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魔女は墜落しない  作者: わたぼう
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一九四三年

▼一九四三年



 夏も盛りの七月のことだった。

 総合指揮所の壁に貼られた地図から、青の領土がわずかではあるが失われているのがわかった。かわりに赤がその支配地域を広げている。開戦時の勢いがすでになくなっていることはだれの目にも明らかだった。

 ニコラの秘密の友だちからも、よくない話が色々と入ってきていた。彼女の友だちは、どうもベルリンだけではないようだ。ある種のネットワークのようなものがあって、それはドイツ全土に広がっているのだと、私は想像した。ニコラに訊いても、詳細は教えてくれない。だれにでも秘密があるのよ、と言ってごまかされた。正論だと思ったので、もう何も訊かなかった。


 今日の哨戒飛行のメンバーは三人編成だった。それというのも、サラは射撃の方はずいぶんと上手くなったのに、飛行はどうにもいま一つで、練習ついでに最近は哨戒についてこさせていた。

 飛ぶことが苦手な魔女というものを、私はいままでに見たことがなかった。飛ぶっていうのは、つまりは走ることと同じようなもので、できないなんてことはありえないことだと思っていた。しかもエネルギー消費は走るよりもずっと小さい。

 たぶん神経の問題だろうな、と私は考えていた。慣らすために彼女を連れてきてはいたが、生まれ持ったものならどうすることもできない。それでもどうにか、サラを一人前の飛行隊員にしなければならなかった。

 私とサラ、それにシャンタル・ル・フレム一等兵の三人で、基地西側のマジノ線を越えた。午後の当番日で、太陽がぎらぎらと照りつける暑い日だった。

 飛行計画では、国境を越えて二十キロほど、かつてはフランス領、現在はドイツの支配下にある土地を飛んで、頃合いを見て帰還する予定だった。地図で見ると、ちょうどその辺りに大きな川があることがわかったので、そこを目印にした。

 フランス占領後、形骸化しつつあった哨戒飛行任務ではあったが、空を飛んでいるときだけは何もかもがどうでもよくなって、気持ちがよかった。雨の日も晴れの日も、ただ空を飛ぶことだけは私たち魔女の特権で、許された自由だった。たとえそれが軍務であっても、降り注ぐ太陽の日差しに露出した手や顔が黒く日焼けをしても、氷点下にもなる上空で鼻水を凍らして皮膚が知らぬ間に裂けていても、それはすべて生きている証だと、嬉しく思った。

 国境を越えてしばらく飛んでいると、前方に大きな塔のような雲がそびえ立っていた。

 夏らしい入道雲は、空のはるか高みまで伸びていた。

 箒に乗って飛んでいると、感慨深くなって、思考の海に落ちてしまいそうになる。

 空はどこまでも広がっている。きっとどこへだって行けるし、どこへだって行けない。もう自由な空なんてどこにもなくて、そこにはただたくさんのしがらみがある。

 だれかが言っていた。空には国境がないって。あれは嘘だ、空を知らないからそんなことが言える。空にだって境目はある。見えないだけで、目を逸らしているだけで、たしかにある。もし国境がないなら、きっと私は引き返さずに、このまま大陸を飛び出して、海の向こうの国まで飛んでいけるはずだから。

 けれどそんなことはできない。目に見えなくても、私の内側の世界地図に国境線は引いてある。何百年という単位で積み重ねられた歴史という境目が、私をこの国に縛りつけている。国境を越えるようになってから、私はいつも強く心を締めつけられる。何年もこの空を飛んでいるのに、もう三年もこの国境線を幾度となく飛び越えているのに、だ。

 憶病者では、鎖を断ち切ることはできない。

「隊長。そろそろ」

 意識が現実に引き戻された。

 ななめ後ろを飛んでいたはずのシャンタルが私の真横にいた。くすんだ金色の髪が風になびいて、細い眉とその下の猛禽類を思わせる鋭い目が私を見ている。振り返ると、サラは私の少し後ろをちゃんとついてきていた。

 地上に目を落とせば、目印の運河まであと少しだった。そろそろ転回して基地に戻る頃合だ。かなり長いこと瞑想にふけっていたらしい。

「そうね、戻りましょうか」

 シャツにはところどころ汗がにじんでいた。早く基地に戻ってシャワーを浴びて、彼女たちと一杯やりたい気分だった。

 でも、サラは飲めないんだっけ……。

 振り返って、後ろを飛んでいるサラに身振りで転回を指示すると、サラは拳を握った腕を遠慮がちに掲げて了解を示した。

 反転しようと箒を左に傾けかけたときだった。視界の端で何かがきらめいたような気がした。

「……?」

 頭の中で疑問符が浮かび上がる。が、だいたいいつも見間違いだ。空には色んなものが飛んだり浮かんだりしている。雲の中で雷でも光ったのだろう。そう自分を納得させた。

 ずっと空を飛んでいると、遠くのものがよく見えるようになってくる。見え過ぎるのも困りものだ。

 哨戒飛行はいつもそうだ。何事もなく基地に戻って、あの水混じりのシャワーを浴びて、副司令の小言を聞いて、みんなで一杯やって、足元をふらつかせながらベッドに入って眠りにつく。どうせ今日もそんなありきたりの日々のひとつ。とても素晴らしい平和な日。

 私はかまわず、基地に引き返すために体を傾けて左旋回に入る。二人もそれに続く。

 石を壁に投げつけたような耳障りな音がした。

 そして、私たちがほんの数秒前までいた虚空を、雷が通過した。

 振り返ってたしかめる必要なんてない。気のせいなんかじゃなかった。雲の中に、たしかにそれはいた。いま姿を現す。頭の中で警報が大音量で鳴り響く。

 振り返るな。いますぐに全身の力を最大限振り絞って一目散に逃げろ。本能が警告する。けれどどうしても、振り返らずにはいられない。たしかめずにはいられない。

 それは何故か。

 無論、そこにいるものが私の想像と同じかを、私をいま殺そうとしたものをたしかめるためだ。何に殺されたかも知らずに死ぬのは間抜けすぎる。

 飛来した何かに転回を中断されて、私たちは南を向いていた。西に顔を向けると、雲からいままさに抜け出してくるものが見えた。豆粒のように小さなシルエットが二つ見える。正体はすぐにわかった。

 英空軍主力戦闘機、スーパーマリンスピットファイア。それが二機、プロペラを揚々と回してこちらに向かってきている。

 それは私がはじめて見る光景だった。巨大な雲の中から出現した敵機。死の化身は意外に小粒だ。

 広大な青いキャンパスに描かれた白い塊を背景に、単発単座の灰色のレシプロ機が二つ横に並んで飛んでいるその姿は、何度も想像した戦争の一場面によく似ていた。ただ重機関銃弾の破壊的な唸り声と、鉄の弾丸の熱量は想像上には存在しなかった。

 初弾が外れたのは運が良かった。もう少し転回が遅れていたらと考えるとゾッとする。

 あんなものに真正面から向き合ってはいけない。武器らしい武器も持っていない私たちにどだい勝ち目はない。

 勝利の方法はただ一つ。

 逃げること。

 スピットファイアは並んで飛行していたが、一機が少しずつ大きくなっていた。加速しているのだ。

 さっきは運良く外れてくれただけ、呆けていたら次はない。

 奴は本気だ。本気で私たちを落としにかかっている。

 私がフランスで、魔女たちを撃ち落としたときのように。

 魔女でも撃墜記録に入るのだろうかと、他人事のように考えた。

 どうしてこんなところに敵機がいるのだろう。

「降下して!」

 私が叫ぶのと、敵の第二射はほとんど同時だった。

 全神経を落ちることに注いだ私の頭をかすめるように機銃弾が飛来する。

 その射手には目もくれず、ひたすら全速力で地上を目指した。

 二人がついてきていると信じて地面に向かった。

 急降下は、生身の体には、きつい。皮膚が引っ張られていまにもどこかが張り裂けそうだ。

 大気を破る爆音が鼓膜を叩く。

 猛烈な風を浴びた両目からは、涙が次々に溢れ出す。眼球が渇いてひりひりと痛い。

 準備運動もなしに急降下。全身が痛い、痛い、痛い。けれど、死ぬ痛みにくらべたら、ずっとまし!

 どこまでも、どこまでも急降下。まだ高い、まだ、まだ、もっと低く、もっと速く!

 地面に突撃、ただ前だけを見つめて落ちる。横目で確認すると、敵戦闘機は機首をななめに傾け、降下姿勢を取っているところだった。

 敵は恐るべき速さで接近してくる。まともにやっていてはすぐに追いつかれる――!

 槍の切っ先のように尖った針葉樹がすぐ目の前に迫っている。青い葉をつけた木が目に突き刺さる寸前で、箒を力いっぱい持ち上げる。腕の筋肉が激しく痛んだ。操縦桿を持ち上げるように、フルスロットルの加速から限界突破の減速へ。串刺し寸前で降下は止まった。

 休む暇はない、バランスを崩しながら加速する。地面と平行に、前へ前へ。

 あまりの衝撃に全身がびりびりと震える。鼻からはいつの間にか血が流れ出していた。頭がずきずきと痛む。

 全身が悲鳴を上げ、目が潰れそうになってもなお、私は止まらない。止まれない。

 いまここで止まれば、きっと死ぬ。あの熱い弾丸に肉体を蹂躙されて、名誉も何もなく、ただ墜落する。

 そんなのは絶対に嫌だ! 墜落なんて死に方、私は御免だ!

 醜く汚く無様に、それでも生きる。それにこそ価値がある。汗も唾も涙も血も、そのすべてを垂れ流しても、この一本の箒にすがって生きのびる。

 死を突きつけられてようやく思い至る。

 尊厳なんて、名誉なんていらない。ただ生きたいと強く願う。この瞬間、お父さんの生き方を私は全力で否定する。

 魔女はなんて汚く憎らしい生き物だろう。いや、魔女がではない。私自身が汚い、醜い生き物なのか。

 だが元より、そんなことは承知してる!

 ぐっと手に力を込めた。

 これは空戦なんかじゃない。私たちに戦闘能力はない。武器は腰のホルスターにおさまった一丁のルガーのみ。杖なんて振ったところで何も出ないし、いまそれは宿舎の部屋のベッドの下でほこりをかぶっている。あれはただの記念品、ただの飾り。私が私であるための支えであるのみ。

 木々の直上を全速で飛ぶ。デカブツの戦闘機はここまでスレスレの低空飛行はできないはずだ。振り返ると、シャンタルとサラはちゃんとついてきていた。必死の形相で、サラなんて泣きそうで、それでも前を見ている。たいしたものだ。

 敵機は数百メートルうしろで、私たちよりもいくらか空に近い高度を維持していた。その姿は、悠然と私たちを見下ろして機会をうかがっているように思えた。

 速度では、私たちは本気を出してもあれの半分がせいいっぱいだ。それも、体に負担がかかりすぎる。長くは続けられない。

 一機が機首を下げるのが見えた。翼がきらめく。

「左!」

 叫んで、体をぐっと左に傾けた。けたたましい銃声が鳴り響き、機銃弾が木々を抉った。

 敵機は機首を上げて元の高度まで戻っていく。

 私はそのままの勢いで箒の先を東に向けた。このまま低空を保って基地を目指す。全速力で向かえば、基地まで二十分とかからないはずだ。その間だけ、どうにか弾を避けられれば……。

 考えてから、それがとても不可能なことだと気がついた。相手は私の倍は優に速いレシプロ機だ。巨大な弾丸を放つ機関銃を翼の下に潜ませ、一発でもかすれば命はない。そんな相手からどうやって逃げ切れる?

 弾切れを起こさせるまで飛び続ける?

 ――無理だ。あれは最大なら数千発の弾丸を積んでいるはず。撃ち尽くす前にこっちの体力が尽きる。

 森の中に降りて身を隠す?

 ――不可能ではない。ただ、降下するときはどうしても隙だらけになる。そこを狙われたら一巻の終わり。

 だれかがおとりにでもならない限り……。

 考えている間にも、敵機は容赦なく襲いかかってくる。エンジンが唸りを上げ、つんのめったように機首を下げる。

「右よ!」

 今度は大きく右へ避ける。機銃弾に砕かれた木片が辺りに舞い散る。

 敵機は悔しがるようにエンジンの回転数を上げると、元いた高さまで戻っていく。

 その姿を見て、私は直感した。

 魔女狩りを楽しんでいるんだ。

 じわじわと追い詰めて、弱ったところを仕留めようという算段なのかもしれない。

 くそったれだ。そんなことさせてたまるものか。

 体に鞭を打ってさらに速度を上げる。いつの間にか口の中が鉄の味でいっぱいになっている。頭は燃えるように熱い。視界は赤く色づいている。

 血が巡りすぎているんだ。加速の代償で、魔力が体の中で暴れまわって、体に穴が開きそう。

 振り返って二人にアイコンタクトをした。ちゃんとついてくるように。うまく笑えたかもわからない。

 二人はうなずいた。シャンタルは顔が引きつってはいるが、瞳は輝きを失っていない。サラはもう涙やら汗やらで顔面ぐしゃぐしゃ、ひどい顔をしている。

 どうにかがんばってと願いを込めて、前を向いた。

 敵機はしばらく様子をうかがっていたが、すぐにまた機首を下げて撃ってきた。一機が撃ち方をやめると、もう一機が撃つ。片方が上がっていくともう片方が下りてくる。それを交互にくり返して、私は右に左にと揺さぶられる。

 銃弾はことごとくが外れて森の中に吸い込まれていく。驚いた鳥がばたばたと飛び立つ。

 敵は小さく降下と上昇を繰り返し、弾を撒き散らす。鉄の弾丸は散発的に撃たれるが、狙いすましたような雰囲気はない。とりあえず撃っているだけという雰囲気だ。

 連中はやはり、私たちをあなどっている。それがわかっても、私にはどうすることもできない。

 突然それまでとは異なる巨大な発射音が轟いて、視界の端で木が勢いよくなぎ倒された。

 思い出す。スピットファイアには、二種類の機銃を装備している型がある。

 一つは7.7mmのブローニング機関銃。

 もう一つは20mmのイスパノ・スイザ機関砲。

 この二つの威力は段違いだ。いま撃ったのは20mmの方だろう。あんなのを喰らっては、人間なんてかんたんに粉砕されてしまう。あまりの破壊力に背筋がぞっとした。

 機関砲で穿たれた丸太がめきめきとへし折れていく。その姿は未来の私の姿であり、シャンタルやサラの姿かもしれない。

 機銃弾を意図的に避けるなんてことは魔法でも不可能だ。ただ当たらないように祈るしかない。

 汗が目に入る。拭うこともできない。恐怖と吹きすさぶ風の冷たさで夏なのに体が震える、歯が噛みあわずにガチガチと鳴る。手が滑らないように、何度も力を込め直して箒を握る。

 次第に腕の力が弱くなってくる。腰を曲げて、全身で箒にしがみついた。少しでも空気抵抗を減らして、速く、速く飛ぶために。

 私自身が一発の弾丸になったような気分だった。意思を持った弾丸のように、私は右へ左へ体を揺らす。

 やがて敵機は慎重に高度を下げ始めた。そろそろ終わりにしようと考えたのかもしれない。

 真後ろにつかれるとまずい。体を揺らして、波線を描くように飛ぶ。照準が定まらないように。案の定、発射された弾は彼方へと飛んでいく。

 目の前に小高い山が迫っていた。この山を越えると要塞地帯があって、すぐに国境だ。

 ひとつの思いつきが頭の中にひらめく。

 山肌にまっすぐ突っ込む。戦闘機は図体がでかいので早く機首を上げざるを得ない。

 敵機はふっと機首を上げて離れて行った。ここだ。

 山肌ぎりぎりまで減速せずに突進し、限界で思いきり箒を引き上げた。山の稜線を這うように、空に向けて上昇していく。

 今度はロケットになった気分だった。

 山の頂を越える。間髪いれず全体重を前に傾けると、体が浮いてすぐに急降下。真っ逆さまに落ちていく。

 まもなくマジノ線も越えるとドイツ領内に入った。

 それでも敵機は追ってきている。かなり執念深いやつだ。

 敵機の高度は山越えのためにかなり高くなっていた。距離はかなり離れている。

 減速して、シャンタルのそばまで近寄って顔を近づける。

「私が敵機を引きつける。あなたとサラは先に基地に戻ってだれでもいいから伝えて、私は南から帰る」

 早口で大声を張り上げて、シャンタルの返事も待たずに高度を上げた。

 空に昇っていくこの瞬間、私は一人になる。背中に羽が生えたような気分になって、どこまでも昇っていけるような気がする。

 けれど私は、イカロスにはなりたくない。

 感覚というものが遠いもののように思える。魔力の使いすぎは明らかだった。自分がどちらを向いて飛んでいるのかもわからない。

 だけどまだ、終わっていない。

 スピットファイアの顔も知らぬパイロットが、どこまでの気持ちで追ってきているのかはわからない。私たちを撃墜するまでか、空軍の航空隊と一戦交えるつもりか。腹に爆弾を抱えていないところを見ると、偵察であろうことは分かる。けれどそれに乗る者の覚悟までは推し量れない。

 こんなところまで攻め込まれているということは、風向きが変わったのだろう。でもいまはそんなことどうでもいい。

 私は命を懸けている。追ってくるなら、それだけの覚悟はしてもらう。

 巡航高度まで上がってから振り返ると、敵の一機は右に旋回して、そのままゆっくりとフランス領内へ戻っていった。

 もう一機はまだ追って来ている。欲深いパイロットが乗っているんだろう。少しでも撃墜数を稼ぎたいのかどうかは知らないけれど。

 私の意図に気づいたのか、こちらに向かって機速を上げている。

 どうしても私を撃墜したいらしい。

 いい子だ。

 私一人なら、損失は最低限で済む。

 雲のない、きれいな青空が辺り一面に広がっていた。太陽は真上にいる。隠れる場所はどこにもない。

 森を見下ろす。二人の姿が見えなくなったのを確認して、体を右に倒した。

 振り返る。敵機はちゃんと私のお尻目がけてついてくる。

 スピードでは勝てない、振り切れない。

 すぐに真後ろにつかれる。引き金に指をかけるパイロットの姿が目に浮かぶ。

 私は体の力をふっと抜いた。途端、落下する。重力に導かれるままに。

 弾丸はむなしくも私の影だけを貫く。

 加速する。

 敵機はまたすぐに追いついてくる。ふたたび真後ろにつかれると、今度は直角に急上昇して避ける。

 弾はまた無駄に終わる。

 小回りではこちらに分がある。空中における旋回能力で魔女に勝るものはない。

 急上昇と急降下を駆使し、回避機動を取る。時間稼ぎをしながら帰るべき場所を目指す。

 体への負荷を気にする余裕はない。頭痛、目まい、吐き気、目玉が踏みつけられているような不快感、内臓が胴の中で踊り狂っている、筋肉があちこちで引きちぎられているような錯覚、生きていればそれで良い。

 苛立つように翼を振って高度を私に合わせる敵。

 基地が見えた。いくつかの小さな建物、横たわる巨大な黒板。南側から進入するコースで帰るために、どこかで大きく旋回しないといけない。

 敵機が真後ろに来る。

 私は何度目かの落下をする。

 弾丸が空へと消えていく。

 同じことのくり返しだ。要領さえわかればむずかしいことじゃない。

 このまま続けていれば、いずれ基地までたどり着ける。

 そう思いながら振り返ると、そこにいるはずの敵機がいなかった。

 雲ひとつない空のどこにも、姿が見えない。

 けたたましい羽音も聞こえない。

 身を隠すところなどどこにもないのに、敵機が消えた。

 影も形もない。いったいどこに――?

 太陽と青く塗りつぶされた空しかないこの場所で、どこに?

 加速しながら、全周囲くまなく目を配った。見当たらない。

 基地はもうそこすぐだ。

 諦めて帰っていったのだろうか? それならそれでいい。ただ、国境を越えてまで追ってきた割には、諦めが良すぎる気がする。考えすぎだろうか。

 想定していたルートを進みながら基地へ。

 箒を東向きから南向きに。そしてまもなく半円を描くポイント。

 ほんの一瞬、それ(、、)が耳に届いた気がした。

 飛行機のエンジン音。車ともバイクともちがう。独特の、空を駆けるためのあの鼓動。

 どこから?

 目を閉じる。唇にも蓋をする。呼吸すら止めて、全感覚を耳に集中。

 羽音がどこか遠くでする。いや、近く?

 たしかにまだ近くにいる。それ(、、)がどこかで鳴いている。

 それ(、、)は少しずつ大きくなる。

 はっとして顔を上げた。

 真上、空しかないさらなる高み。そこにあるのは空と太陽だけ。

 まぶしさに目がくらむ。真っ白な太陽の中に、黒点がひとつあった。

 太陽の中に、いた。

 ぶうんと歓喜の声を上げるように大きくいなないて、スピットファイアは私めがけて真っ逆さまに降りてきた。

 私はとっさに加速しようと意識を前方に向けたが、バランスを崩してたたらを踏んでしまった。

 しまった!

 思ったときにはもう遅い。

 ダダダッ、っとブローニングが弾を吐き出す。銃弾の雨が私を襲う。

 そばを駆け抜ける鉄の熱が肌を焼く。じりじり、じりじり、肉を焦がす。

 いやだ、死にたくない、こんなところで、まだ、もっと、いきたい、行きたい、生きたい!

 ついさっきしたはずの覚悟が、てんで的外れの、嘘っぱちだってことを、悟った。

 私は生きたい。だれよりも、どうやっても。どんな苦しみも、どんな痛みも、それが死へと続く道でなければ、私は受け止められる。

 甘美な死なんて、絶対に、いらない。

 生きることにこそ意味がある。

 叫んでいた。喉から出てきたのは、声でも言葉でもないただの叫びだった。その叫びさえも、降り注ぐ雨にかき消されて、自分の耳にも届かない。

 それでも叫び続けた。やめてしまえば、そのときこそ死に飲み込まれるような、そんな考えが頭の中を埋めつくしていた。

 体に穴が開いて落下していくぶざまな私。

 墜落死だ。

 とても惨め。

 敵は垂直に降下しながら撃ち続けている。私が射線から命からがら脱け出してもしつこく追ってくる。

 無我夢中だった。ただ前だけを見ていた。

 すべての自制心は消え去って、前進意識だけが残った。加速、増速、全身、漸進、前進……。

 下降線を描きながら、左急速旋回。

 南から滑走路に向けて驀進。

 追ってくる。撃ってくる。ドドドドド、7.7mmの死の塊。

 弾丸が鼻先を、袖を、足元をかすめていく。

 弧を描くように私は落ちていく。速度を上げながら、高度を下げながら。

 その瞬間には、祈りも、願いも、朝もやのように頭の中から消えていた。

 ただ世界があって、視界があって、私がいて、敵がいる。

 私に不都合な世界。

 森や草花や雲や朝焼けや夕焼けや笑顔がとてもきれいな、目の前に広がる視界。

 あいまいで身勝手でどうしようもない私。

 そして、敵。

 それだけがここにはある。それだけで私の生きている場所は説明できる。

 美しいものとそうでないもの。それだけでこの世は成り立ってなどいない。そんなにわかりやすくはない。

 目に見える弾丸は怖い。銃は怖い。血は怖い。軽蔑も諦めも楽観も怖い。

 ただ本当に怖いのは、目に見えないものだ。暗黙。それこそこの世の恐怖の最高峰。

 振り払えないから、どうすることもできなくて。

 太陽の熱で羽が溶けてしまったように、いつかこの見えない羽も失われてしまうことが怖いんだ。

 見えないものにすがって、見えないものにおびえている。

 弾丸が、途切れた。詰まったのか、切れたのか。ちょうど私は旋回を終えて、体を立て直した。目の前に滑走路が伸びている。もうすぐそこだ。

 滑走路の真ん中に、手を振る人がいる。あれは――シャンタルに、サラに、エミリア!?

 どうして――。

 そのとき、ドンと大砲の発射音のようなものが聞こえて、火の玉が体をかすめた。

 イスパノだ。

 絶望が先端をとがらせた筒の形になって、私を襲う。

 喉が潰れてもいい。ただ大声を張り上げた。

 逃げて、そこから、早く。

 シャンタルたちは慌てふためきながら建物の方に駆け出していく。私を狙って放たれる弾丸は、そのまま滑走路に叩きつけられる。

 みんなが逃げているのに、エミリアだけはそうじゃなかった。

 彼女は滑走路のど真ん中で、こちらを向いて立っていた。もうその表情までも見える。

 唇を噛んで、何かをこらえるように、でも堂々と仁王立ちしている。

 訳がわからずに、私はなおも叫び続けたが、彼女は一歩もその場所を動こうとはしない。

 銃弾が足跡を刻むように滑走路に突き立つ。彼女のすぐそばに弾丸がめり込んでいく。

 まばたきすらせずに目を開き続ける彼女とほんの一瞬、目が合った。

 何者にも脅かされない強い意思。

 私は彼女の頭上を飛び越えて、減速しないまま、地面にぶつかった。

 石の塊で殴られたような衝撃で、意識が跳ねた。

 視界がわずかに戻ったときには、天地がさかさまで、エミリアが何か叫んでいた。耳鳴りがして、彼女が何を言っているのかわからない。彼女は私に駆け寄ってきて、腕を伸ばして途中で止めた。触れるか触れまいか決めかねているようだった。

 彼女の目には涙が浮かんでいた。どうしたの? 声に出したつもりだったが、口が開いただけで息すら出ない。抱きしめてよ、エミリア……。私帰ってきたんだよ……。

 彼女は結局両手を地面についた。顔を私に近づけ、何か懸命に言い続けている。何を言っているのか、さっぱりだ……。

 視界の端で対空砲が火を噴いていた。シャンタルたちが伝えてくれたんだろうか……。

 みんなが無事な姿でいることに安心した。帰ってきた……帰ってこれた……。

 ありがとうと言いたいのに何も言葉が出ずに、エミリアが遠のいていく。視界の脇から闇が押し寄せてきて、意識は今度こそ完全に沈んでいった。



 ひどい頭痛とともに目が覚めた。二段ベッドの底が見える。顔を傾けると、小さな机があった。小さなクローゼットも。足側の壁に窓がある。私の部屋だ……。外は明るいようだけれど、いま何時くらいだろう……。

 全身に鈍い痛みがあった。体全体が傷の塊になったみたいに絶え間なくずきずきと痛む。そのせいか嫌な感じに熱っぽさがあって、だるい。

 起き上がろうと試みる気力もなく、しばらく茶色いベッドの底をながめていると、扉が開く音がしてだれかが入ってきた。ニコラだった。彼女は何か銀色のものをガラガラと押して部屋に入ってきた。

「あ、起きた?」

「……いま何時」

「十五時前ってとこ。いい天気よ」

 ニコラはそう言うと窓を開けた。あたたかい風が入ってきて肌を撫でる。くすぐったいしじわじわ痛い。南向きの二階の部屋なので、日当たりはいい。夏のにおいが部屋の中に入ってくる。

「……そっか。丸一日も寝ちゃってたのか……」

「いや三日」

「三日?」

「今日は八月一日。あなたが滑走路にキスしてから三日経ったのよ」

「三日も……」

 そんなに眠っていたのか。なんというか、言葉がない。寝坊とかいう域の話じゃない。これではみんなに示しがつかない。隊長が三日も眠りっぱなしだなんて。

「ドクターの話では、眠っていたのは脳震とうのせいだそうよ。他にも無数の擦り傷、火傷、全身打撲。歯も一本折れてるって」

 指で触って確認すると、たしかに上の前歯が一本なくなって隙間が空いていた。

「それに左足の脛の辺りね、折れてるって。これがいちばん重傷だけど、他には特に異常ないって」

 言われて左足を持ち上げようとしてみると、針で刺されたように痛みが走った。それに全身が鈍く痛んでいる。血管という血管に内側から引っかき傷ができているみたいで、魔力を使いすぎた結果だった。

「骨折ってはじめて……」

「そりゃよかった。何回もなりたいもんじゃないしね」

 ボロボロだ……。これでは起き上がる気力がないのも当然かもしれない。

 でも生きてる。五体満足である喜びが少し、胸ににじんでくる。

「脳しんとうの影響で目まいとか頭痛とかあったり、突然気持ち悪くなったりするかもしれないけど、そのうち治るからあんまり気にしないようにって。一時的な記憶喪失があったりするかもしれないとも言ってたけど、大丈夫? 自分の所属と名前、それと私の名前、言える?」

「……ドイツ国防空軍第3航空艦隊第22航空団シュランベルク基地所属第14飛行中隊第33飛行小隊所属シャーロット・アップルトン曹長」

 頭に刻み込まれている自分を示す記号のような言葉が、すらすらと口から出た。ほとんど無意識だった。

 それからニコラを見つめて、

「同じくニコラ・ベイカー軍曹」

「よくできました。あとでドクターに来てもらいましょ。目が覚めたら呼べって言ってたから」

「……うん。おなか減った」

 そう言うとニコラはからからと笑った。人が真面目に言っているのに、笑うとは何事か。

 抗議の気持ちを込めて睨みつけると彼女は涙を拭きながら、

「ごめんごめん。でも食べる元気があれば大丈夫ね。じゃあドクターを呼ぶ前に終わらせちゃいましょう」

 ニコラはせっかく開けた窓を閉めると、白いタオルを台の上の洗面器に浸けて濡らした。銀色の台はニコラの腰ほどの高さがあって、上に白い陶器でできた洗面器と銀色のトレーがのっている。器は水で満たされていて、ちゃぷちゃぷと水音がする。どれも医務室で見たことのあるものだ。

 ニコラは水に濡れたタオルを力いっぱい絞ると私に向き直った。

「それじゃあ、脱いで」

 シャツの裾にかけた手を止める。思わず従ってしまいそうになった。

「……なんで?」

「体を拭くためよ。あなた、眠りこけてる間ずっとシャワーも浴びてないんだから。そんな姿でドクターの診察を受ける気?」

 そう言われると、たしかにその通りだ。筋が通ってる。体は寝汗でべたついていて、垢が肌の表面を覆っているような感じがして気持ちが悪い。

 だけどやっぱり、相手がニコラといってもなんだか恥ずかしい。シャワーだってあんまりだれかといっしょには浴びたくないのに。

「自分でできるから」

 ニコラの手からタオルを奪おうと手を伸ばした。途端に痛みが腕から肩にかけて燃え上がり、手はニコラまで届かなかった。

「けが人はおとなしく言うことを聞きなさい。昨日まではエミリアがやってくれてたのよ」

「エミリアが?」

「そうよ。あの子はあなたのことが大好きだからね。徹夜で看病しようとしてたから、お尻を蹴り飛ばして自分の部屋に戻らせたくらいよ」

 意識が途切れる前の、エミリアの表情がよみがえる。血の気の引いた顔で懸命に何かを訴えかけようとしているエミリア。彼女には似つかわしくない、必死の形相だった。

「エミリアは、今日は……?」

「午後の哨戒飛行の当番になってるから、さっき離陸したくらいじゃないかな」

 心配をかけてしまった……。帰ってきたら謝らないと……。

「あの子、ご飯とシャワーと寝てるとき以外はずっとシャーロットのそばにいたのよ。今日だって哨戒の当番になってるのに、だれかに代わってもらおうとしてたから一発殴って部屋から追い出したくらい」

 頭を殴られて涙目になっているエミリアの姿が容易に想像できて、つい笑ってしまった。

 エミリアはやっぱりやさしい。よくできた娘だ。だれにでもやさしく、陽気で、人の嫌がることはしない。まるでナイチンゲールのようだ。

「ほら、わかったらさっさと脱いで」

 ニコラにうながされて、しぶしぶ上着を脱いだ。節々が痛んでそれだけのことにかなり苦労した。

 濡れたタオルが背中に触れると、冷たさに思わずびくっとなった。タオルの生地が使い古されているのかごわごわと荒れていて、おまけにニコラの力が強すぎて、痛い。

「昨日まではエミリアがこうやって拭いてたの。だれに頼まれたわけでもないのに、自分から言い出して。朝と晩に二回ずつ」

 そう言われると、真夏に三日もほったらかしにしていた割には、汚れもにおいもない気がする。エミリアのおかげか。

「……あの子は変わってるわね」

 ニコラがぽつりと言った。

「どうして?」

「もちろん良い意味でだけど。……だって私たちは魔女よ? 魔女ってのは、だいたい森の奥とか、人里離れた山奥とかでひとりでひっそりと暮らすものって相場が決まってるもの。……冗談よ。……でも、こんなご時世でしょ。自分の身を守るのでせいいっぱいで、他人に構っている暇はない。魔女は群れるのに向いてないの、そういう性分なのよ、私たちは」

 そうかもしれない。魔女が集まるのって怪しげなミサを開くときくらいって印象がある。でも……。

「私は、そうは思わない」

 私が言うと、ニコラは手を止めて横から私の顔を覗き込んだ。

「……なに?」

「いや、シャーロットの口からそんな言葉が出るとは思わなかったから、驚いてるんだけど」

「私たちは仲間よ。仲間を大切に思うことがいけないこと?」

「そうは言ってない」

 ニコラは手を動かし始めた。

「ただ以前のシャーロットなら、そんな甘っちょろいことは言わなかったな、と思ってさ」

「そう?」

「そうよ。あんたは自分がかわいくてかわいくてしようがないって感じだったからね」

「それじゃあ私が自分大好き人間みたいじゃない」

「相対的にそうなってたって話。自分の優先順位が上だから、他人が下になるってだけの」

 私は曲げられる右膝だけをどうにか立ててあごを乗せた。ニコラは背中を入念にこすっていたが、作業の範囲を腕の方に伸ばしている。背中はすっきりしたけど、それ以上にひりひりと痛む。がさつ女め。

「そんな風なシャーロットは魔女としては正しかったと思うよ。でも人として、軍人としてはいまの方が正しいんじゃない? どっちが良いなんて、私には言えないけどね」

 自分でもよくわかんないし。ニコラはそう言って私の二の腕から肘にかけてごしごしと荒っぽく拭いていく。

「ニコラだって、やさしいじゃない」

 やり返したくなってそう言うと、ニコラは手を止めずに、

「何よ突然」

「エミリアのこと、言えるの? いまだってこんな風にやさしくしてくれてるじゃない」

「私は、ほら、その……。あなたの、お姉さんだから」

「なにそれ」

 思わず苦笑してしまった。

 むかしの私といまの私。同じでも、どこかちがっている。たしかに、以前の私は、自分のことしか考えていなかった。だって自分の未来がこれっぽっちも見えない、見ることができないくらいに真っ暗闇だと思っていたから。

 じゃあいまは? いまはどうだろう。

 たぶん、目の前にはまだ深い闇が広がっていて、何も見えないままだろう。暗く、さびしく、強い向かい風が吹いている。

 でもそこには、一筋の光明が――。

「シャーロットさ」

 決まりが悪そうにつぶやくニコラ。

「どうしてシャンタルとサラを先に帰らせたわけ?」

 ニコラの言葉がまとう空気が変わったのに気がついて、言葉の意味を少し考えた。

 どうしてもこうしてもない。あの状況ではそれが最善だと思ったから。私たちが三人で逃げてたら、敵にとっては狙う的も多いし絶対的に有利だ。一方の私たちは、いっしょにいる以上はお互いを気にかけてしまって全速力を出せず、隙ばかり大きくなる。あのままではじり貧だった。

 それなら彼女たちを先に行かせて私がおとりになれば、少なくとも二人は助かる。

「私も彼女たちも、両方助かるにはああするしか方法がなかったから」

 それが事実だ。

「実際助かったでしょ?」

 けれどニコラは納得していないのか、渋い表情をしている。

「どうしたの?」

 ニコラは言いにくいことがあると、ちゃんと言いにくそうに、でもやさしく伝えようとしてくれる。エミリアはそういうとき、絶対に言わない。ふたりのどちらも、ちがう形でやさしい。

「さっき、仲間を大切に思うことは、正しいって言ったけどさ」

 ニコラの手が止まっていた。

「うん」

「それを踏まえて言うんだけど。……シャーリーのやってることは、あんまり良いことじゃないと思うよ、私は」

 突然頬を叩かれたような気分だった。その気持ちを助長させたのは、ニコラがとても言いにくそうにしていたから。

 私がやさしいと感じる、彼女のあの仕草で。

「……隊長が殿をつとめるのは、いけないこと?」

 思わず涙声になりそうなのをこらえた。なぜ泣きそうになっているのか自分でもよくわからないから、制御するのはとても困難だった。

「そうじゃない。死んでもいいって考えるのがダメだって言ったの」

「でも私は隊長で、彼女たちを守る義務があった」

「義務とかそういうことで、自分の生死を正当化しちゃいけないよ」

 私は泣く訳にはいかなかった。なぜなら、ニコラの方がもっと泣きそうになっているから。そんな表情のニコラを見たのは初めてだった。ニコラが我慢しているのに、私が泣く訳にはいかない。

「そういう……、他人から押し付けられたことを言い訳にして、死を選んじゃいけないのよ、シャーロット」

「私は別に、死んでもいいって思ったわけじゃない。ただ彼女たちが死ぬくらいなら、私が死んで代わりに彼女たちが生き残れば、いくらか私の死は意味があったって思ったから……!」

「それじゃあここのみんなは、あなたの死の免罪符にされることになる。シャーロットは、自分の死んだ責任をみんなに背負わせる気だったの?」

 何も、言葉が出てこなくなった。言い返したい、何か言わないといけない。そうしないとニコラの言葉を認めることになる。反撃するんだ。何か、なんでもいいから言葉にして、私の気持ちを、ちゃんと伝えないと。

「フランスでのことだってそう。罪悪感を一人で背負おうとしたんじゃない」

「……じゃあ、どうすればいいの」

 ニコラは私の肩をつかんで振り向かせると、目元を拭く暇も与えずに真正面から言った。

「生きること、または死なないこと」

「同じ意味でしょ」

「そうよ。それだけが、シャーロットがみんなのために、シャーロット自身のためにできる最善のことだから」

「それは……、なかなか、むずかしいことだと思うけど」

「ボロボロになっても、どれだけ傷ついてもいい。こんな風に擦り傷だらけで、骨まで折れたって、ただ生きて帰ってくれば、それでいいの」

 ニコラはすらりとした人差し指を、私の裸の胸に突き立てた。爪が肌に少しだけ食い込む。

 冷たく、かたい。

「ここが動いて」

 指はオーケストラの指揮棒のようにすっと持ち上げられ、

「ここで考えて」

 額に触れると、今度は下がって、

「その目で見ていれば、それだけで意味があることになる」

「そんなことでいいの?」

「うん、そんなことでいいんだよ。……もうだれかが死ぬのを見るのは辛いから」

 ニコラはふいに悲しげに目を伏せた。そうだ、ニコラのお父さんも――。うちの両親と同じ、もういない。

 身近なだれかの死は、味わった人間にしかわからない。言葉にできないほど暗く、悲しいものだ。恐怖や後悔が襲いかかってくるのに、時間が経つにつれ、それに慣れてしまう自分がいる。そのことが怖い。

 無情な人間だと言われているようで。

 悲しみは癒える。心とは無関係に、生命力が傷口を勝手に塞いでしまう。

 二度と、あの空虚感は味わいたくない。

 あの過程のすべてが悪夢のように私を苛むから。

 私は思わずニコラを抱きしめていた。さらさらの髪の感触が、胸にくすぐったい。ニコラの体はあたたかい。人肌のぬくもりを、直接感じるのは何年振りだろう。はっきり思い出せないほど過去のことだ。

 苦しいことや悲しい思い出を、なんでもないように感じられることが、大人になるということなのかもしれない。受け流すことを覚えたその日が、大人になる日なのかもしれない。

 それなら私は、まだまだ子どもなのだろう。こんなことくらいで感傷的になって、涙が溢れそうになっている私は。

 私のことを大切だと思ってくれている人を発見したくらいで。

「……何やってんの?」

 もう少しで涙が流れそうになっていたのに、ニコラの口調はひどく冷めたものだった。それまで私を包んでいた感動的な雰囲気はそれであっという間にかき消えてしまった。

 彼女の頭をかき抱いていた手を離すと、ニコラはゆっくりと私から離れた。奇妙なものを見るように目が据わっている。なんだろう。温度差を感じる。

 私は急に恥ずかしくなって、

「別に」

 と言ってそっぽを向いた。もしまた同じような場面に出くわしたら、二度とこんなことはしないと心に誓った。

「あんたの平べったい胸に抱かれても、嬉しくもなんともないね」

「なっ……!」

 ニコラはにっと笑う。なんだかすべて台無しにされた気分で、私はベッドから降りようと痛む体をひねった。ニコラがそれを阻む。

「まだ終わってないよ、前がまだ全然」

「もういい! 充分綺麗になった!」

「わかった、ごめんって。あんたの気づかいには感謝してる」

「…………」

 しぶしぶベッドから降りるのはやめて、ふたたびニコラに向き直った。彼女は両足をきちんと揃えて座り直すと、ぺこりと頭を下げた。

「ありがとう。シャーロットなりにみんなのことを考えてくれてるのはわかった。誤解してるかもしれないけど、みんなあなたのことが大好きなんだから、もっと自信持ってよ」

「……善処する」

「理想論かもしれないけど、この戦争が終わるまでに、小隊のだれも欠けたりしなければ良いな。戦争の勝ち負けなんてどっちだっていいけど、隊のひとりだっていなくなるのは耐えられないからね」

「……そうね」

 だれも失いたくない。その気持ちは私も同じだ。十三人の小隊員のだれも、いなくなっていいはずがない。

「そのためには、まず隊長がしっかり誓ってくれないと」

「何を?」

「最後まで生き残るってことをよ。シャーリーが誓えば、私も誓うし、エミリアだってケイトだって、みんな気持ちを固められるはずだよ」

「それは隊長の仕事(、、、、、、、、)?」

 わかりきったことを聞いてみた。

「シャーロット・アップルトンの仕事(、、、、、、、、、、、、、、、、)だよ。私の大好きな、ね」

 わかりきった答えが返って来て、その予定調和が楽しくて、つい笑ってしまった。ニコラも同じことを考えていたのか、しばらくふたりして声に出して笑い合った。

 心の底から喜びが溢れ出している。こんなに楽しく笑ったのはいつぶりだろう。

 こんなに幸せな気持ちははじめてだ。とても大切なことを見つけた。すぐそばにあったのに、それを見つけるのにずいぶんと時間がかかった。

 さっきは流れなかった涙が――あたたかい涙が――私の瞳からも、ニコラの瞳からも流れる。ひいひい言いながら笑ったが、ニコラが先に冷静さを取り戻した。

「いつまでも笑ってられないよ。早いとこドクターを呼んでこないと」

「そ、そうね。体を拭くのはもう良いから――」

 服を着ようと手を伸ばす。そのときニコラの手がすっと伸びてきて、横から私の手をつかんだ。

「え、ニ、ニコラ?」

「まだ終わってないよ。こっち向けこっち!」

 ニコラは力ずくで私を振り向かせると、タオルでごしごしと私の体をこすり始めた。胸、首元、脇の下、脇腹、おへその辺りを無遠慮に、めちゃくちゃに。

 気が緩んでいた私の体は妙に敏感になっていて、有り体に言えばくすぐったい。

「待って、ちょっ、ニコラ!」

「まだまだ! こんなもんじゃないぞ!」

 こいつ、楽しんでる……!

「ニコラ、まじめに、ちゃんとしないと……!」

 ニコラは私の言葉を無視して、体をあちこちべたべたごしごし、ぺたぺたごしごしと触りまくりのこすり放題で、私はなんとか逃れようと後ずさるが、狭い二段ベッドの下の段では逃れる余地もなく、立ち上がることもできない。

「ちょっとニコラ、ほんとに」

「逃げるな! おとなしくしなさい!」

「あっ……!」

 ぐっとニコラに手をつかまれる。その手を振り払おうと格闘していると、ベッドについたもう片方の手がシーツに滑った。バランスを崩した私はあおむけにベッドに倒れ込む。

「おっ?」

 手をつかんだままのニコラも引っ張られて、私の上に覆いかぶさってきた。

 間近にニコラの顔があった。目の焦点が合うぎりぎりの距離で、彼女の顔がつぶさに観察できる。

 長いまつ毛、垂れ下がった茶色の美髪、目元や鼻は彫りが深く、唇は薄い桃色をしている。古代ギリシャの彫像のようになめらかで美しいニコラ・ベイカー。

 何故だか、ひどく、どきどきした。

「……ごめん」

 素直に謝るニコラ。

「…………うん」

 彼女の濁りのない双眸から目が離せず、私たちはしばらく見つめ合っていた。

 閉め切った部屋は暑く、汗が体から噴き出している。ニコラのこめかみを伝って、一粒の汗が私の顔に落ちた。

 鳥が遠くで一声鳴いた。

 私は見つめ合ったまま、妙な緊張感で口中に溜まった唾を飲み込んだ。

 そのとき扉が叩かれた。ニコラが勢いよく私から離れようとしたので、二段ベッドの底板で思いきり頭を打った。ニコラは声にならない呻きを漏らしながら後頭部を押さえる。

「シャーロットさん、起きていますか?」

「ヴェ、ヴェルテ!? なんで!?」

 上ずった声が出た。私は上半身裸だった。

「あ、起きてましたか。よかった。司令がお呼びです。司令室まで来てください。体は大丈夫ですか」

 扉の向こうでヴェルテがドアノブに手をかける様子が伝わってきた。

「だ、だめ! 入ってこないで!」

「え、どうして――」

「ヴェルテ。シャーロットは起きたばかりなのよ」

 瞳に涙を溜めながら、ニコラが落ち着き払った声で割って入った。彼女は人差し指を私の口に当てて黙らせると、もう一方の手でしわくちゃになったシャツをつかんでよこした。私は大急ぎでそれを着ようとして、途中でボタンをかけちがえたことに気づいてまた脱いだ。

「女性の身だしなみには時間がかかるの。彼女が身支度を整えている間に、ドクターを呼んできてくれない? シャーロットが起きたと言えば来てくれるはずだから」

「わかりました。すぐに呼んできます」

 ヴェルテの気配が遠ざかっていく。足音が聞こえなくなってから、ようやく落ち着いてため息が出た。

「ありがとうニコラ、助かったわ」

 ニコラの機転がなければ、いまごろ私はとても恥ずかしい思いをしていたかもしれない。そういう意味では彼女に感謝しないと。

「こっちも悪ふざけが過ぎたわ。ごめん」

 彼女は後頭部をさすりながら伏し目がちに言う。

「相手がヴェルテとはいえ、さすがに肌を見られるのは、ね……」

 隊の子たちを除いては、いままでだれにも肌を見せたことはない。ましてや男には――。

「そうね。ああ見えてヴェルテも男らしくなってきたしね」

「本当に、ね……」

 さすがに成長期だけあって、ヴェルテの背はこの四年で二十五センチも伸びた。体つきもがっしりと筋肉質になり、肩幅も広く、手も足も大きくなった。顔立ちからも子どもらしさがなくなりつつある。

「あれでなかなか男前だよね、ヴェルテは」

 ニコラがだれもいない扉の向こうを見ながらつぶやいた。その微妙な表情が気になったので釘をさす。

「だめよ。ヴェルテはエミリアにぞっこんなんだから」

「わかってるって。手出したりしないよ」

「出したら除隊だから」

「こわいこわい」

 ニコラはそう言って、わざとらしく両腕で自分を抱く仕草をした。けれどすぐに真顔になる。

「けどさ、エミリアにはそのこと言ってるの?」

 エミリアもここに来てからの四年間でずいぶん変わった。彼女も今年で二十歳だ。表情には無邪気さが残っているが、ときどき、どきっとするくらい綺麗な顔をしている。グラマーな体つきにも磨きがかかり、副司令のお誘いはエスカレートする一方なので、エミリア自身はほとほと困っている。

「エミリアは大丈夫だと思うけど……。ああ見えて頭のいい子だから」

 魔女にとって恋愛は身を滅ぼしかねない。恋の炎にその身さえも焼かれかねないから。

 でも結婚すれば、働かなくて済む。平和な時代なら、そういう選択肢もありだろう。

「こんな時代じゃなければ、恋なんていくらでもできるのにね」

「本当にね」

 そう言う私も、恋なんてしたことはない。そんな日がいつか、来るのだろうか。

「しかしあんたはエミリアとちがって、本当に胸ないね」

 ニコラが私の胸元を見てくすくすと笑いながら言った。



 ヴェルテが扉をノックする。廊下には灰色の軍服を着た見慣れない男が二人立っていて、私と彼をじろじろと見てきた。もちろん無視する。

 ドクターの診察を終えて、ヴェルテといっしょに司令室までやってくる頃には、窓の外の日は傾き始め、廊下は橙色のやわらかい光に包まれていた。

「入れ」

 低い声がして中に入ると、男が三人いた。ヴェルテが外から扉を閉める。

 司令官の特等席に座る無表情なフランツ大佐。部屋の隅で硬い表情で立っているエックハルト副司令。この基地の佐官二人が揃い踏みだ。

 それともう一人。司令の机の傍らに立ちコーヒーを飲んでいる。初めて見る痩せぎすの男の素性は一目でわかった。

 夏で、司令室には熱気が漂っているのに、その男を見ると背筋が寒くなる。

 白シャツに黒のネクタイ、その上にグレーのスーツを重ね、両肩に階級章がある。四つのボタンをきっちりと留め、対照的に襟は開かれている。見るものを威圧し、畏怖と恐怖を抱かせる不敵な衣装。どこからどう見ても、その男はナチス親衛隊(SS)将校だ。

 すまし顔でコーヒーを啜る男は、眉が細く彫りも深い。唇は薄く、髪は短く刈り込まれた黒色。黒目が大きく、鼻は高い。顔にしわはほとんどないが、どことなく落ち着いた雰囲気がある。腕や首はひょろりと細く長い。全体的にスマートな印象だ。歳は司令よりも一回りは下、エックハルトと同じか少し下くらいだろうか。

 私が司令の机の前で両足を揃え、背筋を目いっぱい伸ばして敬礼すると、

「彼女がそうですか? 話に聞いていたよりも若いし、美人だ」

 ひょろ長の男が、男の割に高音の声でそう評したので、私は戸惑った。まとっている衣服とは対照的にやわらかい印象を受けた。

 司令が重々しく口を開く。

「……曹長。彼は親衛隊のライヒアルト・ハイアーマン少佐だ。はるばるベルリンからここまで来てくれた」

「国家保安本部所属のハイアーマンだ。よろしく、きれいなお嬢さん」

 ハイアーマンと名乗った少佐は、目を細めて笑うと帽子を小脇に抱えて、すらりとした右手を差し出して握手を求めてきた。その手を握る。生きた人間の手とは思えないくらい冷たい。まるで氷のようだ。細身ではあるが触ってみるとがっちりとした筋肉の束が皮膚の下にあるのがわかる。男の、軍人の手だ。

「第33飛行小隊長、シャーロット・アップルトン曹長です」

「知っているよ。資料も見たし、教育隊時代の君の教官にも話を聞いた」

 少佐がそう言ってより深く笑った。おぞましい笑みだ。冷酷な吸血鬼のよう。笑っているのに近寄りがたい。

「失礼だとは思ったが、君のことを調べさせてもらった。君だけでなく、君の隊の全員をね。……その怪我は?」

 ハイアーマンが私の足の包帯に気づいて言った。

「先日、哨戒飛行中に敵機と遭遇しまして、その際に少し……」

 するとハイアーマンは大きく目を見開いた。声のオクターブが上がる。

「なんと! 名誉の負傷じゃないか! 敵機とはスピットファイアか?」

「そうです」

 私が気圧されて遠慮がちに答えると、ハイアーマンは大仰な仕草で振り返り司令に向かった。

「司令! あなたはとても勇敢で優秀な兵をお持ちのようですね。ベルリンでも空中で敵機と遭遇して生きて帰れる魔女の飛行隊員はそうはいませんよ」

「彼女は優秀ですよ。もちろん彼女の部下も、どこに出しても恥ずかしくない立派な兵です」

 ハイアーマンはまた振り返ると私の目を見つめた。黒い瞳だ。夜の森のように暗い輝きを放っている。

「君のような偵察兵がもっといれば、戦いももっと迅速に進むんだろうがね」

 心底残念そうな声でそう言うと、それでもう用が済んだというように、男は私に背中を向けた。

「大佐、お久しぶりですね。六年ぶりくらいでしょうか」

「そんなになるかな」

「あの頃はまだあなたもベルリンにいて、じきに将官になると言われていましたね」

「そんな時期もあったかもしれんが、むかしの話だよ。いまはしがない田舎基地の司令官に過ぎん」

 二人の口ぶりから旧知の仲であることが窺えるが、ハイアーマンが喜色満面なのにくらべて、司令は口ひげをいじりながら目を伏せがちだ。表情は冴えない。旧友を歓迎しているようにはとても見えない。エックハルトは出番を待つ役者のように、押し黙って二人のやり取りを傍観している。

「そんなことはありません大佐。大佐はいまでも私の知るだれよりも切れ者ですよ。思い出します、あの頃のあなたのたくましい背中を――」

 恍惚とした表情でいまにも思い出話をはじめようとしているハイアーマンを司令が遮った。

「それで少佐。親衛隊の方がこんな田舎になんの御用ですかな」

 ハイアーマンはそれで意識をこの場に戻した。

「つれないですね。かつては同じ隊で戦った仲だというのに」

「何と戦ったというんだね」

 司令のいつになく厳しい声音に、ハイアーマンはやれやれと肩をすくめた。自分の父親ほどの年齢の二人の間にむかし何があって、いま何があるのか。私にはわからない。そんな私の視線に気づいて、司令が口を開いた。

「彼は――」

 ハイアーマンが司令をさえぎるように振り返る。

「大佐と私とは、51突撃隊の頃からの付き合いでね。私は大佐の副官だった。そのままともに首都防衛大隊に転属した。大佐も私もまだ若かったが、いずれ大佐は軍の頂点に立つ人だと私は信じていたよ。あんな事件がなければいまごろは……」

「少佐、用件をうかがおう。こんなところまでわざわざむかし話をしに来たわけではあるまい。SDはそんなに暇なところではないはずだ」

 司令はむっつりと言った。

 ハイアーマンは名残惜しそうな顔で振り返ると、司令に向かってきっぱりとした口調で言った。

「……では申し上げましょう。33飛行小隊にいるサラ・ポートマン二等兵の身柄を我々に引き渡してもらいたい」

「なんですか?」

 サラの名前が出たことの不自然さに思わず口を挟んでいた。どうしてここでサラの名前が出る?

「いまなんと?」

 ハイアーマンは振り返って私を見た。瞳は黒いが、さっきよりも輝きが増し爛々としている。

 嫌な予感が全身を駆け巡る。

「彼女には政府への反逆行為に加担した嫌疑がかけられている」

 ハイアーマンが私に言った。

「反逆?」

「国家を転覆させようと軍及び政府に対し集団で攻撃を計画した罪だ」

 ――なんと、ばかげたことを――。

「だれがそんなことを!」

「先日我々が逮捕した容疑者が彼女の名前を口にした。ベルリンで彼女と同じ地区に住んでいた産革移民系の男だ。接点があった可能性は充分にある」

「接点があっただけで彼女を逮捕しに来たんですか? そんな道理が通るとでも?」

「彼女はユダヤ人だ。それだけで確たる証拠があることと同じだ」

 足元がふらつくような感じがした。

 ハイアーマンは本気だ。本気で彼女を、ひな鳥のように弱々しく震えている少女を捕まえようと言うのだ。だれが聞いても狂っていると思えるような嫌疑で。

「絶対に許しません」

 私は決然と言った。ハイアーマンは表情を変えずに黙って私を見ている。

「私の命に賭けても、あの子は連れて行かせません。それでも連れて行くと言うならまず私をどうぞ」

 ハイアーマンは肩をすくめて、あの視線を私に寄越した。あの、蔑み憐れむような視線をだ。

「お嬢さん、君は何か勘違いをしているようだ。私が言っていることは、つまり――」

「シャーロットです」

「……何かな?」

「シャーロット・アップルトンです。私の名前です」

 親衛隊の男はすでに私を見ようともしていなかった。自らの指先をぼんやりと眺め、私には目もくれない。

「そうかね、お嬢さん。名前なんてどうだっていいんだ。問題は、君が命を賭けたところで、そんなのはなんの意味もなさないということだ」

 男は首をひねって私を見た。それからつかつかと歩み寄って顔を近づけると、爬虫類じみた露骨な笑みを浮かべてこう言った。

「君の命など、なんでもないんだ。我々にとっては、まったくね。私は親衛隊の国家保安本部(RSHA)から総統命令により派遣されている。私の言葉はそのままヒトラー総統の言葉と思ってくれていい、私にはそれだけの権限が与えられているからね。君は産革移民で、魔女で、ドイツ人どころかゲルマン民族ですらない。君の隊の淑女たちだって似たようなものだろう。ユダヤ人の小娘も含め、いったい君たちが私に何を指図できると言うのかね?」

 ハイアーマンはそう言いながら顔では笑い続けていた。

 体が芯から震え出す。私はいますぐこの男をどうにかしなければいけないと感じた。フランスで引き金を引いたときのように。目の前の脅威を排除しなければ。でなければこちらがやられる。

 この男は敵だ。この男は、確実に、絶対的に、どうしようもなく敵だ。魔女とは対極にいる存在だ。

 腕が自然と腰に伸びた。指先に固い感触。

「二人とも少し待つんだ」

 司令が割って入って、私は自分が何をしようとしていたのかようやく気づいた。頭がかっかしている。それでも手は拳銃から離せない。

 司令はハイアーマンに向かって抑揚のない声で言った。

「少佐、君のやり方はむかしと何も変わっていないな」

「ええ、大佐。私はこのやり方でここまで来たのです。それが間違っていたとは思わないし、これからも思うことはありますまい」

 ハイアーマンはそう言うと、傍らに置かれた黒い革鞄から一枚の紙切れのようなものを取り出して司令に手渡した。

「これは何かな?」

「指令書です。総統閣下お墨付きの」

「内容は」

「読み上げた方がよろしいですか?」

 司令はちらと私の方を見た。

「いや、いい」

 司令は指令書に目を落とす。沈黙が流れた。ハイアーマンは背筋を伸ばして司令を見下ろしていた。副司令は二人の放つ空気に近寄ることすらできずに部屋の隅で小犬のようにおとなしくしている。

 司令は顔を上げた。眉間にはしわが寄り、表情は一層険しいものになっている。

「これはつまり、どういうことですかな?」

「きちんとお読みになられましたか?」

「ああ」

「一言一句間違いなく?」

「初めから終わりまで、二度読み返した」

 司令の手から紙切れを受け取ると、ハイアーマンはそれを鞄にしまって留め金を鳴らした。

「文字どおりの意味ですよ、大佐」

 ハイアーマンは何がおかしいのか、くつくつと笑いながら私を見た。

 おかしいのではない。その笑い方は、檻の中で首輪に繋がれた動物を見るのと同じ目つき。つまりは興味と興奮だ。自由を奪われた動物がどのように動くのか注目している目つきだ。

 濃い紫色をした怒りが私の中で沸々と湧き上がっていく。胃の辺りがちりちりとくすぶりはじめる。銃把を握る手のひらに汗がにじむ。

「彼女たちにも教えてあげた方がよいのでは? 他人事ではないでしょう」

「……その必要は――」

「ないと言いきれますか大佐。彼女たちにも自身に課せられたものを知る権利くらいはあるでしょう」

 SS将校は嬉々として司令の前で踊っている。

 実際は直立して、椅子に座った司令を高々と見下ろしている。しかしその表情は愉悦そのもの。口角は持ち上がり、鼻の穴は膨れ、目尻は下がって嘲笑っている。ハイアーマンは親衛隊、ナチ党直属の国内最高権力を有する部隊だ。

 彼らは総統直轄。軍とは一線を画す。彼らの方が軍部よりも強大な力を持っていると考えた方がいい。

 司令は苦悶の表情を浮かべて考え込んでいたが、いまにもステップを踏み出しそうな少佐と私を交互に見て、ようやく重い口を開いた。

「命令書には国家保安本部長官ハインリヒ・ヒムラーのサインが入っている。サラにはベルリンの本部への出頭命令が出ている」

 出頭命令? つまりは、そういうこと?

「簡易法廷で裁判を受けるように命令されている、スパイ容疑だ。その真偽を問うために出頭せよと。期限は三ヶ月後だ」

 早すぎる。こんな事態はたしかに想定していたけれど、あまりに急だ。それに、想像よりも厳しい攻撃だ。

 それほどまでに戦局は逼迫している?

 親衛隊が魔女にかまわないといけないほどにドイツは圧倒されている?

 ドイツ人でないのにドイツの軍服を着、ドイツ民族の血が一滴たりとも流れていないのにドイツに住み、戦闘機乗りでもないのに空を飛ぶ。そのことが異端。私たちに唯一もたらされた特技、この体の内にある特殊能力は同時に社会的なマイノリティでもあり、私たちを生存させることにおいて障害ともなりうる。充分承知していたはずだ。でも……。

 この力はいったいなんだ。私たちが何をしたと言うのか。

「ご理解いただけたようでなによりです」

 ハイアーマンは満足そうにうなずいた。

「それではサラ・ポートマン二等兵をここに連れてきていただけると――」

「少佐」

 司令がSS将校の前に手を突き出して遮った。ハイアーマンはおとなしく口をつぐんだ。

「少し待っていただきたい。あなたは当基地の現状についてよく理解されていないようだ」

「と言うと?」

 ハイアーマンが訊ねた。

「当基地の航空兵力は彼女たちと、第14飛行中隊のみです。中隊は先頃のイングランド航空戦に参加して隊の半分を失いました。そのうえあなたは彼女たちをも我々から奪おうと言うのですかな?」

「機体の不足でしたら、空軍本部に要請していただければ、すぐにでも補充を――」

「要請はしていますよ、二年も前からね。回せる機体はないの一点張りだ」

 ハイアーマンは黙った。

「仮に機体が来たとしても、パイロットはどうです? 機体は部品があればつくれますが、パイロットはそうはいかない。人間がひとり大人になるには絶対的に二十年かかる。これは覆せない自然の摂理だ。どこも人手不足なのは、あなたもご承知でしょう」

 ハイアーマンはうなずいた。

「……それは、もちろん」

「彼女たちは非常に優秀な飛行隊員であり、生活や任務に対する態度も模範とすべきものです。彼女たちを失えば我が基地の偵察能力は著しく低下します」

「ですから、なんだと言うのです」

 ハイアーマンは冷酷なまでの無表情、SS将校の顔つきとなって冷然と答える。もうその顔からは笑みが消え失せている。

 彼は静かにまくし立てる。

「元々、外人部隊など不要だったのです。我々ドイツ軍人だけで戦えた。それを、一時の不足を補うために慈悲で徴用していただけのこと。いまさら外人部隊がいなくなったからといってなんの障害にもなりますまい。彼女たちは政府の所有物です」

 政府の所有物。その言葉が超低速の弾丸のように胸に突き刺さる。

 不要。いらなくなったから捨てる。それは当り前のこと。割れたマグカップや、空薬莢と同じ。ごみ箱に捨てて、燃やして、土に埋めるだけ。

 首を絞められたように息が苦しくなる。ハイアーマンの傲然たる態度にも、反発できない。

 ニコラのお母さんの言葉がリフレイン。

 私たちは兵士で、道具。

 そう、道具だ。条約に対応するために、私たちは雇われた。兵士であり、航空機の代わりにもなったから。

 ハイアーマンにとって、私たちは軍の備品と同じなんだ。格納庫の中の戦闘機と同じ。

 魔女は、人間ですらない。

 わかっていたこと、わかりきっていたこと。いずれこんな日が来るとわかっていた。なのにいまその瞬間が不意に訪れて、全身が震え出す自分がいる。そんな自分を理解できない、理解したくない。死を知っているはずなのに。

 私たちはもういらない?

 そんなこと言わないで。私はこれまで生きるために空を飛んできて、ドイツ人と同じにはなれないとはわかっていても、いつか近づけるんじゃないかって淡い希望を抱いていた。戦争が終われば、いつか――。

 そんな日は来ない。永遠に。

 わかってしまった。この目の前の男が、ドイツ帝国の代弁者だ。国家の総意だ。

 それでも、収容所にだけは行きたくない。絶対に。

 私は目まいをこらえるために揺れる頭を手で支えた。

「……少佐は親衛隊所属ですな」

 司令がたしかめるようにつぶやいた。ハイアーマンは小首をかしげる。

「なにを言うのですか、大佐。当然でしょう」

「しかもあなたは武装親衛隊ですらない。そんなあなたに戦争の何がわかると言うのです」

 冷たい怒りのこもった声。ハイアーマンは勘づいたのかなだめるような声で言う。

「私はあなたとともに軍で戦ったではないですか」

「私は何とも戦ってなどいない。軍人が市民を攻撃することは戦争ではない」

 ハイアーマンは一瞬ひるんだが、苦笑いを浮かべて、

「闘争ですよ大佐。完全なる第三帝国をつくるための戦いです。我々ドイツ軍がやらずにだれがやると言うのですか」

「親衛隊の君に我々(・・)ドイツ(・・・・)などと軽々しく口にしないでいただきたい。戦場で戦っているのは彼女たちだ。あなた方ではない!」

 司令は立ち上がり叫んだ。顔を真っ赤にして、鼻息荒くハイアーマンを睨みつける。

 私を含め、部屋中のだれもが彼の怒りの形相に驚いていた。私には、司令が私たちをかばったように聞こえた。しかし司令は私の方を見もせずにゆっくりと腰を下ろした。その表情は深い悲しみに包まれている。まるで自分の中の何か大切なものを傷つけられたみたいに。

「あなた方はいったい何と戦っているんだ……。何年も前から、私はそれが理解できない……」

 司令は机の上で組んだ手の甲に額をのせてぶつぶつとつぶやいた。ハイアーマンはさびしげな目を司令に向けていたが、やがてゆっくりと帽子をかぶった。

「……失礼しました。今日のところはお暇させていただきます」

「申し訳ない少佐殿。お忙しいなかわざわざ足を運んでいただいたというのに……」

 司令は反応せず、それまで黙ってやり取りを眺めていたエックハルトがここぞとばかりに歩み出た。

「いえ。いずれまた来ますので」

「下までお送りしましょう」

 ハイアーマンは私の横を静かに通り過ぎようとした。そのとき、

「それでは、失礼。お嬢さん方。どうぞご達者で」

 とにこやかに笑った。――笑ったのだ、さっきいらないと言った私に向かって。

「それでは大佐、くれぐれもお願いしますよ。また三ヶ月以内に伺います」

 ドアの前で振り返ったハイアーマンに司令は顔も上げなかった。

「……では……」

 ハイアーマンは物足りない表情でそのまま部屋を出ていった。エックハルトもそれに続く。

 扉が閉まる。残されたのは私と司令のみ。

 重苦しい空気が室内を支配していた。明確な悪意を持って接してきた人間への恐怖で、体はまだ小刻みに震えている。

 あのSS将校の目は、思い出すだけで心臓をつかまれたように気分が悪い。体に毒でも流し込まれたみたいだ。

「すまなかった」

 司令の声は失望に満ちていた。

「司令。あの男は何者ですか?」

 私が訊くと、司令は引き出しから煙草の箱を取り出した。

「彼は、ベルリンの親衛隊国家保安本部Ⅲ局、国内諜報局。通称SD所属の将校で、ガチガチのヒトラー信奉者だ。SDはナチスの諜報組織で国内の反ナチ運動や市民の監視を行っている」

「その諜報局員が軍にまで介入してくるんですか?」

「親衛隊は権限が強い。総統直属だからな。ときに強引なやり口で党の不利益になりそうなものを排除しようとする。独断専行も多いが半ば黙認されている。三四年の長いナイフの夜事件は知っているかね」

「あらまし程度は」

 司令はいらだった手つきで煙草に火をつけた。

「あれは諜報局が深く関与して行われた事件だ。軍の発言権は当時も弱く、親衛隊はあの事件で一気に存在感を増した」

 長いナイフの夜事件は一九三四年に起きたカウンタークーデターだ。突撃隊内部の左派勢力や反ナチス勢力のクーデターを察知した諜報局がそれを逆手にとって反対勢力を一掃した事件。公的には百名以上の死者を出したと言われているが、実数はもっと多いだろう。その事件から親衛隊は一気に影響力を拡大することになった。

 私は当時十三歳。街の雰囲気が物々しかったことは覚えている。

「……当時、司令は?」

「私は首都防衛大隊の大隊長補佐をしていた」

「それでしたら、当時はベルリンにおられたんですね。事件について何か知っていますか?」

「……いや、私は軍務についていて、特には」

 司令はぼそぼそと言った。

「……そうですか」

 司令の過去について何か関係があるかもと思ったけれど……。

「ハイアーマンはその事件のあとで軍から親衛隊に移った。SDは活動範囲が似通っているⅣ(ゲシュタポ)といまでも反目し合っている。彼は君たちを摘発することでⅣ局よりも先に手柄を立てたいんだろう」

「それで我々は目を付けられたと」

「そういうことになるな」

「仮に出頭しなかった場合は?」

「反逆の咎で、その場で銃殺という可能性もある。それも彼の狙いだろう。サラ一人を匿うことで、君たち全員を殺す大義名分ができる」

 生死問わず。生きてようが死んでようがどっちでもいいってことか。

「なるべく君たちがそうならないよう、働きかけてみる」

「ありがとうございます」

 判で押したような声になった。感情がうまく込められない。まだ内心動揺しているみたいだ。

 あの目、ハイアーマンと名乗ったSS将校の目。グロテスクなまでに、私を抉り殺そうとしていた。私だけでなく、隊のみんなも。それも、無感動に……。まるでそれが当たり前のことだというように。

「しかしわからんのは、何故この時期に、こんな田舎基地に彼がやって来たかということだ。中央ならまだしも、こんな辺境地になぜ……」

 司令は一人考え込む姿勢に入ったが、すぐに顔を上げた。

「ともかく、君たちは普段通り軍務に励んでくれ。それからこのことは他言無用だ」

「隊のみんなにもですか?」

「そうだ」

 私だけが知ってればいいということだろうか。たしかに、そうかもしれない。いたずらにみんなを不安がらせる必要はない。

「わかりました、失礼します」

 敬礼して司令室を出ると、廊下の壁にニコラがもたれかかっていてぎょっとした。

「ニコラ……」

 つぶやくと、ニコラは軽く手を上げて応えた。

「いつからそこに?」

「けっこう前から。変な服の男が入っていくのが見えたからね。気になってそこの陰からのぞいてたらあんたが来た」

 それだけですべて察せた。ニコラはドクターと入れ替わりに部屋を出て行ったけど、そのあとここに来たんだ。会話を聞かれただろうか。聞かれたとしたら、どこから?

「もしかして、つけてた?」

「見慣れない連中がいたから、気になってね」

 ニコラはそう言うと廊下を歩き出した。

「とりあえず、ここじゃなんだから」

 ニコラのあとについて歩く。

 頭はぼんやりとして、目の前が真っ白な霧で満たされたような、そんな奇妙な感覚が私を包んでいた。だんだんと自分の体が遠くに消え失せていくのを見つめているような、夢の中にいるような非現実感。

 ただ前を歩く彼女の背中だけが、ふわふわと揺れる栗色の髪が、朧な世界の中ではっきりと存在している。彼女の力強い声、たくましい心、自身にあふれた眼差し。それらすべてが私にないもので、私が欲するもの。

 彼女こそ隊長にふさわしい。ずっとそう思っていた。私はちょっと脅されただけでこうなのに、ニコラは平然としている。その強さが羨ましい。

 宿舎の外に出るとニコラは風雨にさらされて塗装もあちこち剥げているベンチに腰かけた。ニコラは上着のポケットから煙草を取り出してくわえる。マッチを擦ると、慣れた仕草で火をつける。

「体に悪いよ」

「別にいいよ。子どもを産むわけじゃないし」

 ニコラは空を仰ぎながら煙を吐き出す。その瞳は何を見ているんだろう。

 空はほとんど暮れかかっていた。橙と藍色の中間の空を、森に帰る鳥の群れが西へ飛んでいく。

「別に産まないと決まったわけじゃないでしょ」

 私は彼女の隣に腰かけながら言った。風はニコラの方から吹いてきていて、煙草の煙と、濃い鉄のにおいが鼻をつく。

「戦争が終わればいくらだって――」

「戦争は終わらないよ」

 ニコラは断言した。

「この戦争が終わっても、私たちの戦争は終わらない。死ぬまでずっとこのままだよ」

 ニコラの声は奇妙なほど確信に満ちていた。

「どうしてわかるの?」

 彼女は右手に煙草、左手はズボンのポケット、口からは白煙、目は正面、心はここではないどこかにある。

「あいつ。あんな男がいる限りはどうにもならない」

 ニコラの声には憎しみが込もっている。

「あのSDの少佐?」

 言ってから、ハイアーマンの顔を頭に思い浮かべて、背筋が寒くなった。ニコラはうなずいて、

「あんなにあからさまに見下されたの久しぶりだよ。殴り込んでやろうかと思った」

「それこそあの少佐の思うつぼでしょ」

「うん、だから我慢したの」

 ニコラはぐっと拳を握りしめると、すぐにぱっと離した。それを何度かくり返すことによって、自分の中の怒りを緩和させているのかもしれない。ひどく子供じみた行為だと思った。

「ニコラは絶対に殴ったりしない」

「よくわかってるじゃない」

 そう言って見つめ合うと、なんだか緊張の糸が切れてしまって、お腹の中から笑いがこぼれた。つられてニコラも笑う。

 しばらく二人してくすくす笑っていた。今日はよく笑う日だ。風が夜の色を帯びてきて少しぬるくなった。

 なんて悲しい笑い方だろう。

 私たちはまるで死刑囚だ。生まれたときから監獄の中にいる。執行の日を知らされることはない。釈放されることもない。

 どうしようもない方向に転がっているのに、笑える。むしろ絶望的だから、笑いがこみ上げてくるのかもしれない。

 私たちを生かしたり殺したりするのは私たちの意思ではなく、もっと大きくて新鮮な意識だ。私たちには自分の命の決定権すらないけれど、悲しくはない。ただ、むなしい。

 ふとした思いつきで、頭に浮かんだことをそのまま言ってみた。きっともう、私とニコラの間に遠慮はいらないだろう。

「でも、ニコラのお母さんは結婚して、ニコラを産んだじゃない」

 結婚って、なんだか、奇跡みたいなものだ。それも、移民同士じゃない結婚って、想像もつかない。

「そうだけど……。私はあの人みたいにはなれないよ」

 ニコラは笑うのをやめて、悲しげに眉を下げて言った。意外な表情に、私は少し驚いた。

「どうして?」

「あの人は、上手いのよ。色んなものを受け流して、いつだって笑ってて、辛いことなんて何もありませんよって顔してるの」

 ニコラはふーっと煙を吐いた。どこか甘い香りが私の方へ流れてくる。

「でも、辛くないはずがない。人間はね、楽しくなくても笑えるの。パパが死んだとき、私は軍に志願したばかりで訓練を受けていたから、訓練がぜんぶ終わって家に帰るまでママは三ヶ月近くも一人だったのに、帰ってきた私を笑って出迎えたの。そんなのって、ある?」

「……それって、一九三四年のこと?」

「そうだけど、どうかした?」

 私は返事をせずに、司令の言っていたことを思い出していた。

 ニコラのお父さんが死んだ原因はたぶん、長いナイフの夜事件だろう。ニコラのお父さんは突撃隊員だったから。

 私にとって、両親の死は幼い頃のことで、実感は薄かった。ただ悲しくて、でもどうしようもなくて、さびしかった。いまでも思い出す。でもそれは、二人がいなくなったあとの空白が悲しいからだ。ひとりぼっちがさびしいから。両親の死という出来事ではなく、その後にある両親の不在がさびしさの理由だ。私は過去のことをずっと引きずっている。けれどニコラはちがう。彼女の問題は現在につながっているし、修復も可能だ。

 ニコラにとって、お父さんの死をお母さんと共有できていないことで、納得がいっていないのかもしれない。共有するべき悲しみが共有できずに、自分だけが辛い思いをしていると思い込んでいる。もちろんニコラは一方的に被害妄想できるほど馬鹿ではないだろうけれど、それでも納得できない部分を抱えたままになっているのだろう。

「辛いからこそ、ニコラのお母さんは笑ったんじゃないかな。ニコラに悲しい思いをさせたくなくて」

 私が言うと、ニコラは首を振った。

「でも、私は泣きたかったんだよ。急にパパがいなくなって、私はそのときママのそばにいれなくて。家は自分の家じゃないみたいにさびしくって、でもママは笑ってるの。それがどうしても納得できなくて、私はひどいことを言ったの」

「ひどいこと?」

 ニコラは煙草を足で踏みつぶすと、すぐに二本目に火をつけた。彼女の目はマッチの火ではなく、もっと遠くを見ていた。

「絶対言っちゃいけないようなこと。ママはそれでも笑ってたから、私もっと頭にきて、自分の部屋に飛び込んで、次の朝顔も会わさずに飛び出してここに来るトラックに乗り込んだ。だからそれ以来会ってない」

 さびしそうに笑って、ニコラは私の方を向いた。

「子どもだったんだよ、私は。謝りたいけど、次にいつ会えるかもわからないし」

「会えるよ、きっといつか」

 ニコラに笑ってほしくて私はそう言った。ニコラにはそんな、悲しそうな笑顔は似合わない。もっと朗らかに、楽しそうに笑ってほしい。

 好きな人には、いつだって笑っていてほしい。ニコラも、エミリアも、小隊のみんな、ヴェルテ、司令、マルティナ。そういう人たちには。

 家族のいない私にとって、大切な人たちはもうここにしかいない。認めようと認めまいと、ここが私の帰るべき唯一の場所なんだ。

 ニコラはあいまいな表情でうなずいた。

 ニコラが胸に秘めていた思いを話してくれたことで、何かそれまで私の中で形を成していなかった覚悟めいたものが固まった気がした。

 私が守るべきものは、自分の身だけじゃない。大切なものをどれだけ多く守れるかが肝要だ。

 命は一つではなく複雑に連続している。ニコラはお母さんと連続しているし、エミリアや私とも連続している。一人を守ることがもっと大きな命を守ることになる。

 私はいまこそ、子どもの殻を脱却して、羽ばたかないといけない。自分がかわいいだけじゃない、みんながかわいいから。

 私たちを飲み込もうとする闇から逃れる術は――。

「どうにもならない、か……」

「うん、どうにもならない」

 私がつぶやくと、ニコラは小さくうなずいた。。

 何もあのSS少佐だけが特別なわけではない。あんなのは、きっとこの国の中にごろごろいる。私たちよりも多勢で強大。私たちを攻撃するのは民主的な意思だ。

 きっともう、私たちの抵抗なんて意味がないところまできてしまったのだろう。あとは大波にのまれるのを待つしかないのかもしれない。方舟は私たちを乗せてくれなかったんだ。

 けれど私たちには羽がある。大空に飛び立つための最後の魔法が。

「だからさ、逃げちゃおっか」

 変色していく空を眺めていたらそんなことを言われたので、見るとニコラはにっと笑った。最高の悪戯を思いついた子どものような笑顔だ。

 驚愕に体が震えた。私も同じことを考えていたから。

 そう、嫌になったら逃げ出せばいい。かつて私の祖先がそうしたように。杖と箒と仲間とともに。

「いまさら隠すことでもないけど、私の秘密の情報網って、同期の通信の子に頼んであちこちの魔女部隊と暗号文で連絡とってただけなのよ」

 指を振りながら軽い調子でニコラは言った。私はわざとらしくため息をついて、

「そんなことだと思ってた」

「ベルリン隊の子たちが脱走を考えてるって聞いたから、後追いするわけじゃないけどそれもありかもしれないと思って」

「ベルリンの子たちはなんて?」

「最近になって監視が厳しくなって、夜でも基地から抜け出せなくなったって。基地の中で軟禁状態が続いてるみたい。そのうえ例のねずみ色のスーツの連中がやって来て隊員の構成を確認していったって」

 ハイアーマンの同僚か同業者がドイツ中をうろうろしているということだろう。彼らだって頭で考えて言語を解する生き物なのだ。それを忘れてはならない。

 この国にはもう逃げ場がない。連中は路地裏にいるねずみだって見つけてしまうだろう。

「正直言って、私はあいつらが大嫌いよ」

 ニコラは静かに言った。

「私も好きじゃないけど――」

「あいつらのせいでお父さんは死んだんだもの」

 ――そうだね。ニコラのお父さんは突撃隊員……だったんだもんね。

「私はあいつらの思惑通りにはなりたくない」

 ニコラの言葉にはこれまで聞いたことがないくらい強い気持ちがこもっている。憎しみや、怒りや、……悲しみ。そんな類型的な単語では言い表せない何か。

 私たちの命がいまあるのは、当然のことじゃない。いつ奪われるかもしれないことへの、反抗、反発?

 そういうことを私たちはすべきなんだ。ただ最後の日を待つだけじゃなく。

「生きるためにできることをしようよ、ねえシャーリー」

「そうね……」

 生きないと意味がない。何を残したとか、何をしてきたじゃない。いま何をするか。これから何をできるかだ。

 もう過去は振り返らない。そんなのは無意味だ。父も母も、おばあさんも。嫌なことも良いこともすべて忘れて、これからのことを考えよう。そうして魔女に課せられた数百年の呪縛から逃げ切るんだ。

「どこに行こうか。スイスまでなら百キロもないし、中立国で安全なはずだけど、国境警備は厳重だって――」

「――イギリス」

「え?」

「イギリスに行きたい」

 自然とその国の名が口をついて出ていた。その国がすべてのはじまり。すべての因果のはじまりの地。

 これが絶好の機会だと思えた。そして、唯一であることも。


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