21:主の導きのもと
年が明けた。
カスティージャ地方の風雪はいよいよ募り、身動きもままならない日が続く。
例年ならば、エベッカ村ではこの時期、新年の行事として、里人全員が広場へ集い、ささやかな祝宴が開かれる。
しかし今年は、それも難しい状況だった。肝心の集会所広場は、例年の倍以上もの積雪に埋まっているし、その雪が止む気配すらない。
レダは、ウールのブラウスに白いドロワースという、寝起きのままのラフな格好で、退屈げに、暖炉のそばに寝転がっていた。
その脇では、仔ウサギのパイモンが安らかに寝息をたてている。
両親は厨房のほうで豆の皮むきなどやっている。今夜のスープに使うのだろう。
この数日というもの、レダはこうして家の中で、特に何もせず過ごしていた。
近頃では魔神ストラスが王都とエベッカ村をせわしなく往復し、レダとノガレとの連絡役をつとめている。レダ自身が動かずとも、ノガレの動静や王都の現状はレダの耳に入ってきていた。
エリゴス騎士団がノガレの謀略によって壊滅したこと。レダやストラスらの悩みの種となっていたエーテル吸収分解の仕掛けを発見し、すでに破壊し終えたこと。
また、王国最高裁判所がレダの名誉回復を宣告したこと。その一方で、レダの正体について、巷間に様々な憶測が飛び交っていること。
ノガレが一部の大貴族と官僚を同志に引き入れ、宗教的クーデターともいうべき計画を実行に移しつつあることなど――王都の状況は騒然たるもので、この先どうなるか、なお予断を許さない。
ストラスの報告では、王都近辺の大気中のエーテル濃度は急速に回復しつつあり、レダがその気にさえなれば、いつでも王都に入れる状態になっているという。
(……でもなー。いま、アタシひとりが焦って動いたところで、まだどうにも)
レダが思案していたのは、宿敵たるシモーヌの動静である。教皇国――というより、王国外の現状は、レダにもまったく把握できていない。
エリゴス騎士団の壊滅は、間違いなく、シモーヌにとって大きな痛手となったはずである。シモーヌがこれに反応して、どのような手を打ってくるか。
情報が入ってこないので、レダとしても、次の段階――本格的にシモーヌの地盤を攻略すべく、新たな策に着手すべきか、否か――、まだ判断がつかない。
ストラスが言うには、近頃、王国管区大司教座をはじめ、王国内の女神教団組織はまったく沈黙しており、この激動の情勢下にあって、何ら公式の動きを見せていないという。これはこれで不気味な話だった。
(王国の宗教が、あの不死人に全部ひっくり返されるのは、時間の問題だろう。それでシモーヌが動かないわけがない。各地の教会組織を手駒として、何かやらかしてくるはず。どうにかそこに先手を打ちたいが、アタシができることは……)
ころころと床に転がりながら、暖炉のそばへ寄ったり離れたりを繰り返すレダ。
情報が足りない。ことに国外に、手足となって情報収集をつとめる端末がない。したがって判断材料も乏しい。
パイモンはまだ霊力がほとんど回復しておらず、使い物にならない。ストラスはよく働いてくれているが、あれは自分の下僕ではないし、アンズーはそもそも隠密行動にまったく向かない――。
(……?)
ふと。
レダは、何かに気付いたように、がばと半身を起こした。
「……ようやく、か」
レダは、やや不満げに目を細めて、ぽそりと呟いた。
気配を感じる。レダのよく知る気配を。それも、複数。
ここより遥か東南の方角――王国の領内ではないようだ。遠すぎて、正確な位置まではわからない。
しかし、確かに感知できる。
神々の座に連なる者たちの力を。
「ご主人様、どうかされましたか」
仔ウサギのパイモンが、ちょこちょことレダの膝元に寄って、声をひそめて訊いてきた。
「あいつらが、動いた」
「え? どういうことです?」
パイモンが不思議そうに長耳を動かし、レダを見つめる。
「アタシも、動くべき時期が来たってことさ」
レダは応えるや、その場に立ち上がり、自らの霊力を振るった。
白く眩い輝きが、レダの小さな全身を包み込む――。
光が消え去ったとき、レダは、ブラウスにドロワースという室内着から、一瞬にして、真紅のミニドレスを翻し、黒革ブーツに黒い三角帽子という、いつもの颯爽たる魔女装束へと変化して、暖炉の前に立っていた。
窓外では、いつの間にか吹雪がおさまって、雲も流れ去り、爽やかな冬の晴れ空が広がっていた。レダが気象を操作し、雪を止ませたのである。
「パイモン、行くぞ」
言うなり、レダは仔ウサギの首をひっ掴み、三角帽子の縁へ乗せた。
「とーちゃん、かーちゃん、ちょっと行ってくるよ。しばらく、ごはんいらないからなー」
厨房のほうへ声をかけるレダ。
「大事な用事かい? 気をつけて行くんだよ」
「レダちゃん、なるべく早めに帰ってくるんだよ? やっぱり心配だからね」
両親は、厨房から戻ると、二人してレダの肩を抱き、こもごも声をかけた。レダの顔つきと姿格好から、何かしら、この両親なりに察するところがあったようだ。
「だいじょーぶさ。アタシは、魔女だからなっ! すぐ帰ってくるよ!」
レダは微笑んで、二人の頬に交互に口づけし、家を飛び出した。
村は、真白い積雪に包み込まれていた。
「あのぉー、結局、どういうことなんです?」
帽子の上から、パイモンが訊く。レダは、肩をすくめて応えた。
「言ったろ、あいつらが動いたって。じきに、嫌でもムシュフシュあたりの顔を直接見ることになるだろうさ」
「え、あ……! そっ、そういうことですか」
ようやく納得げに、パイモンはうなずいてみせた。
上空から、怪鳥アンズーが、陽光を浴びて舞い降りてくる。レダの霊力を感じ取り、日課としていた上空警戒を切り上げて戻ってきたようだ。
レダは、新雪を踏みしめ、アンズーの背に飛び乗って、元気一杯に告げた。
「説明は後だ。まずは王都! 行くぞ、アンズー!」
「承知しました」
レダを乗せたアンズーは、翼をひろげ、雲ひとつない青空へと羽ばたいた。
王国の東、都市国家群に属する小国のひとつ、都市国家ウェズリー。
国民主権を謳う自由都市とされ、議会共和制が敷かれている。
近隣の都市国家と比較すると、農工業はいずれも盛んではなく、生産力は低い部類にあるものの、交易上の要路を扼し、商業はきわめて活発で、住民の生活水準は高く、治安も安定していた。
ただし、自由都市を標榜しているものの、法によって女神教を国教と定めているため、宗教面では完全に女神教一色、その点では自由とも寛容ともほど遠い。
立法府たる議会からして、新法案の提出の際には、まず女神教の教義や教会の権威と干渉しないかどうか、専門部会で慎重に検討を重ね、そこで無問題と判断された案件のみ、あらためて審議にかけるという手順が踏まれている。
したがって、自由都市を名乗りつつも、実質上は女神教の強い影響下にある宗教都市であり、教皇国の属領に等しい立ち位置にあった。
ウェズリーの中心市街からやや東のはずれに、コトラック川という美しい河川が流れている。その畔、サン・エミー地区の一画に、新築まもない新様式の修道院が、壮麗きわまる白金の屋根を天へそびえさせていた。
教皇国に属する騎士修道会のひとつ、聖カダマスク騎士団の本部であり、ウェズリー管区大司教座の聖堂でもある、サント・エル・グラント大修道院である。
女神暦一三〇八年二月一日、この大修道院の敷地内において、ウェズリー臨時公会議が開催された。
公会議とは、各地の女神教高位聖職者が一堂に会し、その時々、女神教が直面している諸問題を評議し、方針を決定し、しかるべき宣言を提示して、採択を行なう会議である。
公会議はまた、女神教のお膝元たる教皇国の意向を、より広く、より開かれた形で宣伝するための場でもあった。
オブザーバーとして世俗の君主、貴族、高官、富豪、市民代表など、聖職者以外の各階層の人々も国境を越えて手広く招待され、およそ一週間の会議期間中、最大数千人規模もの聴衆が、一敷地内にひしめきあうことになる。
とくに今次のウェズリー臨時公会議では、若き教皇ウルバヌス三世が自らサント・エル・グラント大修道院に来臨しており、いまや都市国家群すべての国々が、この一大会議の行方に注目していた。
というのも昨今、王国の魔女レダ・エベッカが修道騎士を返り討ちにした一件以来、王国からは続々と不穏な情勢ばかりが伝えられており、どこかきな臭い気配が、ここ都市国家群にまで流れ漂いはじめていたからである。
また実際、今回の公会議には王国からの出席者はおらず、それも人々の不安をかきたてる一因となっていた。そこで新たな噂となって人々の耳をそばだたせていたのは、教皇が新たな「聖戦」を召集するのではないか――という推測である。
現在まで教皇国は沈黙を続けているが、昨今の情勢から見て、水面下でそのような動きがあってもおかしくはない――と、人々はまことしやかに囁きあっていた。
会議は当初、聖堂内で行なわれ、教学上の様々な解釈違いの刷り合わせや修正、異端の定義におけるいくつかの追加事項の提案と議決、教義に抵触する一部の商業慣例の撤廃勧告など、ごく当たり触りのない議題を順に消化していった。
この間、教皇も議場に臨席はしていたが、挨拶以上の言葉は口にせず、会議の進行には関与しなかった。
これらは教皇演説までの前座のようなものにすぎないが、比較的重要な議題として、異端告発、摘発のさらなる強化、審問と判決の効率化、火刑の迅速化を推奨する提議がなされ、満場一致で採択に至っている。
王国の情勢が、都市国家群の民衆感情にも悪影響を与えている昨今、異端への取締りを一層強めることで、教会の権威を示し、民心の安定をはかることが目下の急務であると教会側では考えられていた。
すでに異端の監視と摘発の強化は、各地の教会区で自発的に実行されており、この採択によって、あらためてその意義が再確認される形となったのである。
そして最終日――。
早朝のうちから、修道院の外苑に議檀と座席が設営されていた。
小雪のちらつく曇り空。風はなかったが、底冷えの肌寒い朝だった。
前日、聴衆にはすでに議場の変更が予告されていた。
最終日のみ特別に、外苑を一般開放し、そこで教皇ウルバヌス三世じきじきに重大演説を行なう――と。
したがって招待客の貴賓ばかりでなく、近隣もしくは遠来のごく一般の人々も、自由に外苑に入ることが許され、日が昇るころには、ゆうに五千人を超す聴衆が詰め掛けていたのである。
そこでは、冬の寒さをものともせぬ人々の熱気が、すでに外苑全体を覆って立ち昇っていた。
人々の注目を浴びて登壇した教皇ウルバヌス三世は、白地に金縁の豪奢なガウンをまとい、縦長の黄金の教皇冠を頭にいただいて、その若さにも似合わしからぬ厳しい威儀をたたえて聴衆と向き合った。
「ここに集いし最愛の兄弟たちよ――」
教皇は、よく透る声で、静かに語りはじめた。
「私は、あなたがたに、聖なる勧告をするためにやって来たのです。今ここに、教会の権威を守るために重大な問題が起こっています。それは、西方に住む兄弟たちに、援助を急いで送らなければならないということです。これより私がお話しするのは、あなた方、信仰あつく、聖なる教会の誉れである都市国家の諸君になのです。王都の兄弟から、しきりに訴えを聞いています。悪魔に取り憑かれた宰相と、その与類の一党が、権力で信徒を追放し、あるいは不当に捕縛し、その財を略奪し、さらには猛悪なる異端の魔女が教会を焼き払っているのです。女神に捧げられた騎士修道会は滅ぼされ、信仰は踏みにじられています……」
若き少年教皇の目に、かすかに光るものが見えていた。
涙だった。
ウルバヌス三世は、王国を覆う恐るべき背教と暴力、信徒らの苦難を思いあわせ、心底から悲嘆の涙を流していたのである。
誰もが、感動していた。
教皇聖下が、西方の信徒のために、かくまで、お心を痛めておられるとは――。
「……このような悪を正し、かの地の信仰を回復することは、教会の義務であります。主はとくにそのため、みなさんを選ばれました。みなさんは先祖の偉大な聖者たちのように、栄光をもって悪魔をうち破り、王国を救うべきであります。伝道書にも、『わたしより父母を愛する者はわたしの弟子に値しない』と述べられています。後に残してゆく家族のことを心配する必要はありません。もし西方の兄弟たちを見捨てるなら、どんな重い罰が主から下されるかもしれません……」
次第に、聴衆がざわめきはじめた。
いよいよ教皇の弁が、核心部分を述べる段に入ってきたからである。
「……もしこの遠征において、海路、陸路の途中、または戦闘中に落命した人々には、主が私に託された権能により、罪の赦しが与えられることを、しっかりとお約束いたします。出発する人々を妨げるものは何もありません。この地にて主に仕えし、聖なるカダマスク騎士修道会が、出発を望むみなさんの窓口となり、能力に応じた職分を授けます。手続きを行い、職務を決め、準備をすすめ、冬を越して春を待ち、主の導きのもと、……王国を救う聖戦へと、出発いたしましょう!」
最後に、聖戦という単語が、ついに教皇の口から語られたとき――。
一斉に、うわあああッ……! と、地を揺るがす大歓声が沸きあがった。
新たなる聖戦!
このとき、人々は興奮の絶頂にあった。純粋な宗教的陶酔からなる歓喜の念ばかりではない。
先年のミルビショア聖戦を例に出すまでもなく――聖戦とは、女神教徒の崇高なる使命の実践であると同時に、実利の多い宗教的行事であることを、都市国家の人々はよく知っていた。
異端や異教徒に対しては、女神教のお墨付きのもと、いかなる行為も赦される。
殺人は当然として、放火略奪暴行、あらゆる破壊的行為が、すべて主の思し召しによる天罰であり、自分たちはその天意の代行者となれるのである。
まして、西方文化の精髄、王国の中枢たる王都への遠征ともなれば、そこで得られる財貨実利はどれほどのものか、想像するに余りある……。
天にも届くかと思われる大歓声の呼号渦巻くなか、教皇ウルバヌス三世は、満足げに額の汗を拭い、ゆっくりと檀を降りた。
――聖戦の召集。これで、王国の諸問題も近く解決に向かうはず。シモーヌ様も、きっとお喜びになるに違いない。
大役を務めあげ、内心、安堵の息をつく教皇ウルバヌス三世。
しかしこのとき、女神教の総本山たる教皇国は、蜂の巣をつついたような騒ぎに陥っていた。
――都市国家群、三箇所の公開処刑場に、新たな「本物の魔女」が出現。
三人いずれも、自力で拘束を破り、恐るべき魔法の力を振るって暴れ回り、各地の修道会、騎士団、軍を攻撃している――。
その驚嘆すべき報告が、様々な紆余曲折を経て、ようやくウルバヌス三世の耳に届いた頃には、すでに「聖戦」の準備は本格化し、いまさら撤回など不可能なまでに、事態は進行していたのである。
 




