20:唯一にして、真なる
エベッカ村に冬が来た。
山林も、田園からも、人影は絶えた。
昼夜ただ寂漠たる氷雪が日々降り積もり、見渡す限り、野を白く覆い尽くしてゆくばかり。
もとより僻地の寒村。例年であれば、幾日も続く風雪と寒冷に誰もが身動きつかず、傷病者や死者も頻出する時期だった。
ただ、この冬に限っては、里人たちの暮らしには、少しばかり余裕があった。
晩秋、カスティージャ伯から贈られた大量の食糧と燃料が、各戸に行き渡っていたからである。
レダの家でも、家族三人で十分な量の小麦や燕麦、干し肉などを確保していた。
日々、飛雪に白く閉ざされた窓外の風景に辟易しながらも、レダは相変わらず闊達な日常を送っている。
「とーちゃん、そのお肉、食べないのか?」
「いや、あとで食べようと……欲しいのかい?」
「うん。ほしい」
「よし、じゃあ半分こだ」
「レダちゃん、アタシのも半分あげるよ」
「おー、やった! かーちゃん、ありがとー!」
鍋を囲んで、仲睦まじく食事する親子。はじけるようなレダの笑顔が、やわらかな灯火に照り映えている。
それを傍目に見ながら、暖炉のそば、小さな白い仔ウサギが床にうずくまり、うつらうつらと、まどろんでいた。
(こうして見てると、本当にそこらのお子様ですよねぇ……きっちり可愛げもあって、誰からも愛されてる感じの)
仔ウサギの中身――魔神パイモンは、暖炉の火に、半ばは眠りながらも、年相応な子供らしいレダの仕草を、胡散臭げに眺めていた。
(……人間たち、見事に騙されてますわね。あのお子様の中身は、神々の座の大神方でさえ震え上がる、それはそれは容赦のない、恐ろしい御方だというのに)
パイモンは、念声を用いて、その場にいない何者かと会話していた。
レダの耳に届かないよう、波長を慎重に絞って、可能な限り、ひそやかな声で。
今でこそ弱々しい仔ウサギの外見だが、パイモンは、もと魔界西方に大勢力を誇った八柱の上位魔神の一体である。
否、現在でも、魔界に戻りさえすれば、今なお魔神の女王として魔界の一半に君臨するだけの地盤を擁している。本来ならば、指のひと差しで人間の一国程度は容易に滅ぼす力を持っていた。
そのパイモンでさえ、レダの――あるいはレダの肉体に宿る神格には、根源的な畏怖を抱いている。
もとより魔界ではレダの勢力下に属し、今も成り行きでレダの保護を受ける身とはなっているが、できれば地上では関わり合いになりたくなかった――というのが、パイモンの本音ですらあった。
(貴様の言は、一を知ってその他を知らぬという類のものだ。いったい貴様は、わが主の側近くにありながら、何を見てきた)
パイモンの呟きに、穏やかな念声が応えた。重厚な渋味をたたえたその声は、怪鳥アンズーのものである。
アンズーはこのとき、屋内にはおらず、はるか上空に浮遊し、たえずエベッカ村の周辺を警戒していた。
現在は雲上から、パイモンと念声の波長を合わせ、遠隔会話に応じている。
(そういわれましてもね。ワタクシなどには、とても厳しく接して来られる御方ですから。普段、無邪気な子供のように振舞っておられるのは、何か裏があってのことと考えるのが自然ではないですか)
(愚かな。そんなだから、貴様はシモーヌにやすやすと封印などされるのだ)
(キミも大概ワタクシに厳しいですね! なんでそんなワタクシばっかり酷い扱いなんですかアンズーくん!)
(己れの胸に聞いてみよ。そもそも、貴様の魔界における失策こそが、今日の事態を招いた一因であろうが)
(いや、それ言われると、ワタクシ言い訳のしようもないんですけど……)
パイモンは、長耳を垂れて、かっくりとうなだれた。
(わかっているなら、それでよい)
アンズーは、やや念声のトーンを変え、生真面目な口調で説明した。
(主が、今の肉体に下生されてから、まだわずか五年。本来の精神の在り様に、肉体が追いついておられぬのだ。主の意識も思考も、往々にしていまの幼い生身の肉体に引っ張られる。時に、それがちぐはぐに見えることもあろうが、主は常に、ごく自然に、ありのまま振る舞っておられるに過ぎん)
レダは、ことさら意識して相手ごとに態度を変えたり、言動を使い分けているわけではない――というのが、アンズーの見立てである。
もっとも、レダ自身も、肉体と精神の不均衡について、多少は自覚し、苛立ちも感じているらしく、早く肉体を成長させねばと、焦っている一面もあるという。
(ふーん。つまり、あの御方は、べつに裏表を使い分けたりしてないし、人間たちを騙してるわけでもない、と……)
(そういうことだ。主をそのように邪視するのは、たんに貴様の性根が邪悪だから、そう見えるというだけのことだ)
(ホント容赦ないですねアンズーくんは! なんですか、神獣様ってのは、そんなにワタクシらを邪悪の化身かなんかとしか見てないんですか!)
(だが決して善良な存在でもあるまい? しばしば地上の人間の召還に応じて、力を貸しはしても、隙あらばその人間の精神を蝕み、堕落させんとするのが、貴様ら魔神という存在ではないか)
淡々と応えるアンズー。パイモンは、鼻をひくつかせながら反論した。
(ぐぬぬ……ああいえば、こういう……ワタクシに限っていえば、わざわざ、そんなせこい真似はいたしませんわよ。下々の魔神どもについては、確かにそういう輩も少なくないようですけどね)
(ふっ。ならば、貴様については、そういうことにしておいてやろう。ただ言えるのは、いまの主は、この地上にあって、まだまだ不安定なお立場で、お力も十分ではない。我らでしっかりお守りせねばならんのだ。貴様とて、主の従者となった以上は、我と立場は同じ。おかしな考えは捨て、主のために尽くすことを考えよ)
(いわれなくとも。あんな酷い状態だったワタクシを、見捨てず保護してくだすったんですから。ご恩には報いねば、ワタクシの名がすたるというものです)
――でも、やっぱり怖いんですけどね。
と、パイモンは心の中でだけ、小さく付け加えた。
恩義はあるにせよ、根本のところで、底深き畏怖の念を拭うことは、パイモンにはできない。
レダに宿る神格。
その「本性」を知る身としては――。
王国宰相ギョーム・ド・ノガレの主導によるエリゴス騎士団の大検挙劇は、王都の総本部にのみ行なわれたわけではない。
王国内の騎士団支部、実に二十三箇所、そのすべてに、一斉に実施されていた。
総本部ほどの規模ではないが、各支部それぞれ五十名ほどの騎士、高級会員らが常駐している。一箇所でも洩らせば、その武力と財力をもって、地方の反抗勢力と化す懸念があった。
ノガレの意を受けた王権派の高官たちが、計画実施の半月も前から、あらかじめ各地方の役所に入り、ひそかに人員を選抜して準備を進め、日時を合わせて、一斉検挙へと踏み込んだのである。
これにより、王都のエリゴス塔で繰り広げられた逮捕劇そのままの光景が、各地で現出した。ことにアントレール地方の騎士団支部には、合計四百名を超える捕吏と検察官の精鋭が投入されていた。
むろんノガレの配慮によるもので、この地方はカスティージャ伯領の東隣にあり、まかり間違ってもエベッカ村方面へ騎士団を逃走させぬよう、包囲を徹底させたのである。
このアントレール支部で拘束された人々のなかに、かつてカスティージャ地方の徴税官をつとめた男がいた。
地元で不正行為が発覚して懲戒免職となった後、私怨から騎士団にレダ・エベッカの異端疑惑を告発し、そのままアントレールの騎士団支部に雇われて、荘園の管理などに携わっていたらしい。
「すぐに、その者を王都へ護送してください。私が直接、調書を取りましょう」
今回の一斉検挙は、エリゴスの正会員のみが対象であり、準会員以下の労務者などは一時的に拘束するだけにとどめられている。
その男も検挙の対象ではなかったが、報告を受けるや、ノガレは即座に、特例としてその男の逮捕と護送を指示し、命令書を送り付けた。
一週間後、男は王都へ檻送されてきた。
王都ではちょうど、逮捕した騎士団会員らの予備審問が始まったところだったが、ノガレは男の取調べを優先し、自ら、様々な手段で自供と自白を取った。
――すなわち、先にレダ・エベッカを異端者として告発した件について、それがまったくの虚偽であり、私怨から冤罪を着せたものである――という証言である。
王都の裁判所は、男を王都市街の広場へ引き出し、あらためてその証言を本人の口から語らせ、レダ・エベッカの無実を、白日のもとに証明させた。
そのうえで、レダ・エベッカが「魔女殺しの丘」でエリゴスの騎士たちを殺害したという件についても、実際にその殺害現場を目撃した人間が一人もいない点を挙げ、それがエリゴス騎士団の自作自演にすぎず、レダ・エベッカを貶めるための陰謀であった――という判決を、王都裁判所最高判事の名のもと、公式に宣告した。
直後に、男は王権側の司直によって、逆に異端の認定を受け、早々に火刑に処されることになる。
罪状は「涜神罪」であった。
かくて。レダ・エベッカは、異端ではない――という、王権側からの正式なお墨付きが出された。
女神教会がレダを追求する根拠はもはや失われ、レダには、あらためて王国民としてのすべての権利が、元通りに保証されることとなった。
異例の布告だった。この段階では、王都市民はなかなか状況を把握できず、様々な憶測が街中に飛び交った。
ほどなく、王国政府と王国裁判所、さらに王立大学教授会の連名による、新たな布告が、王都で大々的に公表された。
――レダ・エベッカを貶めんと謀ったエリゴス騎士団こそが、実際には異端者の巣窟であり、邪教崇拝者の集団であった――とする、驚くべき内容である。
それに関連して、先日のエリゴス騎士団一斉検挙についても、詳細な説明が告示された。
騎士団一斉捜索の際、検察当局の捜査により、エリゴスの総本部から、見からに怪しげな黄金の彫像や異国の装飾品などが、物証として多数押収されている。邪教崇拝の秘儀に用いられていた祭具の類であろうと、検察側では推測していた。
そして現在も、逮捕済みの騎士団会員たちへの厳しい審問が王都各地区の裁判所で続いており、近日のうちにも自白証言が出揃うことになるであろう――と。
人々は大きな衝撃を受けた。
エリゴス騎士団の異端審問により火刑に処されたレダ・エベッカは冤罪であり、その無実の少女を貶めていた騎士団こそが、異端者の群れであった――まさに、天地はさかしまである。事実であれば、女神教の開闢以来のスキャンダルであり、当然、彼らには正しい裁きを受けさせねばならないだろう……。
ただ、一方で、新たな疑問も、市民や貴族らの間から生じ始めた。
レダ・エベッカは、異端ではないという。
しかし多くの王都市民が、魔女殺しの丘で、その目で見ていた。
火刑に処されながら、火に焼かれることなく、刑檀の鎖を引きちぎり、燃え盛る炎を背に、紅蓮のドレスを翻らせて、自らを魔女と宣言した――レダ・エベッカの威風凛々たる姿を。
異端ではないという。王権が、司直が、大学までが、そう明言した。
だが、当人は魔女だと名乗った。
では魔女とは、いったい何か?
魔女と異端は、それまで一般的にはイコールで語られてきたが、実は違うものなのだろうか?
――そもそも、レダ・エベッカは、何者なのか?
巷間には再び紛々たる諸説憶測が渦巻き、王都はなお騒然として、おさまる気配もない。
一日、王国宰相ギョーム・ド・ノガレが、宮中へ優美な姿を現し、王都に滞在中の貴族十数名を招いて、ひそかに夜会を催した。
参加者はおもに門閥派から王権派……厳密にはノガレ派に鞍替えした人々で、ノガレとは既に密約のある同志の間柄である。出席者のなかには、先代の王国宰相エチエンヌ・ド・クロット候爵や、レーモン・ド・フィリー男爵などの姿もあった。
その席上のことである。
ノガレは突如、かくのごとき宣言を発し、列席した人々を瞠目させた。
「レダ・エベッカとは、仮の名、仮のお姿。魔女を名乗っておられたのも、一時の方便に過ぎません。なぜなれば、あの御方こそは唯一にして、真なる――」
女神であられる、と。




