14:魔女の狩猟
カスティージャの空は、青く澄み渡っていた。
晩秋晴日。風は日々冷涼の気を加えて、葉の落ちた枝をざわめかせる。
もう冬も近い。
プリカ・ド・カスティージャが、エベッカ村に逗留するようになって、半月ほどが経過していた。
里長らの手引きで、村の空き家の一軒を提供され、わずかな従僕に守られて、しばし療養に日を過ごしていたところ――わずか一週間ほどで、プリカの体調はすっかりあらたまり、いつしか野山を歩き回れるほどに回復していた。
レダ・エベッカがプリカに与えた、不思議な白い草花。それを、レダの言いつけ通りに煎じて処方したところ、半日を経ずしてプリカの頬に微紅がさし、食欲も出るようになった。
そのレダは、しばしば様子見にプリカのもとを訪れ、従僕たちの制止を無視して外へ連れ出した。
「冥界花はよく効いてるみたいだな。あとはしっかり日光を浴びて、歩くことさ」
屈託無い笑顔で、レダはプリカを誘い、プリカも喜んでその手を取った。
天気のよい日には、手を繋いで林道を歩き、丘の上からの景色を二人で眺めた。
小川では、生まれて初めて釣り竿を握った。レダのお手製の竿という。
釣果はさっぱりだったが、レダのほうは鱒を十数匹も釣り上げて、ご満悦の様子だった。それを隣りで見ているだけで、プリカもなぜか嬉しい気持ちになった。
レダの家にも数日おきに招待され、従僕らともども、レダの両親に温かく迎え入れられた。
レダの母親が振舞う麦粥や焼き魚、獣肉と山菜のスープなどの料理は、決して豪勢ではなかったが、素朴で優しい味覚だった。
日を経るにつれ、プリカの痩せこけていた頬は、次第に丸みを帯び、枯れ木のようだった四肢も、しなやかな若木のように瑞々しく成長しはじめていた。
すっかり体力がつき、じっとしていられなくなって、麦の刈り入れなど自発的に手伝うようになり、当初はやや遠慮がちにプリカと接していた里の人々とも、すっかり打ち解けた。
同年代の子供たちとも随分仲良くなったが、それでもやはり、プリカの意識をもっとも強く引いていたのは、レダの存在だった。
レダの笑顔を見ているだけで、プリカは胸のうちに、なにかしら気持ちが安らぐものを感じていた。
レダは、常に村にとどまっているわけではなく、黒い怪鳥アンズーの背に乗って、出かけていることも多かった。
プリカより年下でありながら、精神的には到底、見た目通りではなく、プリカより遥かに大人な一面を時々垣間見せる。
自ら魔女を名乗り、実際に非常識な現象をしばしば引き起こしてみせる。
レダの左肩には、いつも愛らしい仔ウサギがしがみついていて、プリカもよくその背や頭を撫でさせてもらった。アンズーと同じく、レダの使い魔なのだという。
時々、周りに人影がないと、その仔ウサギは甲高い声で人の言葉を話し、レダに叱られていた。プリカは偶然、木陰から何度かそれを見かけたが、レダにはあえて何も訊かなかった。
そうした、常識では説明できない不思議な部分をも、すべてひっくるめて――レダという存在に、プリカは心惹かれていたのである。
一日、昼下がり。
プリカは、レダとともに、渓流へ出かけていた。今日は釣りではなく、その奥の森に出没する猪を狩るのだという。
レダはいつもの赤いドレスに黒い三角帽子。プリカは、別邸から持ってきたウールの青いコルセをゆったり着込み、革の短靴をはいている。いずれも、とても狩猟に出るような格好ではないが、レダは平然としていた。
「ねえ、レダちゃん。猪って、本に描かれた絵でしか見たことないけど、すっごく危ない生き物だって……」
小川のへりを、レダの手に引かれて歩きながら、プリカは少し不安げに呟いた。
「そりゃ、実際、猪は危ないさ。でもだいじょーぶ、アタシと一緒ならな!」
レダは、やけに上機嫌で、靴音も軽やかに、プリカを引っ張り歩いてゆく。
「今夜は肉だー、肉だー、お肉ー」
なにやら鼻歌まで飛び出した。
レダの家では、時々、ウサギやリス、雉などの獣肉が食卓にのぼる。
それらはすべて、レダが森で狩ってくる獲物らしい。五歳児にして、いっぱしの猟師以上に狩猟の名人であり、里人たちからも、よく頼りにされているという。
「魔女の狩りがどういうものか、見せてやるからさ!」
いつになく、はしゃいでいるようにも見える。楽しげなレダの顔を見ていると、プリカの不安も自然に消え去って、ふたり歩調を合わせ、繋いだ手を振って、おだやかな午後の日照にきらきら光る川面の脇を、声を揃えて歌い歩いていた。
レダの左肩に乗っている仔ウサギも、二人の調子にあわせて長耳を揺らし、愛らしい仕草で興を添えた。
そうして笑いあいながら、川べりを抜け、森に入り、探索しばし――。
ひたと、レダの足が止まった。プリカも慌てて歩みを止めた。
「おー……いるなぁ」
「えっ、どこに?」
「待ってな。……っと、まだちょっと遠いが、どんどんこっちへ近付いてきてるぜ。そら、足音が」
晩秋の深森は寂として、地面は黄色い落葉にみっしりと埋まっている。陽光をさえぎり空を覆う裸の枝々が、風にひょうひょうと鳴っていた――。
やがて遠くから、地鳴りのような響きが、プリカの耳にも届いてきた。近くで小鳥の群れが一斉にざわめき、木々を離れて飛び去っていく。
「どうも、このへんが縄張りになってるようだな。ずいぶん気が短い奴みたいだ」
ほどなく、プリカの視界のうちに、大きな影か、黒い塊のような何かが、木々の間を縫って、土煙を蹴たて、猛然と駆け寄ってくるのが見えた。
「心配すんなって。すぐ終わるから、じっとしてろよ」
レダは不敵に微笑みながら、プリカを庇うように、一歩前へ進み立った。
そのレダのもとへ、一陣の暴風のごとく、まっすぐ突っ込んで来る巨獣――大猪。体高は、レダの倍ほどもあるように見える。
その巨体が、鼻息憤然と、勢い猛烈に地を蹴って、枯葉を捲きながら、いまにもレダを踏み潰さんと眼前に迫り来る。
レダは、まったく慌てず騒がず、無造作に右拳を握りしめ――。
巨獣の鼻面を。
殴った。
――次の瞬間。
見えざる壁に跳ね返されたかのように、大猪は、あざやかに宙を舞っていた。
あれよと見る間に、巨獣は地面に落ち転がり、巻き上がる土煙の中で、もうすでに事切れていた。
「よーし、獲ったぞー!」
レダは、満足気にうなずき、右腕を天に突き上げてみせた。
「魔女の狩りって……」
そんなレダの様子を眺めつつ、プリカは、やや呆気に取られたように呟いていた。猛獣を素手で殴り倒す狩猟など、プリカは聞いたこともないが、レダがそう言うのなら、そうなのだろう……。
「いまのって、魔女とか魔法とか、全然関係ありませんよね? 素で殴っただけですよね?」
肩の仔ウサギが、何か早口で喋ったような気がしたが、たぶん気のせいだろう、とプリカは思った。
日暮れ前。
無事に狩りを終えて、レダとプリカは村へ戻ってきた。
絶息した大猪の巨体を、左肩に担いで歩くレダ。例の仔ウサギは、レダの三角帽子の縁に移動して乗っかり、すまし顔で長耳を風にそよがせている。
レダとプリカは、また手を繋ぎ、意気揚々と鼻歌まじりに並んで歩き、集会所の広場へさしかかった。
「おお、なんだそりゃあ!」
「すっげえ獲物だ!」
「お、おいおい、それ重くないのか? 猪だろ?」
里人たちが駆け寄って、二人を迎え入れたが、レダ自身よりも遥かに大きな獲物と、それを軽々と担ぐレダの姿に、誰もが瞠目した。
レダが尋常な子供でないことは里人にとって周知の事実。ただ、それはそれとしても、これはまた格別に異様な情景と映っていたらしい。
「こいつのお肉は、あとでみんなで分けるからな。うちだけじゃ食いきれないし。じっちゃんにも見せてやらないとなー」
レダはご機嫌な様子で、集会所の隅に、どさりと獲物を降ろした。
「ああ、里長様なら、お客様が来てて、なんか話をしているところだよ」
誰か、そう告げてくる者があった。
「客……?」
と、レダが見やれば、たしかに里長の家の前に、見慣れない大型馬車が停まっている。四頭立てで、頑丈そうな御者台に、見るからきらびやかな高級客車を備えていた。装飾も豪奢で、カスティージャ伯爵家が所有する大型馬車より、さらに一段上等なつくりになっているようだ。
「よく知らないけど、王都から来た貴族様らしいよ。うちみたいな田舎に、何の用だろうね」
「馬車を降りるとき、ちらっと見えたんだけどさ、まあキラキラして、お綺麗な方だったねえ。都会のお貴族様ってのは、みんなあんな風なのかねえ」
囁きあう里人たち。
それを横目に、レダは何事か思案しつつ、プリカに声をかけた。
「プリカ、悪いけど、うちまで行ってさ、とーちゃんと、かーちゃんを、ここまで呼んできてくれ。そんで、コイツを捌いて、みんなにも分けてくれるように、言っといてほしいんだよ。頼めるか?」
「うん。いいけど、レダちゃんは?」
「アタシは、用事ができた。あの馬車……ありゃ多分、アタシの客だろうから」
「えっ、そうなの?」
「ああ。ちょっと行ってくる。あとは任せたぞ」
「うん。またあとでね」
「おお、今夜はお肉だからなー!」
レダは笑って手を振り、その場を離れると、いそいそと里長の家へ駆け込んだ。
「おーい、じっちゃん! いるか?」
玄関口から声をかけると、里長ではなく、別の人影がレダを出迎えた。
「お待ちしておりました」
しなやかな長身に白銀のガウンをまとう、白皙碧眼細腰の美青年。闇夜のように黒い長髪をなびかせ、穏やかな微笑をレダに向けてくる。
「レダ・エベッカ様……ですね?」
問いかける声も涼やかに、なにかしら耳に心地よいものを感じさせる。
レダはうなずいてみせた。
「そうだ。で、おまえは?」
「失礼いたしました。お初にお目にかかります。私は、ギョーム・ド・ノガレ。この王国にて、宰相の職を務めております。どうか以後、お見知りおきを……」
王国宰相、ギョーム・ド・ノガレ。
「憂愁の蒼月」と称される美丈夫にして、王国最高の行政官たる人物は、そう名乗るや、レダの前に恭しく片膝をついて拝跪し、最大の礼儀をほどこした。




