13:御心に忠実ならんことを
大陸西方、王国の東隣に接し、一大領域を占める都市国家群。
文字通り、一都市で一国家を形成する小国の集合体である。
都市ごとに様々な特色があり、政治形態や法制度も国ごとに異なる。
伝統的な王制を維持している国もあれば、議会共和制を採用している自由都市もあり、商人らの合議によって運営される特殊な商業国家もある。
また、形式上のみ王国に臣従し、王国から爵位を授かって統治を行う、いわゆる諸侯国も複数存在していた。
そのような雑多な国々の集まりでありながら、言語と通貨は共通化されており、合議組織などの意思統一機関が存在しないにも関わらず、さながらひとつの国家でもあるごとく、相互密接に協調して、共存関係を築いていた。
長年、そうした関係性が維持されてきた最大の理由が、共通の宗教である。
都市国家群に属する全ての都市が、女神教の強い影響下にあり、その総本山たる宗教都市国家、すなわち教皇国こそ、実質、都市国家群の首長たる地位にあるというも過言ではなかった。
教皇国は女神教開祖たる聖女シモーヌゆかりの聖地として知られる。都市国家群のやや東南、フィナス河の畔に位置し、一都市としては破格の広大な領域に、無数の宗教施設が所狭しとひしめきあっていた。
いかめしい外壁や外濠のような防御設備は一切存在しておらず、都市とその外側の地域は、緑の蔦の繁る低い土塀と、東西に設けられたささやかな関門とによって区分けされているにすぎない。
したがって、教皇国へと通じる東西の巡礼路――これはそのまま、都市国家群の交易路でもある――を旅する人々は、女神教の総本山たる白亜の大宮殿をはじめ、空にそびえる美々しい教会建築群の偉容を、街道のどこからでも目にすることができた。
教皇国の中心市街は、中枢たる大宮殿の東西及び南側から放射状に伸びる大路に沿って、複数の修道院、聖堂、宿泊施設、商店街、教会寮、一般信徒や教会関係者らの住居などに分かれている。それらへの訪問者は年中絶えることなく、大路は常に各地から訪れた巡礼者や聖職者、商売人などの人混みで溢れ返っている。
街路の構造、水路に掛かる橋梁などの建築様式も洗練されており、ことに教会建築の壮麗ぶりは、かの王国の都をすら凌ぐものがあった。王都の隆盛を西方世俗文化の極みとすれば、教皇国に軒を連ねる大伽藍の壮観こそ、西方宗教文化の精髄といえるものである。
また中枢から北へ目を転じれば、大宮殿の北側一帯には、教会所有の広壮な庭園、農場、牧場があり、それらの一角に、修道服や礼拝用の消耗品などを製造する各種の作業場も配置されていた。そこで働く関係者だけでも何千人という規模があり、教会に仕える僧職者の数はその何十倍にもなる。
教皇国とは、すなわち一都市丸ごと巨大な宗教施設であり、そのあらゆる設備が、中枢にそびえる大宮殿と、そこに座する教皇、そして聖女の宗教的権威を支えるために存在していた。
大宮殿――全高十丈という白亜の巨塔を中心に、大聖堂、礼拝所、迎賓部、客館などの各棟を四方に配し、五つの庭園と噴水広場を擁する、女神教全体の象徴というべき大建築物である。
その中心たる白塔の最上階。
ひとり豪奢な調度に彩られた一室の窓辺に寄って、昼下がりの都市を眺めおろす人物があった。
外見は、ごく年若い女性のようである。長身に白銀の僧服をまとい、長い銀髪を背で束ねている。白貌赤眼という、西方でも珍しい容姿だった。
眉目はごく穏やか――というより、やや眠たげな顔つきで、どこかおっとりした気配を漂わせている。
窓の桟に、一羽の黒いい小鴉が止まって、両瞼をぱちぱちさせながら、女性を見上げていた。
「……あら」
その女性が、ふと、何かに気付いたように、ぽそりと呟いた。
「いま、剣……折れました?」
女性は、いかにも困惑したふうに、少し眉をひそめた。
「困りましたね。あれには、ちょっとお気に入りの悪霊を封じておきましたのに。逃がしちゃいましたか」
その呟きに同調でもするように、黒い小鴉が首をかしげる。
「先ほどまで西空を覆っていた異様な霊力は、やはり、そういうことですか。とうとう、ここまで追ってきたのですね……」
顔を上空に向け、嘆息をもらす。
小鴉も、つられるように頭をもたげ、空を見上げた。
「……所詮、深海の毒魚が陸に上がったようなもの。たいしたことはできないでしょう。けれど、放置もしておけませんね」
かすかな笑みとともに、ゆっくり室内へ振り向く。
その視線の先で、きらびやかな赤いガウンをまとった人物が、ひとり床に拝跪し、じっと女性の指図を待ち受けていた。
女性が、室内へ、囁くように声を投げかけた。
「ウルくん」
「はい」
呼ばれて、その人物は、静かに顔を上げた。
金髪碧眼の、小柄な――若者というより、少年というべき年頃に見える。
「何事でしょうか」
少年は、憧憬まじりの眼差しを女性に向けた。――誰あらん、この窓辺に佇む銀髪紅瞳の女性こそ、教皇国の大天主、聖女シモーヌ。
そのシモーヌの膝下に跪く、赤いガウンの少年は、教皇国の現教皇、ウルバヌス三世である。
「よく聞いてください。かの義勇の騎士……ジェラール・ド・モレーが、たったいま、殉教したようです。おそらく、彼の軍勢もすべて」
いかにも悲嘆に耐えぬ――というような面持ちで、聖女シモーヌがそう語るや、少年ウルバヌス三世は、驚きに眼を見張った。
「まことにございますか……! あの、エリゴスの総長が」
「ええ。彼には確か、王国に出現した『猛悪なる異端者』を討つよう、こちらから要請を出していましたね?」
「はい。王国の魔女、レダ・エベッカとかいう……まだ年端もいかぬ子供と聞いていましたが」
「油断ならぬ相手のようです。本腰を入れて対応せねばならないでしょう」
「では……公会議を召集いたしますか?」
「そうですね。それがよいでしょう。あれはどうしても時間がかかりますから、すぐにも呼びかけてください」
「ではそのように――」
「あ、でもその前に」
うなずきかけた少年教皇へ、聖女は一歩近くに寄って、さらに指図を重ねた。
「今回、情報の取り扱いは慎重に。私手ずから聖剣を授けた騎士が、異端者に討たれたなどと知れたら、皆さん動揺するでしょうから。そこのところは、うまく取り繕ってください」
「ああ、そ、そうですね。すぐ王国に使者を出して、手配をいたします」
「ええ。そうしてください。頼りにしていますよ、ウルくん」
「は、はい! 承知いたしました! すべて、御意のままに……!」
「ふふ。元気でよろしい」
「はっ……!」
ウルくん――こと、少年教皇ウルバヌス三世は、わずかに頬を赤らめながら、あらためて恭しく拝礼をほどこした。
聖女は、その様子を眺めおろしながら、あくまで眠たげな目元に、穏やかな微笑をたたえている。
このとき、聖女の紅の双瞳に、いかなる感情がうごめいていたものか。
余人には到底、測り知ることはできなかった。
女神教の伝承によれば――聖女シモーヌ、本名はエレオノール・シュイジー。いまは滅び去った古代の小王国、その王族であったといわれる。
十八歳の誕生日を迎えたその朝、突如として何らかの啓示を受け、自らを創世の女神エンリルの化身、「聖なるシモーヌ」と称するようになった。
その啓示と覚醒の日、世界中で桃花が一斉に咲き乱れ、空からラッパの音が鳴り響き、東方から三博士が訪れて、シモーヌに出家を勧めてきたとされる。シモーヌは、必死に引きとめる老家臣を殴り倒して、ひとり救世の旅路へ出発した……と、伝承には記されている。
ほどなく、女神教の開祖を名乗り、布教活動を開始。大陸各地を訪れ、行く先々で様々な奇跡を起こし、街辻に遊説して、大衆を教化して歩き、門下に三千の弟子を引き連れて大教団を形成する。
それからさらに十数年をかけて、大陸西方全域を折伏掌握し、ついには女神教を大陸最大の宗教組織へと育てあげた――という。
女神教の開教から、既に千三百年余。聖女シモーヌは、いまもなお、教皇国に健在である。
その肉体は十八歳で啓示を受けたときから一切変化がなく、当時の若々しい外見のままであるという。
ただ、一般には、その事実は伏せられている。聖女シモーヌとは、開祖にして初代たるエレオノールの血と法力を最も濃厚に受け継ぐ子孫が、代々、聖女シモーヌの名を継承しているものとされ――。
現在は、百二十五代目のシモーヌが大天主の座にあって、教皇とともに女神教の最高意思を決定している――と、宮殿内外に、そう公式に流布されており、誰もそれを疑う者はなかった。
シモーヌが不老不死たることは、宮殿の奥の院たる白塔の秘中の秘として、代々の教皇のみが知る最重要の枢機となっている。
その教皇は形式上、教皇国の主権者であり、教会権力の最高位にあるが、実質は聖女シモーヌの意思を代行する傀儡でしかなかった。
したがって、現今、シモーヌ自身が表舞台に立つことは滅多になく、拝謁の資格すら、教会上層のきわめて限られた人々にしか与えられていない。
それは現教皇ウルバヌス三世をはじめ、五人の枢機卿、各宗教管区を統治する大司教たち、及び大司教と同等の格式を持つ一部の修道会総長などで、かの聖エリゴス騎士修道会総長ジェラール・ド・モレーも、聖女への拝謁資格を有する教会大幹部の数少ない一員であった。
よりにもよって、そのジェラール・ド・モレーが、異端の魔女を討伐の途上、軍勢ごと、カスティージャ伯領において消息を絶った――。
飛報は、すぐさま各地の教会関係者らに伝わり、ことに王国教会管区の大司教座に仕える聖職者階級に、大きな衝撃と動揺をもたらした。
教会は現地調査に乗り出し、重要な証言と証拠をいくつか持ち帰ってきたが、遺憾ながら、騎士団の生存者は一人として確認できなかった。
現地の領主たるカスティージャ伯爵や、付近の修道院職員などの証言は、すべて一致していた。
それによれば、騎士団は総長ジェラールの指揮下、悪天候に進軍を強行し、エクスン河の畔まで到達したところで河川の氾濫に巻き込まれ、壊滅したという。
つまりこれは――魔女レダとは無関係の災害による、悲しむべき不幸な事故であり、騎士団の敗北を意味するものではない。また被害規模においても、致命的なものとはいえない。
教会側は、そのように見解を固め、発表に踏み切ることにした。
「主の御名はまことに偉大にして輝かしく、われらはその慈愛と慈悲に恥じぬ不退転の意志と信仰心を奮って、われらの騎士団を、なお一層、援助するべきである。されば、われらの騎士たちは、主の祝福を霊なる剣に変えて、この聖なる戦いを継続し、必ず目的を完遂し、女神の正義を世に知ろしめすであろう。願わくは諸氏、天なる女神の御心に忠実ならんことを……」
王国管区大司教ロベール・ド・ミシェルは、公式発表の場において、こう熱舌をふるって演説した。
今回、不幸な事故はあったものの、致命的な被害ではなく、エリゴス騎士団には今も十分な戦力が残されている点を強調して、教会組織、各勢力の一致団結を訴えたのである。
このとき、現地調査によって、砕けて半分になった聖剣ジャン・バールの剣身と柄が発見されており、大司教のもとにも、その報告が寄せられていた。
大司教座は、この報告を無視し、握りつぶした。聖女が手ずから総長に授けた聖なる剣が、砕けたなどと――到底、公にできる話ではなかったからである。
騎士団総長ジェラール・ド・モレーは、事故によって殉教し、聖剣ジャン・バールもまた、ジェラールとともにエクスンの藻屑と消えた――教会側の公式見解は、こう決定され、もはや覆ることはなかった。
総長と主力の精鋭三千を失ったことは、エリゴスにとって、また教皇国や王国管区下の各教会にとって、大きな痛手ではあるものの、エリゴスの総本部は、なお王都に健在である。
第一軍団長ゼルナールの指揮下、本部残留の騎士だけで五百人余、それに王国各州の支部二十三箇所、いずれも五十人前後の騎士が駐留し、それに数倍する准騎士、兵士、団付き僧職者、労務者などの関係者を擁している。
本部、支部、それぞれに防塞、礼拝所、庭園、農地、練兵場などの付属施設と膨大な固有資産があり、一武力組織として、また一宗教組織としても、依然、王国内では群を抜く規模を誇っていた。
教皇国、王国管区大司教座、いずれも、エリゴスにはなお余力あるものと見做し、レダ・エベッカ追討の要請は取り下げなかった。また騎士団内部においても、レダ討伐の意志はいささかも揺らぐことなく、再度の遠征軍編成を急いでいた。
王都のエリゴス塔において、第一軍団長ゼルナールが幹部会の満場一致で暫定総長に選任され、その就任挨拶の檀に立っていた頃――。
カスティージャ地方の辺隅、エベッカ村にて、件の魔女レダ・エベッカ当人と、王国宰相ギョーム・ド・ノガレが直接対面し、この際、エリゴスを完全に絶息せしむるべく、ある悪謀をささやき合っているなどとは――教会関係者も、騎士団も、誰ひとり、夢想だにしていなかった。




