、レダを覆い包む――。
一方、地上では。
王都の城壁外へと避難した人々が、王都上空に繰り広げられる異変を、固唾を飲んで見上げていた。
その視界に映るものは、四枚羽の怪鳥の背に乗る赤いドレスの子供、巨大な蛇のごとき怪物の背で銀の鉾を振り回す少女、そして双頭の鷲の背で黄金の拳を振るう少女――。
彼女らが上空を飛び回り、口々に何か喚くごと、風は唸り、大気は凍り、猛火業炎は空を紅蓮に染め上げ、目にも眩い黄金の輝きは四方に広がり、形容しがたい光と炎の渦が巻き起こって、地上にまでも被害をもたらしている。
すでに王宮の中枢部は崩落圧潰し、中央市街の一部が真っ赤に炎上していた。
そして、地上の人々の耳にも、彼女たちの神声は届いている。
……自分たちは、いま、何を見せられているのか?
黒い四枚翼の怪鳥、その背にある赤いドレスの幼子は――あの「魔女殺しの丘」にいたレダ・エベッカではあるまいか?
レダ・エベッカは、すでに王国の司法によって、異端ではない、との明言がなされている。
それでは、いま王都上空で繰り広げられている異様きわまる情景は、いったい何なのか。
黒い大蛇の背から銀の鉾を振り、空を赤く染めつつ、レダめがけて激しい火炎を噴きつける少女。
双頭の巨鳥の背から、まばゆい黄金の拳を繰り出し、烈風のごとき衝撃波を間断なくレダへ叩きつける少女。
そして、自身の周囲に不思議な蒼い障壁を巡らせ、それらの攻撃を平然と受け止め、阻み続けるレダ・エベッカ。
「なんなんだ、あれは」
「……大きな災いって、あれのことなのか」
「どう見ても、人間ではないな」
「とすれば、あれらは異端の悪魔ではないのか」
「どうだろう……むしろ、あれはまるで――」
地上の人々は、口々に囁きながらも、まるで惹き付けられたように、上空の攻防をひたすら注視していた。
禍々しくも――激しく美しい、炎と黄金と蒼光のせめぎあい、そこから織り成される万華鏡のごとき輝き。
響き渡る彼女らの神声は、力ある託宣となって、人々の無意識を、遥か高みから押さえつけていた。
――目を離すな。
決して人には抗えぬ、大きな力が、いつしか人々の背を打ち、頭をもたげさせていた。
「まるで……太古の神話の戦いのようだ」
誰かが、呟いた。
異を唱える者はいない。
それほどまでに、頭上の光景は常軌を逸していた。また、そうとでもいわねば説明がつかぬ、と、多くの者たちが感じていた。
「女神様は、神話上の戦いを、意図的にここで再現されておられるのです」
ようやく避難誘導を終えたギョーム・ド・ノガレは、説明を求める貴族たちに、そう語った。
「なぜなれば、あそこにおられるのは、本物の神々……女神様とともに、この地上へ降りてこられたという方々です。我々は、決して目を離さず、最後まで神々の戦いを見届けねばなりません。その神威を目に焼き付け、記憶し、畏れ称え、とこしえに語り継ぐように……それこそが、あえてこの地を戦場に選ばれた女神様の、思し召しでありましょう」
ノガレは、常にもなく緊張した面持ちで、じっと推移を見守り続けていた。




