一九四五年
▼一九四五年
ロンドンで暮らしてもう一年になる。この場所で迎える二度目の夏は、まだ終わりそうにない。
戦争は終わった。ドイツは負けた。
私は小さい丸テーブルの上に置かれた白い小さな皿と二脚のカップを、台所で洗って食器棚に片づける。さっきまでアリスンが来ていて、紅茶とビスケットを小道具に話をした。
今日で話はすべて終わった。一年近くに及んだ告白も、終わってみるとあっという間だ。
終戦直後ということもあり、ロンドンの街は祝賀ムードで賑やかだ。アパートの窓から眺める石畳の街道には、小さな英国国旗を手に歩く人たちが行列をつくっている。今日は霧もなく、通りの見晴らしはいい。
ここ数日ずっと天気がいい。小さなわた雲すらない大英帝国の空を、空軍の戦闘機が整列して飛んでいる。それは戦いに行くためではない。平和式典が街の中心部であると、アリスンが帰り際に言っていた。
もうあの空で戦闘は起きない。この国と、私が生まれ育った国との戦争は終わったのだ。
ヒトラーは死に、
たくさんのユダヤ人と、
たくさんの移民と、
数えきれないヨーロッパ人と、
わずかな魔女が死んで、戦争は終わった。
あの脱走劇から季節は巡った。あまりにも早い二年だった。
私はいま、ロンドンの大通りから外れた通りの古いアパートメントでひとり、暮らしている。
私が目を覚ましたのはノルマンディー地方の連合軍キャンプのベッドの上だった。その時点で、あの日から二日が経っていた。
イギリス空軍の魔女に助けられた私たちは、そのままイギリスの捕虜となった。様々な尋問を受けた後、船でグレートブリテン島に渡り、終戦まで軍の基地施設に収容された。
私たちをはからずも助けたあの大航空団は、ドイツ軍に占領されたフランスの都市を爆撃するための部隊だった。
結局、ドイツ軍の追撃を振り切ってフランスまでたどり着けたのは私とクリスティーヌ、シャンタル、それにサラだけだった。他にはだれもいなくなった。私がテントの下の白いベッドの上で目覚めたとき、そばに寝かされていたのがその四人だった。
保護された私たちを除くみんなは、私たちの証言を元に死亡と認定された。死体は確認できていない。あの爆撃ですべて焼かれてしまっただろう。その方が良かったのかもしれないとも思う。彼女たちの無残な姿をもう一度見るのはあまりにつらい。
気を失った私を助け、私たちを捕虜として丁重に扱ってくれた女性はアリスン・レインという名前の少尉だった。彼女は空軍特務部隊の士官で、スコットランドで数百年続く魔女の名家の生まれだ。産業革命以後も、魔女はイギリスで生き続けたのだ。しかも軍人で士官。イギリスでは、少なくともドイツよりは魔女の地位が確立されていたんだ。
戦争中の私たちは彼女の監督下に置かれ、戦後にアリスンが特務部隊から戦時人権調査部に転属したので、引き続き彼女が私たちを担当した。
彼女の仕事は主に、私たち脱走兵から証言を聞き出してドイツの非人道的行為について証明するということだった。それらの証言を証拠の一つとして、戦後の裁判に役立てようということらしいが、私は興味がなかった。そういうことは、私の手の届く問題ではないように思えてならないのだ。ドイツからの脱走兵や市民は、私たちの他にもたくさんいた。
そして私の証言は今日ですべて終わった。私がドイツ空軍に所属した六年間、特に開戦してからの約四年間についてほとんどすべての出来事について話をした。話さなかったのは、私やニコラ、エミリアらの、ごく個人的なことのみだ。
生き残った三人の消息についても少し触れなければならないだろう。
シャンタルは、私たちの中では体力の回復も早く、尋問にも素直に応じた。彼女は彼女自身の事情によりいち早く尋問から解放され、それからすぐに祖国フランスの解放のためにイギリスを離れた。解放軍に義勇兵として参加するために、保護されてから一ヶ月あまりで激戦地のフランスへ舞い戻っていった。
今度はドイツの敵として、ドイツ兵を殺すために。それは彼女にとって悲願とも言える戦闘であり、本来望むべき戦争だったのかもしれない。
シャンタルにとってそれは、大義ある人殺しになるのだろうか。
去年の八月に手紙が来て以来、シャンタルからの連絡はない。戦争が終わったいま、彼女がどこでどうしているのか、私は知らない。
サラは私と同じように、終戦後の今年六月になって捕虜収容施設から解放された。まだ若い彼女は尋問に怯え、口数も少なく、一時は体重が十キロ近くも減っていた。それもそのはずで、ユダヤ人差別はドイツだけではない。ヨーロッパ全体に根深く残るそれに彼女は怯えていたのだ。
それでも彼女は少しずつ話をするようになった。すべては彼女の尋問を担当したアリスンのおかげだ。彼女はサラに礼儀正しく接してくれたようで、それによってサラの恐怖心は少しずつ薄らいだ。
サラはいま、北アイルランドに暮らしている。先月、新居と仕事が決まったという手紙が来た。若い彼女は私が思っているよりもたくましく生きようとしている。
私は、イギリス政府からの支援でロンドンの古めかしいアパートメントに一人で暮らしている。憧れたようなかわいい建物ではなく、どこか古めかしくて無骨な建物だ。いまはまだ、自分のするべきことがわからない。私をここまで運んでくれた箒は傷だらけでほとんど折れかかっていて、部屋の隅にひっそりと立て掛けている。飛んでいるときには気づかなかったが、無我夢中で飛び続けたあのときについた傷がいくつも刻まれている。柄には焼け焦げた跡が残っていた。赤黒いしみもいくつか発見したが、あえてそれを綺麗にする必要もないように思えた。
杖は白い楓のキャビネットの上に無造作に置いてある。
ドアが二度ノックされた。タオルで手を拭いてから玄関に向かう。アリスンが何か忘れ物でもしたのだろうか。
ドアを開けると、そこに立っていたのはくすんだ金髪を短く刈り込んだ背の高い青年だった。
「ヴェルテ……、どうして」
驚きのあまり声がかすれていた。一年ぶりに会う彼は、もう子どもの名残りを何一つ残してはいない。
「お久しぶりです、シャーロットさん」
エグモント・ヴェルテがそこに立っていた。彼は黒いズボンに白いシャツ、朱色のネクタイを首に巻いていて手ぶらだった。
「どうしてここに……」
私はあまりのことにその場で立ち尽くしてしまった。ヴェルテには……、ヴェルテとは会いたくなかった。合わせる顔がなかった。だって私は……。
「先月からロンドンにいたんですが、こちらに顔を出す機会がなくて。今日ドイツに帰る前に、お会いしたくてお邪魔させてもらいました」
私は、ヴェルテが何事もなかった(、、、、、、、)ように話していることに底知れぬ恐怖を感じた。一年近く会わないうちに、彼はますます雄々しく成長していた。肩はがっしりとして、精悍な面構えになっている。そのことがまた、後ろめたい気分を助長させる。
彼の時間はいまも進んでいる。
「アリスンさんにこちらを教えてもらいました」
知った名前が出てきたことで、少し頭が回り始める。
「どうしてアリスンが……」
「人権調査の一環で、僕が彼らに協力したからです。それも終わって、これから帰るんですけど」
体が芯から氷漬けになっていくような感覚がしていた。私は実現不可能な妄想をした。
すぐに部屋に駆け込んで、窓から真っ逆さまに落ちたい。私は彼には、彼だけには会わす顔がない。
「ヴェルテ……。私は……」
「シャーロットさん、何も言わないでください。ただ僕の質問に答えてくれれば、僕はすぐにドイツに帰ります」
有無を言わさぬ口調で言うと、ヴェルテはいきなり確信を突いてきた。
「エミリアさんは、本当に死んだんですか」
エミリアの笑顔と、エミリアの死に顔が、まるでつい昨日のことのように思い出せる。
半分に引き裂かれたエミリアのことを忘れたことはただの一度もない。
目を伏せることも、偽りを口にすることもできない。誤魔化すことは許されなかった。
「……本当よ」
「嘘です。あの人が死ぬはずありません」
ヴェルテの声は平坦だった。目はまっすぐに私を見ている。私はどうにか声を振り絞った。
「この目で見たの……。砲弾が彼女を貫く瞬間を、この目で……」
「嘘だ!」
叫んだヴェルテの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。その顔には、あの夏に笑っていた少年の面影があった。それでようやく、目の前の精悍な青年があのエグモント・ヴェルテだということを、私ははっきりと認識した。
逃げ出したい衝動を抑え込む。彼に面と向かってすべて打ち明けることが、私の責任だった。
「嘘です……。あの人が、そんな、死ぬわけが……」
ヴェルテはうつむいて黙ってしまった。拳は固く握りしめられている。
パレードのトランペットが、私の気も知らずに高々と鳴っている。英雄たちの帰還と、泥沼の戦争の終結を祝う音色。
ここは、どこだ。
ここがあの、私が夢見た希望の地だというのか。
あの戦場と何がちがうんだろう。ここにも、どこにも、希望なんてないじゃないか。
「ごめんなさい……、私が、守ると誓ったのに……」
「そんな言葉は、聞きたくありません」
ヴェルテは袖口で涙を拭うと、毅然とした口調で言った。
「僕は信じません。僕はあの人と、また会うと約束したんです」
別れの夜、たしかにそう言っていたのを覚えている。
あれから二日後に、エミリアは死んだ。
死んだんだよ、ヴェルテ。私たちが大好きだった、エミリア・ベルジェは。
なす術もなく、私の目の前で。
「僕は待ちます。あの人が帰ってくるのを」
そう言うと、ヴェルテは踵を返して階段を下りていく。私は部屋を飛び出して彼を追った。無我夢中だった。階段の途中で彼の腕をつかむと、ヴェルテはゆっくりと振り返った。その顔には生気がなかった。
「待って! これからどうするの、ドイツに帰るって、いったい何を」
「ドイツの復興のために働きます。僕の祖国はドイツですから」
「あの国に何があるって言うの!? あの国は私たちに何もしてくれなかったじゃない!」
ヴェルテは可哀そうなものを見る目つきで私を見た。それからゆっくりと、抑制された声で、
「僕とあの人のすべてが、あそこにはあります」
「ここにいたっていいじゃない……。私を置いていかないで……」
止めようと思っていた言葉が唇の隙間からするりと漏れ出ていた。それはきっと、惨めな響きをともなっていただろう。
あの日々が、そんなに悪いものじゃないということはわかっていた。私たちは爪弾き者だったけれど、そんなのが十三人もいれば、さびしさはある程度軽減される。暑い日も寒い日も風の強い日も、飛行が終われば待っているのはみんなとビール。そう、みんなが待っていたんだ。
でもいま、私はひとりぼっちだ。正真正銘、どうしようもなく、ひとりきり。
「……できません。それは僕の役目じゃありませんから」
うつむく私の頭上に、ヴェルテの申し訳なさそうな声が降り注いだ。顔を上げると、彼は悲しそうな顔をしていた。
私は手を離した。
「司令は、フランツ司令はどうしてるの。あなたがここに来てるんだったら、司令も……」
ずっと心残りだった。司令に預かった銃を、私は失くしてしまった。そのことを謝らないと。
「司令は死にました」
「え……」
死にました。死にました。死にました。
ヴェルテの完璧に冷静で事務的な言葉が頭の中でくり返される。司令の無精ひげと白い髪に縁取られた顔が浮かび上がる。
「司令は僕の母の姉の夫、僕にとって義理の叔父さんにあたります。母が病気で死んだので、僕は叔父さんに引き取られました。叔父さんはちょうどその頃に、奥さんと娘さんを暴動で亡くしていましたから。叔父さんは僕を大事にしてくれました」
ずっと謎だった司令の経歴がすべて明らかになったというのに、私はなんの反応も示せなかった。フランツ・マイヤーの死という事実は、私から常識的な反応を奪っていた。
ニコラやエミリア、小隊のみんなを失ったときとは別種の、半ば盲信的に信じていたことが崩れたときのような衝撃が私を圧迫していた。
「どうして、司令の奥さんは死んだの」
「僕の母も、司令の奥さんも、ユダヤ人でした。ただそれだけのことです」
ヴェルテは階段を下りて、通りに出て曲がると、見えなくなった。
私はしばらく、どれくらいかわからないけどしばらく、その場でだれもいなくなったアパートの玄関を見ていた。ふいに、そのまま腰を落とした。
堰を切ったように涙があふれる。
何もかもが失われた。本当に何もかも。
ありったけの対価を払って私が手にしたのは、アパートの小さな部屋と、限定的な生活保障だけ。
エミリア・ベルジェ。
ニコラ・ベイカー。
エリー・パットン。
ジェシカ・マクニール。
ナタリー・ブレイアム。
コリーン・オーウェン。
ケイト・アダムズ。
リリアーヌ・ポーラ・マルモル。
シルヴィ・ベタンクール。
そして、フランツ・マイヤー。
失った。もう二度と取り戻せない。
杖と箒はもう、私のアイデンティティにはならない。
通りでは祝福の行進。終わりを祝う靴音とパレード。
魔女は墜落しなかった。
誇り高き魔女たち。
私はその生き残り。
惨めったらしく、死に損ねた。
もう、空を飛ぶことはない。
大切なものを何もかも失って、飛ぶ理由は何もなくなってしまったから。
なんて愚かな生き物なのだろう。どうして私は生きているのだろう。そのくせ自分で死ぬことも出来ない。
「隊長?」
耳慣れた声がした。
顔を上げると、クリスティーヌのなめらかな顔があった。細い目をさらに細めて少し驚いたような表情を浮かべている。彼女は大きな旅行カバンを持って階段を上ってきたようで、額には汗がにじんでいた。彼女の出で立ちは、あの頃を彷彿とさせるような糊の利いたベージュのズボンに白いシャツ。頭には派手な青色のつばの広い帽子をかぶっていた。快晴の空のような青が、彼女の白金のような長い髪によく似合っていた。
「隊長どうしたんですか? こんなところで……」
「クリスティーヌ……。どうして……」
「隊長に用があって……。それよりいったいどうしたんですか」
ずいぶん久しぶりにそう呼ばれた。その、隊長という呼び方をしてくれるのは、もうクリスティーヌしかいない。
「なんでもないわ……なんでも……」
「そうは見えませんけど……」
私は立ち上がった。泣いたことで、体の中の毒もいっしょに流れ出たようで、頭は少しだけしゃんとしていた。
私は無理矢理に笑って言った。
「時間はあるの? ちょっとお茶でも飲んでいって。さっきアリスンが来てたのよ」
「いただきます」
彼女に会って安堵した。イギリス軍以外の人間に会うのはとても久しぶりだった。
ヴェルテのことは言わなかった。
私は彼女を部屋に招き入れて、戸棚からビスケットを取り出して、テーブルの上に並べた。来客と言えばアリスンがときおり仕事ついでに訪ねてきてくれるだけなので、棚の中のビスケットはほとんど減らずに残っている。
お湯を沸かして紅茶を二杯淹れる。紅茶を飲む習慣も、イギリスに来てから身についたものだ。ドイツではもっぱら、ビール……。それか、コーヒー……。
「クリスティーヌ……、本当に、よく来てくれたわね」
クリスティーヌは黙って笑った。彼女らしい、静かな笑みだ。目尻を下げて、元々細い目をきゅっと細めると、なめらかな一本の曲線が顔に書かれているように見えた。
しばらく二人であれこれと話をした。クリスティーヌと会うのはほとんど一年ぶりだった。
おかわりした紅茶もなくなり、話の種も底を尽きかけた頃、クリスティーヌがちらりと腕時計に目をやった。
「どこかに行く途中だったの?」
彼女の大きな旅行カバンを見たときから、気になってはいた。サラもロンドンを離れるとき、同じように大きなカバンを持っていたから。
クリスティーヌもフランス系だ。祖国にだって、このイギリスの島々のどこにだって、彼女はもう、好きなところに行ける。戦争は終わったのだから。
だが彼女の口から出てきたのは意外な言葉だった。
「ええ、オーストラリアに」
「オースト、ラリア?」
おうむ返ししてしまった。それくらい、聞き慣れない国の名前だった。
クリスティーヌは私に向き直ると、姿勢を正して真正面から私を見つめる。
「アリスンさんに紹介してもらった方から聞いたんですが、連邦政府がオーストラリアに魔法研究のための機関を設立するそうです。今回の戦争で、皮肉なことですが魔女の有用性というものがいくらか認められたようで……。そこで魔女が必要だということで誘われました。オーストラリアは英連邦に所属していますから」
「そう……」
「隊長もいっしょに来ませんか」
クリスティーヌは慈愛に満ちた声でそう言ってくれた。
「私たちにもようやく、意義のある生き方ができるかもしれないんですよ。これはまたとないチャンスです」
意義のある……。私はかつてニコラにそう問いかけたことがある。
魔女としての尊厳。
兵士として死ぬことの意義。
名誉的な死。
私が私である理由。魔女であることの誇り。
それが見つかるかもしれない。南洋の大陸で。
それは私の悲願だったはずだ。
私が生きてきた証を。私の父や母が立派に生きたという証明ができるかもしれない。
けれどやっぱり……。
胸の鼓動はおとなしいままだ。
その理由を、私はよく知っている。
「……ごめんなさい。行けないわ」
どう考えてみても、そこへ行く道が私には見えない。道はあの日、ぷっつりと途切れてしまった。愛していた人たちが死んでしまってからずっと、目の前には、ただ暗闇だけが広がっている。
曇り空は晴れ、かわりに闇が世界を覆っている。一筋の光も射さない漆黒の闇が。
「まだ、そんな風には考えられないの」
もうあれから一年も経ったのに。みんな歩き出しているのに。
「そうですか……」
クリスティーヌは答えを予期していたように静かにつぶやいた。それから立ち上がって帽子をかぶる。
「私、もう行きます」
「そう……。道中気をつけて。向こうに行っても元気でね」
「隊長も、どうかお元気で」
廊下に出て彼女を見送る。
彼女は旅行カバンを片手に階段を下りていく。途中で足を止めて振り返った。
「もし……、もし気が変われば、いつでも来てください。私、待ってますから」
クリスティーヌは私をじっと見て言ったが、その声に希望的な響きはまったく含まれていなかった。私の心を見透かしたのだろう。
私はあいまいにうなずいて、彼女の背中を見送った。
部屋に戻ってドアを閉めると、とてつもない空しさに襲われた。
どこにも行く気がないということを、私は悟ってしまった。
ただこの場所で、保証された無為な時間を過ごす以外には、何も考えつかない。シャンタルも、サラも、そしてクリスティーヌまでもが新たな場所へ飛び立って行ったというのに。
新しい土地へ行って、新しいことをする理由がないのだ。もう、私が好きな人たちはいないのだから。
百貨店にも行かないし、海にも行かない。私はどこにも行かない。
いっしょに行きたかった人はもういない。
キャビネットの上の杖を手に取った。なんの役にも立たないこれも、もう必要ない。
私は魔女であることをもう、だれとも共有せずに、ここでひっそりと生きていく――。
私はここに何を夢見ていたんだろう。見たこともないこの国を、楽園か何かと勘違いしていたのかもしれない。
最低の選択をして、九人もの仲間を失った最低の隊長、それが私。本当に苦しいのは、だれも私を責めてはくれないことだ。
いちばん上の引き出しを開けて、杖を収めようとしたそのとき、目に留まるものがあった。
安っぽい造りの引き出しの中には、くたびれた煙草の箱と、一通の白い封筒が、ひっそりと収まっている。封筒を手に取ると、紙は黒く汚れ、端の方は破けていた。封は開いていない。
これがどういうものだったかを、思い出す。光の速さで駆け巡る、かつての記憶。
――恥ずかしいけど、シャーロットなら読んでくれてもいいよ――
そんな声が、頭の中に響いた気がした。
どうしていままで忘れていたんだろう。とても大切なものだったのに。
輝く波の奔流がどっと押し寄せてきて、私を飲み込んだ。
シュランベルク航空基地に配属されて、ニコラやクリスティーヌに会ったその日から、あの悪夢のような砲火の日までの、六年間。
エミリアがやって来て、サラがやって来て、私が隊長として赴任したとき五人だった小隊は、最後には十三人になっていた。
不吉な数だとだれかが言った。私もそう思った。
だけどいまは、そう思わない。
その十三は、誇るべき数字だ。
私たちの33小隊は、十三人の魔女でできていた。十三人でひとつの集合体だった。
良い思い出ばかりではない。嫌なことも、さびしい夜も、悲しい出来事もたくさんあった。
最後は、あんな、ひどい結末――。
それでも、私は、みんなといることが、楽しかったんだ。
あの日々を、結末だけを除けば、私は何も後悔していない。そこにはたしかに、笑顔があった。
衝動的に杖と手紙と、煙草を握りしめて部屋を飛び出した。この部屋にいる理由は何もなかった。この部屋を飛び出す理由を私は握りしめていた。
階段を半分駆け下りたところで忘れものに気がついて部屋に戻った。箒をひっつかんで部屋を出る。途中で足を引っ掛けてテーブルが倒れた。食器がやかましい音を立てて割れたけれど、振り返らなかった。
アパートから通りに出る。パレードの音がどこかから聞こえる。左右に目を走らせると、左手の大通りを歩く人々の頭越しに小さくクリスティーヌの白金の頭が見えた。
私は駆け出した。
私には責任があった。みんなを守るという、小隊長としての責任。
それは果たせず、見失った。
それは私の罪だ。どうやってもつぐなえない大罪。
けれどいま、手の中にはこれがある。
ニコラ・ベイカーがこの世に残した唯一の思い。
私にはこれを届ける義務がある。
いや、義務なんかじゃない。
私はこれを通して、まだ、ニコラとつながっていられる。
彼女を忘れたくないという私の欲望。
ニコラのことを忘れたくないから、新しい彼女を、彼女の思い出を、私は探しに行きたい。
そのためにはあそこに行かないといけない。
大通りはパレードに向かう人でごった返している。人ごみをかき分けながら私は叫んだ。
「クリスティーヌ!」
私は何もかもを失ったと思い込んでいた。でもまだ残っていた。最後の希望を私は持っていた。あんなところでずっと眠っていた。
ニコラの手紙と、司令の煙草。彼らの記憶が宿った品物。
ここにいることはかんたんだ。イギリス政府は私を受け入れ、私を一種の検体として社会的な補償を約束してくれた。カウンセリングを受け、必要に応じて証言を行えば、永久的に最低限の生活を受けられる権利が確定している。なんの心配もなく、好きな仕事もできるし、許可を取れば外の国へ旅行することもできる。
でもそれじゃいけない。以前と何も変わっていない。
私は私で、道を切り開かないといけない。
ヴェルテにほとんど無意識で、みっともなくすがりついたのも。きっとそうだ。
私はまた、探しに行かないといけない。
「待って! 待ってクリスティーヌ!」
まだ私にも、できることがある。
あきらめるには、まだ少しだけ早い。
人通りのないさびしい通りでクリスティーヌは振り返って私を待っていた。私は彼女の前で足を止めて、息を整えながら右手を突き出す。
「あなたさっき、言ったわよね。いつでも来て、って……」
「ええ……、言いましたけど」
クリスティーヌは戸惑っていた。私はかまわず、
「気が変わったわ。私も連れて行って」
「本当ですか?」
「もちろん」
冗談なんかじゃない。ここから出て行かない限り、私は死人も同然だ。そんなのは、死んだみんなに失礼だ。
「ただし、条件があるわ」
クリスティーヌは黙って小首を傾げた。私は糸のように細い彼女の目を見てはっきりと口にする。
「ベルリンに私を連れて行って」
クリスティーヌは、彼女にしては珍しい表情をしていた。ぽかんと口を開けてしばらくつっ立っている。私は背筋を伸ばして彼女と真正面から向き合う。背の高い彼女を私は見上げる。
「聞こえた?」
私が訊くと、
「……本気ですか」
真意を探るような口調でそう言った。私は大きくうなずく。
「すぐじゃなくてもいい。それでもなるべく早く、私をドイツへ。これを届けないと、死んだあとでニコラに顔向けできないわ」
封筒を差し出しながら私は言った。クリスティーヌにはそれの意味がわからないだろう。それでいい。これは私とニコラの個人的な出来事だ。
私はしばらく彼女を睨みつけていたが、やがて彼女は微笑を浮かべて、
「その格好で行くんですか?」
私は自分の姿をたしかめた。アリスンにもらった真っ白いワンピースドレスを着ていた。クリスティーヌの格好と見くらべると、戦争未亡人みたいだった。靴もかかとの低いパンプス。色気もないし、実用的でもない。履き心地は悪くないが、物足りない。
「……着替えに戻ってもいいかしら」
クリスティーヌはくすくす笑っている。
「ええ、かまいませんよ、シャーロットちゃん」
「ふざけないで」
二つ年上の彼女の鼻先に人差し指を突きつけながら言っても、まるで説得力がない。私は彼女に遅れているのだ。
「アリスンからのお下がりなのよ」
「わかってますよ」
言い訳がましくつぶやきながら、アパートの方へ歩き出す。クリスティーヌは何がそんなに楽しいのかにこにこしている。
握りしめた二つの物体に目を落とす。一年間もあそこでおとなしくしていたのかと思うと、さびしかっただろうな。煙草はもう湿気ってしまっているかな。部屋に戻ったら火をつけてみよう。きっと懐かしいにおいがするだろう。もしあれば、コーヒーを淹れよう。
こんなに小さなものが、私の前に道を示す。
手紙を読むべきかどうか、少し考えたい。これはあくまでも、ニコラからお母さんへのメッセージなのだから。
街には爆撃のように太鼓やラッパの音が鳴り響いている。
戦争は終わった。
けれどまだ、私の戦いは終わっていない。
私はまた、箒に乗って飛び立つだろう。
私の大好きな人たちを忘れないために。
せめて死んだときに、彼女たちに褒めてもらえるように。
すべての目的を達したとき、私は死ぬだろう。その方法が、墜落か、拳銃によるものかはわからない。
けれど死ぬのはいまではない。まだ少しだけ、目的が残されている。