19:騎士団の黄昏
よほど緻密に練られた計画であったのだろう。
エリゴス塔は、一滴の血も見ることなく、あえなく陥落した。
石造りの堅牢な外壁も、いかめしい鉄の大門も、外敵の攻勢を半年支えうる防御構造も、まるで用をなさなかった。
黎明、寝込みを襲われた修道騎士たちは、何が起こっているかも把握できないまま、突如ベッドへ押し寄せた捕吏たちの縄にかけられ、一網打尽に拘束されていった。総長ジャック・ゼルナールでさえ、その例外ではなかった。
「どういうことだっ! なにが異端だっ! おい、説明しろ、説明を!」
拘束を受け、ゼルナールは大いに吼えたてたが、誰とて応える者もなかった。
つい昨夜、王宮から莫大な名誉を賜り、喜捨を山と積まれ、栄光の祝杯に酔いしれていた。近く王国からは勲章を授かることになっていたし、王宮との関係修復の功をもって、教皇国からも必ず恩賞の沙汰があるだろう。あるいは、天主シモーヌへのじきじきの謁見すら、近々かなう日が来るかもしれない……。
ところが、甘い夢から覚めてみれば、全身を荒縄で雁字搦めにされて、ベッドから引き摺りおろされていた。
周りを取り囲む十人もの黒衣の捕吏は、ゼルナールの抗議に耳も貸さず、容赦なく豪奢な寝室から引っ張り出した。西方最大の騎士修道会総長ともある身が、あろうことか手枷を嵌められ連行されるという屈辱を強いられたのである。
副総長レジャック、王都管区長アンセガ、第一軍団長ライサといった上長級の人々、参事会役員たち、また騎士ではないが、司祭以上の位階で正会員待遇を受けている会付司祭、騎士団顧問などの修道士らも捕縛の対象となっており、これらも難なく拘束された。
捕吏の一斉突入からほどなく――本部主塔、騎士寮、聖堂などの建物から、捕縛された人々が数珠繋ぎにされ、蟻の行列のごとく続々と、早朝の野外へ追いたてられてきた。
事態の異常をいち早く察知し、逃走や反撃をはかったごく少数の人々もいたが、すでに武器庫も厩舎も完全武装の司直の部隊に押さえられており、また正門ばかりでなくすべての出入口、塀や外壁のわずかな間隙まで、あらゆる逃走ルートが遮断されていた。
結局、本部内の誰一人として、ろくな抵抗も逃走もなしえぬまま、司直に追い詰められ、捕縛される羽目に陥ったのである。
この襲撃の朝、エリゴス塔に駐留していた修道騎士は総勢五百名余。
一人の例外もなく司直の手にかかり、易々と縄目の辱を受けた。
かくもたやすく事態が進行した理由としては、練りこまれた計画の周到、ノガレの指揮の手際、司直検察の精力的な働き、騎士団上層部の油断など、いくつもの要素を数えうるが、騎士団の戦力低下こそが、最も大きな理由であったろう。
本来、この城砦は、常時三千余名にものぼる精兵を養い、その勢威は遠近に轟いていた。ノガレですら、容易ならぬ脅威と見て、手出しを躊躇っていたほど、エリゴスの武力は強大だった。
しかし、その精鋭軍主力は、つい先日、遠征先のカスティージャ地方において、洪水被害に巻き込まれ、総長ジェラール・ド・モレーともども全滅している。
このとき本部に残留していたのは、大半が経験の浅い新人や補佐要員、事務方の人員などであり、実戦能力は皆無に等しかった。
その後、各地の支部から若干名のベテラン騎士を呼び寄せ、それらを上長に据えて、どうにか組織の再編まで漕ぎ着けたものの、依然として騎士団の実質戦力は壊滅的な状況であり、そこにノガレは容赦なく付け入った。
レダが騎士団主力を全滅させたことで、結果的にノガレの待ち望んでいた状況が作り出されたともいえる。
さらに、そのレダ当人が、騎士団へとどめを刺すよう、ノガレに要望してきた。
もとよりノガレには腹案があった。弱体化著しいエリゴス騎士団を滅ぼすべく、すでに計画は練り上げてあり、必要な根回しも済んでいた。
本来ならば、いま少し準備に時間を割きたいのがノガレの本音であった。とはいえレダの要望とあっては、応えぬわけにいかない。ノガレは計画の実行時期を前倒しにして、いわばレダの使途として騎士団に引導を渡すべく、この日の大掛かりな逮捕劇にのぞんだのである。
六百名近くもの逮捕者の群れは、門外に待機していた検察官らに引き渡され、衛兵隊の監視を受けながら、各地区の裁判所へと、徒歩で分散護送されていった。
時ならぬ異変を聞き知って、付近の沿道には大勢の市民が野次馬に押し寄せ、哀れな捕囚と変わり果てた修道騎士たちの悄然たる歩列を、世にも珍しい見世物でも眺めるように騒ぎ立てながら見送っていた。
そうしてエリゴス塔の敷地内から騎士や高位聖職者らが押し出された後も、なお司直や捕吏の仕事は続いていた。
まず、庭園に集めた准騎士以下の準会員、雇われの使用人や平修道士など非逮捕対象者のなかから、比較的従順な者を選んで、手枷を外した。臨時雇用という形で、彼らを司直に協力させ、その案内のもと、敷地内のあらゆる施設、物資、財産の差し押さえを開始したのである。
武器庫、食糧庫、酒蔵、また騎士寮の家具や什器類などが次々とあらためられ、外套や金属鎧、剣槍はおろか弓箭の一本、麦の一粒に至るまで目録に書き記され、倉庫の扉からベッドやクローゼットまで司直に差し押さえられ、封印が施された。
本部主塔からは膨大な財貨や書類が引っ張り出され、すべて束にされて複数の荷車に積まれた。その中には、つい昨夜、王宮からゼルナールへ贈られたばかりの金銀や彫像や装飾品なども含まれていた。
敷地内のそうした喧騒を尻目に、総責任者たるノガレは、若き修道騎士ランジュを、子飼いの検察官に引渡した。
ランジュはもう抵抗するそぶりもなく、ただ肩を震わせ、ひどく怯えた様子でうなだれている。
「相府の客室にお連れして、賓客として丁重に扱ってください。もちろん手枷は不要ですし、監視も最低限でかまいませんよ。決して手荒な真似はしないように」
そう言い残して、ノガレはランジュのもとを離れ、まだ司直も手つかずの聖堂へと、単身乗り込んだ。
高級会員専用の礼拝所である。壮麗かつ洗練された白亜の外壁、豪奢贅美をきわめる内装、金銀に彩られた装飾と照明のきらびやかさは目に綾なすばかりで、ことに中央ホールに広がる吹き抜けの大天井とステンドグラスの壮観は、王宮の礼拝所にも匹敵するだけの規模があった。
また、この聖堂自体が、単独の修道院としての機能を有している。会付の大司祭が院長を兼ねて礼拝を取り仕切り、一般修道士たちの奉仕と修行を監督する場ともなっていた。
今はそれらの人々もすべて屋外へ追いたてられ、無人となっている。
硬い靴音を響かせて廊下を抜け、中央のホールへ足を踏み入れると、ノガレは、大ステンドグラスのもと五彩の光のさす聖壇へと、ゆっくり歩み寄った。
「……これか」
聖壇の奥にそびえる巨大な彫像。薄絹をまとう若い女性の姿をかたどった立像で、丸みを帯びた成熟した体型、胸元の豊かさがとくに強調されている。
それでいて、決して扇情的なものではなく、強い母性と聖性を併せ持つ、ある種の荘厳さをたたえる造型に仕上がっていた。
すなわち女神エンリルの立像。王国内外、どこの修道会でも見られる、女神の姿をかたどったとされる彫像である。
実際の顔や体型については聖女シモーヌをモデルとしているらしく、教会の宗派によっては、まったく同じ像でありながら聖女像と呼称しているところもある。
女神教の正統教義とされる三位一体の概念により、女神、聖女、天使は同一存在とされているため、どちらで呼んでも教義上は問題にならなかった。
「見ためは、そこらの偽女神像と変わりばえしないが……」
ノガレが目を細めて呟くと、その肩に止まっている白い小鳥――ビーストの一種、冥界の霊鳥――が、不意に嘴を開けて、ノガレへ囁きかけた。
「胴体あたりに、特殊な金属片が埋め込まれていますね。本来、この世には存在しない材質です」
しわがれた声は、魔神ストラスのものである。薬物と鉱物の知識に長けた魔神であり、ワシミミズク型のビーストの他に、複数の依り代を状況に応じて使い分けているようだ。
「その金属片とやらが、きみや、あの御方を悩ませる元凶だと?」
ノガレの問いに、ストラスの宿る小鳥は、こっくりとうなずいてみせた。
「ええ。付近の大気中のエーテルをあまさず吸収し、分解する機能を備えているようです。よもや、こんなところにあるとは、まったく盲点でしたが。これの所在を自身で探り当てられたというだけでも、あの御方の地力の凄まじさがうかがえるというものです」
「壊せるのかい?」
「これはあくまで、神々の座に由来する神格を弱体化させる仕掛けです。物理的には、さほど強固なものではありません。あなたのお力ならば、造作もなく破壊できましょう」
「では、やってみよう」
ノガレは顔を上げ、左手をすっと前へ差し出した。
途端、聖堂内の気温が、急激に低下しはじめた。
女神像が、白い靄に包まれる。猛烈な冷気が聖堂の床や内壁、天井までをも白く凍てつかせてゆく。
――ほどなく、女神像は完全に凍結した。そうと見る間に、頭部から胴体へ無数の亀裂が走り、やがて音もなく、砂糖菓子のようにその場へ崩れ落ち、跡形もなく砕け散った。
壇上の気温は、一瞬のうちに絶対零度近くまで低下していた。ために女神像ばかりか、周囲の装飾や彫刻などまで、巻き添えで真っ白に凍りついていた。
「……こんなものか。どうだ? ストラス」
ノガレが問うと、小鳥のストラスは、わずかに頭を動かし、応えた。
「……おお、これは。吸収が止まりましたね。とはいえ、今すぐに、どうこう変わるわけではありません。低下したエーテル濃度が回復するまで、まだ時間を要しましょう。およそ一ヶ月というところですね」
「役目は果たせた……ということで、いいのかな?」
「ええ。あの御方も、きっとお喜びになると思いますよ」
「そうか。なら、なによりだ」
ノガレは微笑とともにうなずくと、おもむろに、まだ凍ったままの階を踏んで、壇上へのぼった。
白い石片と粉末へと変わり果てた女神像。その残骸の中に、細かく砕けた黒い鉄片のようなものが、わずかに混じっている。
「これが……元凶とやらか」
「そのようです」
「何かわかるかい?」
ノガレが訊くと、肩の上のストラスは、赤い目を壇上の残骸へ向け、しばし何事か観察していた。
「……材質は、天命の書板とほぼ同一。ただ、当然ながら、天命の書板そのものではありますまい。おそらく、単一の機能に特化させた複製品でしょう。この合金には再生能力がありますから、放っておけば、また復元してしまいますよ。いまのうちに、きちんと処分しておくべきです」
「また厄介なものを……。やはり、シモーヌ自身がこれを?」
「だと思いますよ。あるいは、いらぬ手引きをした者がいるかもしれませんが」
「問題山積だな。いまだ、核心は霧の彼方……か。その襟髪を掴むのは、いつの日になることやら」
ノガレは、嘆息とともにかぶりを振った。
「では、後始末は私がやっておこう。きみは、すぐにあの御方のもとへ向かってくれ。吉報をお待ちのはずだからね」
「承知しました」
魔神ストラスは、小さな翼を羽ばたかせ、ノガレの肩から離れるや、ホールの窓から、蒼空の彼方へと飛び去っていった。




