18:憂愁の蒼月
王都、アレーシ河の畔にそびえる一群の石造建築。
都街の数区画分にもなる広い敷地に、いかめしい防壁をめぐらせ、その内側には張り出しの望楼を備えた巨大な尖塔が突き立っている。
塔の周囲には、城館風の聖堂や騎士寮が建ち並び、その合間に厩舎や使用人住居などがひしめいていた。
防壁の北側には、角塔二基を備えた突出部があり、そこに巨大な鉄門が設けられている。
この城砦は、正式名称をバルドー砦といい、もともと王宮守備の目的で設置され、王国軍が駐留していた本物の防御要塞である。
建築は三百年ほど前、当時の築城技術の粋を凝らして設計され、数万の敵軍の攻撃にも半年は持ちこたえられるほどの防御力を擁していた。
およそ二百四十年前、王室から、とくに聖エリゴス騎士団へ寄進され、以後そのまま騎士団の総本部となり、今日まで建築当時の姿と機能が、ほぼそのまま維持されている。それで現在では、もっぱらエリゴス塔という通称のほうでよく知られていた。
女神暦一三〇七年一二月二三日、早朝。
夜は明けきっておらず、王都の開門をうながす朝の鐘も、まだ鳴っていない。
寒さは日ごと厳しくなっていた。ことに、この時間帯の冷え込みは肌身に沁みる。王都の市民は、白い息を吐きながら、朝のお祈りや奉仕活動、また仕事や商売の準備などに、ぼちぼち取り掛かりはじめていた。
いつもと変わり映えのない日常風景――市民の誰もが、この朝も、いつも通りの、平穏な一日のはじまりと信じて疑わなかった。
エリゴス騎士団の修道騎士ランジュ・ド・フィリーは、その日、城砦北門の番小屋で当直をつとめていた。
女神教の修道会においては、男女の扱いに差別はない。エリゴスにおいても、修道騎士の四分の一は女性で占められており、ランジュもその一人であった。
十八歳でエリゴスの准騎士として入隊し、盾持ちの下積みを経て、つい先日、二十二歳で正規の修道騎士に叙任されたばかりである。
修道騎士は、教会内においては司祭と同格以上の地位とされ、さらに世俗の騎士爵と同格の特権を兼ね備える。
修道騎士ひとりにつき、最低でも二人の准騎士が従僕として付き従い、団内の地位と役職に応じて、軽騎兵もしくは歩兵の部隊長をつとめる。
なお、軽騎兵は下士官級で、庶民出身の下級修道士から選抜され、歩兵は騎士団に雇われて下働きを務める一般信徒で構成されている。
ランジュは、北門の衛兵隊およそ五十人の歩哨を統率する三人の部隊長の一人であった。門衛の一組頭という職分で、団内ではまだまだ弱冠の平騎士でしかない。
「うぅ、寒い」
ランジュは番小屋のベッドで目をさまし、毛布にくるまったまま身を起こした。
まだ窓に日の光は射さず、番小屋の外は真っ暗だった。
寒さに身震いしながら、ランジュが思い起こしていたのは、昨夜の、総長をはじめとする騎士団幹部らの様子である。
日暮れ過ぎに、総長は王宮から帰還してきた。近衛と幹部連の大行列をぞろぞろ引き連れ、銀鞍にまたがり綺羅を装い、得意げに北門をくぐる総長の様子は、随分とはしゃいでいるように見えた。
同僚の話では、王宮から騎士団との関係修復を持ちかけられ、名誉の役儀を賜り、莫大な寄進まで受け取って帰ってきたのだという。
こういう情勢からして、反教会派の首魁であったギョーム・ド・ノガレとその一派は、おそらく既に罷免され、野に逐われたのに違いない……という推測が、昨夜来、騎士団内で、まことしやかに囁かれていた。
(もし本当にそうなら、とても喜ばしいことだけど)
ランジュは、白い修道服に袖を通し、ぶ厚い毛皮の外套をまとい、番小屋のドアノブに手をかけた。
近年、王宮と騎士団の関係は最悪といってよいほど険悪化していた。背教の徒ギョーム・ド・ノガレが、主をも恐れぬ政策を打ち出し、教会の権威を穢し、教会の権利を侵害し続けている。
エリゴス騎士団に対しても、大っぴらなものではないが、新規入団者の募集や勧誘活動を妨害したり、修道会の特権として安価で取引きしていた各種物資の買値を市価相当まで引き上げたり、安息日以外でも騎士団に属する使用人や平信徒に交代で休みを取らせるよう勧告してきたりと、細かい嫌がらせが相次いでいた。
そのため、近頃では、教皇国がノガレの罷免を求めて、強い圧力をかけていたとも仄聞する。
――あるいは、王宮も教皇聖下のお声によって、ようやく悔い改め、方針を転換してノガレを放逐した、ということかもしれない……。
(見ためは……美しいけれど。きっとあのお方は、悪魔に憑かれていたに違いない。でなければ、主の御心に背くような政治なんて、できるはずがないもの)
まだ騎士団に入る以前、ランジュは一貴族令嬢として幾度か宮中のパーティーに出席し、そこでノガレの姿を見かけていた。
象牙細工を思わせる透明感のある白い肌と、夜の闇を凝集したような長い黒髪、穏やかな微笑に、わずかな憂いを帯びる双眸が印象的な美丈夫だった。まるで天上の月が、人の姿をとってホールに舞い降りてきたかのような――。
小屋のドアを開き、冷気に肩をすぼめながら外へ出たランジュのもとへ、従僕の少女が、息せき切って駆け寄ってきた。
「隊長! 正門前に、王宮のご使者が来てます!」
白い吐息とともに、そう報告する少女。ランジュの槍持ちをつとめる、まだあどけない顔の准騎士で、名をシェリーという。
「こんな時間に?」
ランジュは首をかしげた。
「はい、総長閣下に火急のご用事だとかで、至急開門を願うと」
「そう。ともかく、行ってみましょう。まだ門は開けていないわね?」
「いえ、それが」
少女は、言いよどんだ。
「……開けたの?」
「エリザ先輩が、その。あちらからも、早く開けろと、せっつかれまして。それに、せっかく王宮との関係が良くなりかかってるのに、ここで心証を悪くするといけないからって……」
「はぁ。しょうがない子ね……シェリー、急ぎましょう」
ランジュは、少女シェリーをともなって、正門へと駆け寄った。夜はもう明けかかって、視界はぼんやりと薄明るくなっていた。
城砦の鉄の門扉は、すでに大きく左右に開かれていた。
その向こう側には、真っ黒な人垣のような大集団が、門の周囲を塗り固めるかのように、びっしりとひしめいている。
(いったい、何事?)
いぶかるランジュたちの前に、長剣と手槍で武装した黒衣の一群が素早く突出して、たちまち四方を取り囲んでしまった。
身構える間もなかった。いきなり八方から白い槍先を突きつけられ、ランジュたちは動きがとれなくなった。
同様の光景が、すでに門内のあちらこちらで繰り広げられている。ランジュの指揮下にある歩哨隊は、ほとんど一瞬のうちに無力化されていた。
ただただ、呆気に取られるランジュ。
そこへ、涼やかな声が、おごそかに告げてきた。
「王命により、貴下ならびにエリゴス騎士団の全会員を異端の嫌疑により逮捕し、騎士修道会に属する全財産を差し押さえます。抵抗は無駄ですよ。おとなしくしていてください」
人垣の一部が開き、その声の主が、静かにランジュたちの前へと進み出てきた。明けの陽光を斜めに浴びて、その顔が、はっきりと視界に映えた。
「……あなたは!」
ランジュは、瞠目した。
かつて宮中に見た「憂愁の蒼月」――王国宰相ギョーム・ド・ノガレの、優美きわまる姿が、そこにあった。
正門を開かせ、歩哨隊を抑えると、ノガレの指揮下、何百という黒衣の捕吏の隊列が、どやどやと門内へ踏み込んできた。
「エヴァンスは騎士寮を、ルークは聖堂を、バースは武器庫と厩舎を押さえてください。クレアは非逮捕対象者を庭園へ誘導。エリクは本棟へ。逃亡をはかる騎士がいれば、発見次第、その場で取り押さえるように。さ、急いでください」
ノガレの指示に応じて、捕吏の各隊はさっと四方へ分かれ、素早く目的の方角へと駆け去っていった。
「……これは、どういうことですか」
修道騎士ランジュは、二人の従僕の少女……シェリー、エリザとともに、手枷を嵌められて拘束され、ノガレの前に引き据えられた。
「わが会に異端の嫌疑などと、そんなことがあるわけないでしょう。このような行い、主は決してお許しになりません!」
怯える少女たちを左右に庇いながら、刺すような眼光でノガレを睨みつけ、ランジュは非難の声をあげた。
ノガレは、平然とランジュの烈しい眼差しを受け止め、告げた。
「その主が、お望みなのですよ。あなた方の滅亡をね」
「なんですって……?」
ランジュは、ノガレの返答に目を丸くした。
この男は、いったい何を言っているのか? 天の主たる女神が、そのようなことを望まれるわけがない。よもやこの男、気が触れているのだろうか?
そんなランジュの当惑などお構いなしに、ノガレは悠然と佇んでいる。
そのとき、ノガレに右肩に、空から白い小鳥が音もなく舞い降りてくるのを、ランジュは見た。
「その顔は、見覚えがあります。フィリー男爵家のご令嬢ですね?」
「え、ええ。ですが、今は出家して修道士となった身です。実家とはもう絶縁しています」
「そうですか……。これは、わざわざ探す手間が省けましたね」
ノガレは、なにやら納得げに、ひとりうなずいた。
無言で、左右の捕吏たちに目くばせを送る。
捕吏たちは、心得顔で進み出ると、シェリーとエリザの二人を、ランジュのもとから無理矢理、引き離した。
「あっ、なにを!」
「やめてよ、触らないでよ! た、隊長っ……!」
抵抗の声をあげる従僕の少女たち。ランジュが反応するより先に、ノガレが宥めるように声を投げかけた。
「あなたたち准騎士以下は、今回、逮捕の対象ではありません。しかし、こちらの作業が済むまでは、おとなしくしていてもらいますよ。拘束は一時的なものです。庭園のほうで、しばらく待機していてください」
シェリーとエリザは、捕吏たちに手枷を掴まれ、そのまま強引に彼方へと連行されていった。
「さて」
ノガレは、周囲から捕吏たちを遠ざけ、一対一でランジュと向き合った。
「あの子たちは……どうなるのです」
「心配は無用ですよ」
ランジュの問いに、ノガレは淡々と応えた。
「先も言いましたが、今回の逮捕対象はエリゴスの正会員のみ。準会員以下は捜査の対象に含まれておりませんので、昼ごろには、まとめて解放されますよ。……あなたたちは、そうもいきませんが」
「私たちを、どうするというのですか」
「さあ……異端審問の内容については、あなた方も、さだめしお詳しいことと思いますが」
「審問ですって……?」
「ですが、その前に」
ノガレは、ランジュの間近にまで顔を寄せ、その瞳を興味深げに眺めやった。
「なっ、なにを」
「あなたのご実家……フィリー男爵家のご当主は、公にこそしていないものの、現在の女神教に深い疑義を抱いておられる。あなたもご存知でしょう」
「知っています。だから、私は――」
「敬虔な信徒たるあなたは、そんなお父上の思想や言動に耐えられず、とうとう家を飛び出し、修道騎士となった。そうですね?」
「……調べはついている、ということですか?」
「ええ。あなたのお父上とは、近頃親しくお付き合いをさせていただいてまして。偶然とはいえ、ここで真っ先にあなたの身柄を確保できたのは僥倖でしたよ。不肖の娘を、よく教え導いてほしいと――そう頼まれております」
「なんですって? 父上が?」
ノガレの言葉に、思わず目を見張るランジュ。ノガレは、それにはかまわず、さらなる問いを投げかけた。
「さて。それではまず、試みに問いましょう。あなたは、知っていますか。主……とは、そもそも、いかような存在であるか」
「なにを今更。創世の女神、エンリル様……この世界の全てをお造りになられた、始まりであり、終わりであられる、全知にして万能なる、偉大な天なる唯一の主。三歳の子供でも知っていることではないですか」
憤然と応えるランジュ。その返答に、ノガレは、憐れむような眼差しを向けた。
「それは事実ではないのですよ。主はいま、確かにこの世におられます。しかし、あなたが思っているような……あるいは、世間の者どもが信じ込まされているような、そういうものでは決してありません。あの御方は、凡俗の物差しなどで測れる存在ではないのです」
「わけのわからないことを……! やはりあなたは、悪魔に憑かれているのでしょう。ギョーム・ド・ノガレ! 異端者とは、他でもない、あなたのほうです!」
舌鋒鋭く言い放つランジュ。
「ふふ。残念ですが、それも事実とは少し異なります。なぜなら」
ノガレは微笑を浮かべた。それまでの穏やかな顔つきからは想像もつかない、炎をも瞬時に凍てつかせるような、見るものをぞっとさせる、しかしてなお優美なる、極冷の微笑みを。
「――私は、不死人。あなたがたの教義でいう、悪魔そのものですからね」




