10:魂の救済
カスティージャ伯領の北東、端然そびえる一山あり、名をセルグス山という。
その内懐から湧き出た源水が、渓流となり、いつか激流となり滝となって山麓より注ぎ落ちる。それがシルキス川という名で盆地をめぐり、さらに三つの河水と合流したものが、すなわちエクスン河である。
実に、ここ数日。その三河川、シルキス、ミド、リシュアの合流点の手前で、シルキスを人為的に堰き止めるべく、大掛かりな土木工事が実施されていた。
駆り出された人夫は延べ三百人余、すべてカスティージャ伯領の住民であり、伯みずから、臨時に雇い入れた人々である。
もとよりレダは、エリゴスの軍勢など、まっとうに相手にする気はなかった。
出発当初より、エリゴスはエベッカ村を目標の地と定めて進軍していた。
人口わずか二十戸の寒村といえど、そこにはレダの実家があり、両親や里人たちにも恩義がある。
レダとしても、ただ拱手して、その到来を待ち受けるわけにはいかない。
レダは一計を案じた。
エリゴスがエベッカ村へ接近する前に、策を弄して低地に誘い込み、そこへエクスンの上流から鉄砲水を叩き込み、何もかも、きれいさっぱり洗い流す――という、水攻めの計略である。
レダは、この計画をまずカスティージャ伯へと持ちかけ、協力を求めた。
ちょうど季節柄、雨は多く、河川は増水している。それを上流でいったん堰き止めておき、そのうえで、領内でもとくに海抜の低い地形を選んで、そこへエリゴス全軍を誘導し、合図とともに堰を切って、エクスン河を一気に氾濫させる。
その具体的な手筈――必要資材の調達、土木運輸、ダムの築造工法、合図の方法に至るまで――レダは、緻密に計画を練り上げ、伯へ提示してみせた。
ただ、ここにひとつ懸案となるのは、想定される被害範囲のほぼ中心に、伯の所有する別邸が建っており、伯の孫娘プリカがそこで療養中ということだった。
プリカはいずこへか避難させるとしても、別邸そのものや、その付近の土地については、洪水でなにもかも押し流されてしまうことになる。
当然、田野は荒れ果て、領地の生産力は著しく低下する。またダムの築造にかかる費用、洪水に巻き込まれる可能性のある下流域の住民の避難手続きなどもある。
さしもの伯といえど、こんな無茶な要求を易々と受け入れられるはずはない。
レダとしては、根気強く伯と交渉し、できうる限りの交換条件をも提示して、どうにか説得するつもりでいた。
……ところが、案に相違し、伯は即座に、全てを承諾した。
それどころか――ぜひ、気の済むようにやってくれと、かえってレダを励ましたのである。
伯が出した交換条件は、プリカの避難先として、エベッカ村へ一時受け入れてもらいたい……という、一点だけであった。山野の空気や、庶民の生活などに触れる、良い機会になるだろうというのである。
別邸や田畑の損害、土木費用などについても、領民の生命さえ守られれば、これしきの出費、何ほどのこともない――と、剛腹に言い切った。
(……あのじーさん、どんだけアタシを信用してくれてんの。豪快にもほどがあんだろ……嫌いじゃないけどな、そういうの)
伯の快諾を得られたことで、レダはいささか拍子抜けしたが――。
ともあれ、これで計画は動き出した。
レダはプリカをエベッカ村へ受け入れる根回しのため、いったん実家へ戻った。
伯のほうでも、急ぎ人手を募って、ダムの起工や、エリゴスを領内に引き入れ誘導するための手配に取り掛かったのである。
地表一面、見渡す限り、黄濁の波涛、渦巻く水、水、水――。
上流より堰を切って押し寄せた奔流は、大地を震わせ、飛沫天に沖し、おびただしい轟音とともに、河岸の左右一帯の低地を覆い、建築物、疎林の草木、田野の土砂まで、その一切合財を下流めがけて巻き込み押し流していった。
レダの計略は図に当たった。エリゴスの精鋭三千の軍勢は、ひとたまりもなく壊滅し、いまや人馬ことごとく暴流に呑まれ、ほぼ全員が溺死している。
――ただ一人の例外を除いて。
総長ジェラール・ド・モレーは、空に突如、赤い火光が揚がるのを見るや、よもや――と、いち早く危機を察し、咄嗟に佩剣を抜き放って、その刃を大地に深々と突き立てた。
直後、膨大な濁流が、唸りをあげて襲いかかってきたのである。
ジェラールは、剣の柄を両手にしっかと握り締め、聖女の加護をひたすら祈念して、巨岩をも粉砕する怒涛の水流に、全身全霊で抗い続けた。
一体どれほどの時間、そうしていたのか――。
呼吸の苦しさばかりでなく、さながら全身に杭を打たれ八方へ引き千切られるような凄まじい衝撃、肉も張り裂け骨も砕けんばかりの激痛はまさに言語に絶し、いつ意識が消し飛んでもおかしくなかった。
それでも、ジェラールは耐え抜いた。肉体と精神の限界を超えて、ジェラールは、ただ無心に、剣にしがみつき続けた。
やがて、さしもの水勢も時間とともに次第に衰え、水位も下がりはじめた。
あらかた水が流れ去ったとき――ジェラールは泥のなかに、ただ一人で立ちつくしていた。その全身、不思議な燐光に覆われて。
(……生きている。私は、助かったのか)
肩で大息をつき、手許を見やれば、剣身から眩い銀色の光輝が溢れだしている。ジェラールにとって、これまで見たことのない現象だった。
(奇跡だ)
ジェラールの剣……聖女みずから鍛えたとされる聖剣ジャン・バール。この輝きこそ、まさに聖剣の加護であろう。
これぞ信仰の力。聖女の奇跡に他ならない――そうジェラールは確信した。
しかし、聖女の奇跡は、ただジェラールの一身を守るのみにとどまった。
かろうじて人心地つくと、ジェラールはあらためて周囲を見渡したが、視界に入るものといえば、ただただ黒褐色の泥流に覆われた大地。
別邸や、その周囲に広がっていた田野、エクスン河の土堤まで――人工物と自然物の区別なく、ただの一物とて、そこに影をとどめてはいなかった。
ジェラールが率いてきた三千もの人馬も、一人残らず濁流の彼方に消えている。
「なんということだ。女神の栄光の守護者たる我らが、このような」
皮肉にも、あれほど激しく降り続いた豪雨は、すっかり止んでいる。雲も次第に薄くなり、風おだやかに、遠く水音だけが聴こえていた。
この惨状を前に、さしもジェラールも悲嘆に身を震わせて、思わず天を仰いだ。
そのとき。
急速に晴れてゆく空。その割れた雲間から、一点の影のようなものが、勢いよく舞い降りてきた。同時に、ほがらかな声が響き渡る。
「おお? こいつは驚いた。まだ生き残りがいたとはな!」
それは、長大な四枚の翼をはばたかせる黒い怪鳥。
その巨体の背から、身を乗り出して、いかにも楽しげに地上を見下ろす、三角帽子と真っ赤なドレスの小さな人影――。
何者か、確かめるまでもない。その姿が視界に入るや、ジェラールは勃然、全身の血液を奔騰させ、空を睨んだ。
「レダ・エベッカ……!」
輝く聖剣を地より引き抜く。
あれこそ、倒すべき敵だと――ジェラールは眦を裂き、白刃を空へかざした。
またもや、誤算。
レダは、アンズーの背から地上を見下ろしながら、小さく息をついた。
わざわざ膨大な霊力を駆使して天候を操作し、事前に散々根回しまでして、大掛かりな計略を実行したはよいが――。
なお生き残りがいるとは。
どうやら一人だけのようだが、偶然運良く難を逃れたという様子ではない。
明らかに生存するべくして生き残った、大きな力を持つ存在であるようだ。
……放置しておけば、後々、脅威となりかねない。どうあっても、ここで確実に息の根を止めておかねば、レダとしても安んじて次の段階へ移ることができない。
この方面の厄介ごとは、一撃ですべて片付いたと思っていたが、まだひと仕事、残っていたらしい。
(なかなか、思い通りにゃいかねーもんだ。あんなのがいるとはな)
レダは、慨嘆とも感嘆ともつかぬ面持ちで、地上の様子を眺めおろした。
アンズーが囁いてくる。
「主よ。どうも、おかしな気配を感じますが」
その声に、レダは「ああ」とうなずいた。
「あの剣だな?」
泥流に覆われた地表にただ一人、憤怒の鬼神でもあるような形相で立ちつくし、剣をかざす騎士。
その刃から、不思議な銀の燐光が溢れ出て、騎士の全身を包み込んでいた。さながら持ち主を守護するかのように。
「あれは……何か、封じ込められていますね」
「アタシにもわかるさ。シモーヌの仕業だろうな。あれは」
「どうなさいますか」
「降りろ。もう少し詳しく見てみねえとな」
「承知しました」
四枚の翼を器用に折り畳み、アンズーは付近の瓦礫の上に舞い降りた。
レダ自身は、あえてその背を離れず、両足をしっかと張ってアンズーの羽毛を踏んで立ち、颯爽と赤いドレスを翻して、眼前の騎士を睥睨した。
「これは貴様の仕業か、レダ・エベッカ」
騎士が怒声を投げかけてくる。
見れば、長身腰熊、銀のプレートアーマーに覆われた全身からは猛気あふれ、その眼光は豹にも似た壮漢である。年齢は中年過ぎ。
いずれ凡物ではないとレダも察したが、騎士本人よりは、その手に掲げる剣から、一層危険な気配が漂っている。
レダは、付近に霊力を張り巡らせ、油断なく騎士の様子を観察した。
「ああ。アタシの仕業さ。よくぞ生き残ったもんだな。ちょっと褒めてやるぜ」
「このような策を弄するとは、卑劣な……!」
昂然、騎士は面に怒気を注いで罵ってきた。
レダは頬を歪め、嘲弄まじりに応えた。
「そういきり立つなよ。ちょっと害虫を駆除しただけさ」
「駆除だと!」
レダの挑発に、騎士が吼える。
「聖女の正義のために世俗を捨て、女神の栄光と民の安寧のために戦ってきた! その我らを、かくも愚弄するか! 異端の魔女がッ!」
裂帛の気迫を込め、手にした剣を振り上げつつ、騎士は高らかに名乗った。
「我こそ、シモーヌの貧しき騎士にして聖域の守護者たるエリゴス修道会総長、ジェラール・ド・モレー! わが名と、聖女に賜りしこの聖剣ジャン・バールの刃にかけて! 魔女レダ・エベッカ、貴様を討つ!」
その名を聞いて、レダは内心うなずいていた。
(ふーん。そうか。コイツが……)
総長ジェラール・ド・モレー。
レダにとっては、敵対勢力の主要人物のひとりである。カスティージャ伯から提供された情報や資料によって、ひと通りの経歴は把握していた。
それによれば――ジェラール・ド・モレーは、もとは地方の小城主で、剣の達人であり、若年早くもその武名は遠近に鳴り響いていた。
僧籍に入る以前……まだ世俗の騎士であった頃、とある異端の集団が、南方の地方都市に騒乱を引き起こし、多数の市民が殺傷されるという事件があった。当時、ジェラールの家族が、この騒ぎに巻き込まれて落命したという。
以来、ジェラールは、生涯をかけて異端者を根絶やしにすることを女神と聖女に誓い、世俗を捨てて教会へ身を投じ、修道騎士への道を選び取った……などという過去を持つ。
教会に入るや、魔女狩りへの異常な執着と、酷烈なまでの異端弾圧によって、ジェラールは数々の功績を打ち立てて累進し、やがて教皇国の聖女シモーヌじきじきの推挙を受け、エリゴス騎士修道会の総長にのぼりつめた。
その就任に際して、シモーヌからジェラールへと、手ずから授けられたのが、聖剣ジャン・バールなるアーティファクト……シモーヌ自ら刃を鍛えあげたという三尺の大剣である。
そして、ジェラールが家族を失った異端騒乱――女神教内の異端教派のひとつであるミルビショア派の武力蜂起。
その集団は、もともと教皇国の公式見解である三位一体の教義に異議を唱える地方教会の信徒団体であった。
この見解の相違により、教皇国から異端認定され、発祥地である王国南部の一地方都市の名を取って、異端ミルビショア派と称されるようになったものである。
この時世、ひとたび異端と看做されれば、次にはあらゆる弾圧と迫害が降りかかってくる。
ミルビショア派の人々は、ただ教理の解釈の違いという一点のみをもって、世人に唾棄され、悪魔、外道とまで蔑まれ、王国内の各修道会派からは目の敵に追いたてられ、追い詰められて、ついに反撃に出た。武器を手に蜂起し、都市に立てこもって、激しい組織的抵抗を繰り広げたのである。
その発端から数年、熄まざる騒乱は燎原の火の燃え広がるごとく、徐々に王国南部全域へと拡大していった。
幾度か、事態を憂慮した王国政府が間に入り、教皇国側とミルビショア派との対話、交渉なども試みられたが、必ずどこかで妨害が入り、話し合いは常に決裂し、両者の関係性はますます険悪さを加えるばかりだった。
こうした状況のなか、教皇国代表たる教皇ベノレウス二世は、サシュレーア公会議の壇上にて、ある提案を行なった。
異端ミルビショア派の「魂を救済」すべく、王国並びに都市国家群の各騎士修道会へ、期間限定の戦力糾合を呼びかけたのである。
女神教の多国籍連合軍による討伐――すなわち、ミルビショア聖戦の断行。
その戦力の中心は、なんといっても西方随一の精鋭たるエリゴス騎士修道会でなくてはならない。教皇は、ジェラール・ド・モレーを総司令に指名し、ほどなく集結した総勢八万人にのぼる多国籍連合軍の指揮を委ねた。
復讐の騎士ジェラールの指揮のもと、宗教的確信に燃える八万の大軍は、たちまち王国南部を席捲した。
ミルビショア派も各地で激しく抵抗したものの、衆寡敵せず――半年ともたず殲滅された。
最後の市街戦の舞台となった旧都市ミルビショアは焼き払われ、もともとの住民を含む四万人もの女神教信徒が、押し寄せる多国籍連合軍の血刃のもと、殺戮し尽くされた。
そのミルビショアへの全面突入の前夜のことである。部将の一人が、ふとジェラールに尋ねた。
「異端の根拠地とはいえ、住民すべてが異端というわけではありますまい。見分ける方法はあるでしょうか」
ジェラールは答えた。
「すべては女神の思し召しだ」
結局、住民の誰一人として生き残らなかった。この惨劇は後に「ミルビショアの救済」と称され、教会史に輝かしき栄光の記録を刻むことになる。
(救済……魂の救済、か。物は言いようだな、まったく)
輝く剣をかざして、泥濘を蹴散らし、形相凄まじく駆ける総長ジェラール。その姿を、レダは冷笑とともに睥睨していた。
「正面から向かって来る意気だけは立派なもんだ」
レダは、ふわりと宙へ身を躍らせ、赤い羽毛が舞い落ちるように、アンズーの背から地面へと、優美に降り立った。
「褒美に、アタシじきじきにトドメを刺してやるよ」
おもむろに、右手を前面にかざす。その掌に霊力を凝集させ、極高周波による振動を加えて、高温の球体を形成する――。
青く燃え盛る火の玉が、レダの右掌にぽっと浮かび上がり、膨張してゆく。
「死ね」
直径三十センチほどにまで膨れあがった青い大火球を、レダはジェラールめがけ放り投げた。
たちまち、激しい炎がジェラールの全身を包み込む。
「魔法など効かんッ!」
獅子吼とともに、ジェラールは、手にした大剣の刃を左右に振るった。
次の瞬間――レダが放った青い火焔は、跡形もなく消え去った。
「……ほう」
レダは、少々感心したように眉を上げた。
聖剣ジャン・バールとやらには、確かに、並大抵ではない大きな力が付与されているらしい。
所持者の物理耐性向上に加えて、ある程度、霊力を打ち消す……いや、吸収する能力まで備わっているようだ。
「シモーヌめ。意外と、いい仕事してやがる」
レダは毒づいた。
――とはいえ。
「くらえ! 魔女!」
いよいよジェラールが至近へ迫った。
猛然、剣先を振り上げ、真正面から斬りかかってくる。
豪刃が空気を裂いて、まさにレダの頭上めがけ落ちかかる――。
レダは、無造作に右手を差し挙げると、一切の躊躇無く、その刃先を素手で受け止めた。
人差し指と、中指……二本の指先だけで。
「なッ!?」
驚愕に目を剥くジェラール。
「こんな程度じゃ、アタシは斬れないな。地力の差ってやつさ」
そう囁いて、レダは静かに微笑んでみせた。




