11:這い出る瘴気
歴戦の騎士団総長にして、武勇の誉れ高きジェラール・ド・モレーの豪剣。
聖女に鍛えられし聖剣ジャン・バールの、祝福されし刃。
それを。
事も無げに、レダは受け止めてみせた。
ただ二本の指先で。
ジェラールは、瞠目しながら、柄を掴む両腕にありったけの力を込めて、どうにか刃を押し込めんと、全身で踏ん張った。
刃先は微動だにしない。さながら鉄の万力で、がっちり挟み込まれてでもいるかのように。
「こ、これも、魔法……かッ!」
額から脂汗を滴らせ、ジェラールは呟いた。
レダは、涼しい顔して応える。
「いいや? 純粋に、アタシの力さ。言ったろ、地力の差だって」
「ふざけるな、そんなことが――」
「あるから、こうなってるんだろうが。なんなら、もう一度打ち込んでみるか?」
嘲弄の笑みを投げかけながら、レダは指先をわずかに動かし、ジャン・バールの刃を、弾くように押し離した。
いきなり剣先が跳ね上がり、ジェラールは体勢を崩して、仰向け気味に数歩、後ずさる。
「ぬうっ! おお、おのれ――」
「なんだ、そのへっぴり腰は。わざわざ離してやったんだぞ」
「ぬかせ!」
ジェラールは激昂し、再びまっしぐらに突きかかってきた。
体重も速度も完璧に乗った、鋭い刺突が、いまにもレダの小さな身体を貫く――かと見えた。
ジャン・バールの刃先は、ついに、レダの赤いドレスの、無防備な胸元にまで届いた。
だが、貫けなかった。
それどころか――ドレスの布地をわずかに傷付けることすら、かなわなかった。
ジェラールの渾身の突きが、レダの胸へ当たった瞬間――柄を握る手に伝わってきたのは、さながら鋼の塊を打ったような感触だった。
「なんだ、これはッ……」
ジェラールの顔から、血の気が引いてゆく。
いま、レダはまるで無防備の態だった。それであってさえ、この聖剣の刃をもってして、傷ひとつ負わせられないとすれば――。
どうすれば、勝てるのか?
どうやれば、この恐るべき魔女を……子供の皮を被った怪物を斬れるのか?
ジェラールは、さらに剣を振り上げ、膂力の限りを尽くして斬りかかった。
肩口、首筋、顔面、胴、目に付く箇所へ全力で刃を打ち込み、突き押し、薙ぎ、振り抜き、斬りさげる。
何をやっても、どこを突いても、まるで鋼鉄の彫像でもあるように刃が通らない。髪一筋すら、斬れない。
その間、レダは微動だにせず、ジェラールの狂態を、じっと観察し続けていた。
「馬鹿、な」
ジェラールの手が止まった。すっかり息が上がっている。
もとより、先ほどまで激流に翻弄され続けていた身である。
疲労は極みに達していた。
両腕が鉛のように重い。
(また……)
ふと、無力感にとらわれ、ジェラールの心身が急激に萎えてゆく。
(私は、また、何もできないのか。あのときと同じに――)
ジェラールは脳裏に思い浮かべていた。ただ無念の臍を噛むしかなかった、痛恨の記憶を。
ミルビショア騒乱、後のミルビショア聖戦の発端ともなった、シルゴン城事件。
……女神暦一二九二年。長年の宗教的圧迫に耐えかね、武装蜂起した女神教異端の一派が、ミルビショアの西隣にあるシルゴン城を襲撃し、住民二千人余ことごとくを虐殺し、城を占拠した。
当時、そのシルゴン城を領していた騎士こそ、他ならぬジェラールであった。
一日、ジェラールが所用で城を離れている間に、その悲劇は起こった。
急報を聞いて駆けつけたとき、ジェラールの目に映ったのは――。
業火に包まれる城下。そこに血臭おびただしく折り重なる領兵、住民たちの累々たる死屍。
城門に、衣服を剥がれ首をくくられた無残な死体が複数ぶら下げられていた。
それらはすべて、城主ジェラールの父母、妻子の、変わり果てた姿であった。
憤激したジェラールは、ただ一人、馬を駆って城下へ突入したが、個人の武勇だけで、どうなるものでもない。たちまち重傷を負って、異端派の捕虜となった。
その後、ジェラールの遠戚であり、また年来の親友でもあるサントメール男爵が、異端派と交渉して身代金を支払い、ジェラールの身柄を引き取った。
ジェラールは解放されたが、依然、シルゴン城は異端派に占拠されたままであり、家族の遺骸もなお晒し物として辱められている。
ジェラールは異端への復讐を胸にかたく誓い、サントメールのつてを頼って、世俗を捨て、修道騎士への道を歩みはじめた――。
ジェラールにとって、いまだ、その復讐は、果たされていない。
聖戦の結果として、ミルビショア派は殲滅したが、それは世にはびこる異端の一派を潰しただけにすぎない。
女神の御名において。聖女の旗の下に。この世のすべての異端者を駆逐し尽くすこと。それでようやく、自分は、あのとき守れなかった家族に、顔向けできるようになる……。
であれば。
異端の魔女を。この怪物を。
斬れない、などと。
断じて、認めるわけにはいかない。
(……そうだ。あの時とは違う。いまの私には、聖女と聖剣の加護がある。まだ、私はやれる)
残る力を振り絞って、柄を握りなおし、ジェラールは高々と刃を掲げた。
レダは、端然とその場に佇み、ジェラールの姿を、冷ややかな眼で眺めていた。
「主。いったい何をなさっておられるので?」
ふと、レダの背後から、こっそりとアンズーが訊ねた。ジェラールには届かない小声で。
初撃の火球こそ打ち消されてしまったが、レダがその気になれば、ただ一撃でジェラールの首を落すも容易なはずである。
にも関わらず、レダは棒立ちになって、ジェラールにひたすら打たれ続けていた。その様子を不思議に思ったものだろう。
「ま、見てな。もうぼちぼち、頃あいだろうし」
レダは振り向きもせず答えた。
「頃あい、とは」
「あの剣な。霊力を吸収するんだよ」
「ええ、そのようですが」
「で、あれにアタシの霊力を十分に吸わせれば、剣の『内側』から、アタシが直接、物理的に干渉できるようになる。いま、その操作をやってるとこさ」
レダの返答に、アンズーはわずかに頭を下げた。
「……主も、お人が悪い」
アンズーは、どこか憐れむような面持ちで、ジェラールのほうを見やった。
そこへ、猛気を持ち直したジェラールが、再び突進してくる。
その剣――聖剣ジャン・バールの白刃に、いつしか、細かな亀裂が生じていることに、ジェラールは気付いていなかった。
「くたばれ、化け物ぉッ!」
ジェラール渾身の一閃。その意志に応えるように、ジャン・バールの剣身が、白い燐光を帯びている。
鉄をも断つやという、研ぎ澄まされた斬撃を――レダは、そっと右手を差しのべ、指先で、軽く弾き返した。
鈍い金属音が響き渡る。
――剣が、砕けた。
折れた刃先が、細かな破片とともに、くるりと宙を舞う。
ジェラール自身はといえば、レダに弾かれた反動で、激しく後方へのけぞり、そのまま仰向けに、泥濘のなかへ倒れ込んだ。
「な、なに……が」
何が、どうなったのか。
状況が把握できず、ジェラールは、ただ驚愕の眼を空中に向けた。
輝く金属片が、ジェラールの視界のなかで、ぐるぐると回っている。
まだ理解が追いつかない。いま自分は何をされたのか。あれは何なのか――。
ふと、視線を転じる。
自分の右手に握りしめている聖剣。その剣身が。
半ばから、折れている。
「馬鹿な」
ジェラールは、わが目を疑った。
聖女シモーヌが手ずから鍛え、祝福を授けた聖剣ジャン・バールが。
……折れる、などと。
それも、魔女レダにかすり傷ひとつ負わせることすらかなわずに。
こんなことは、ありえない。
あっていいはずがない。認めてはならない。
なぜなれば、それは――異端の魔女の力が、聖女の威力を凌駕することに他ならないからだ。
それだけは、絶対に認めるわけにはいかない……!
全身の力を奮いたたせ、再び起き上がらんとするジェラール。
異変は、そのとき生じた。
ジェラールの手にある聖剣――その半身となった刃から、白い霧のような瘴気が溢れだし、急速にジェラールの全身を包み込みはじめた。
「なっ、なんだッ……!」
レダが、倒れたジェラールのもとへ、ゆっくり歩み寄る。
「これで、おまえは終わりだよ。アタシが手を下すまでもない」
「どういう意味だっ、私はまだ」
言いつつ、ジェラールはどうにか立ち上がろうとしたが、いかなるわけか、手足がまったく動かない。
「最後だから、ひとつ教えといてやる」
レダは、表情を消して語りかけてきた。
「その剣を、シモーヌが鍛造したのは、おそらく本当だろう。だがな、そこに封じ込められているのは、聖なる力でもなけりゃ、女神の祝福でもない。その剣には、魔神が封印されていたのさ」
「魔……神……?」
レダの言葉に、当惑げな顔つきを浮かべるジェラール。
「そりゃ、知らんよな。いちいち詳しく説明してやる猶予はない。ただいえるのは、地上で肉体を喪失し、霊魂だけの状態になった魔神は、必ずなんらかの依り代を必要とする。いままではその剣が、そいつの依り代になっていた。だが、剣はへし折れ、封印は解けた。それで、新たな憑依先を求め、魔神が外に這い出てきたってわけだ」
「こっ、これが……魔神っ? まさか?」
そうしている間にも、ジェラールの全身へ、濃厚な瘴気が覆いかぶさってゆく。
「ああ。だが、魔神の憑依先としては、人間の肉体はあまりに脆い。おそらく数秒ともたず、グズグズに崩れちまうだろうよ。……そいつは、聖剣なんかじゃない。いわば、魔剣……力を貸し与えはするが、いずれ持ち主を滅ぼす、ロクでもない代物さ。おまえはシモーヌに騙されたんだよ」
「そ……ん、な」
「おまえの境遇にゃ、ちっとばかし同情するがな。……といって、放っとけば、この先どれほど無辜の民が犠牲になるかわかったもんじゃない。ジェラール・ド・モレー。ここで死んでおけ。おまえの復讐は、もう終わったんだ」
視界が漂白されてゆく。
ジェラールの意識が、急激に薄れはじめた。
最後に、その目に映ったものは。
かすかに憐憫の情を滲ませるかのような、レダの穏やかな眼差しだった。




