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魔女は墜落しない  作者: わたぼう
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一九四二年

▼一九四二年



 夏だ。飛ぶのがつらいのは夏と冬だ。理由はわかりきったことで、暑いし、寒いからだ。

 冬はまだ良い。上にジャケットなりなんなりと重ね着すればいい。ズボンだってシャツだって何枚着たってかまわない。

 夏はそうはいかない。まさか裸で飛ぶわけにもいかない。上空では見ている人間もいないからと言っても、いくらなんでもそんなことはできない。

 ビールの消費量も、必然的に夏の方が増える。上空よりも地上付近、特に滑走路の辺りは熱気が停滞していて特別に濃厚な熱さを味わえるが、基地に帰らないとビールもシャワーもお預けだ。

 エミリアとの哨戒飛行は、よりにもよって午後の日だった。午前よりも午後の方が暑い。自然とエミリアの口数も減る。私もしゃべらない。

 汗を夕立のようにぱらぱらと降らせながら基地上空に戻って来ると、滑走路上に二機のメッサーシュミットの灰色の翼が見える。去年機体が半減したが、補充が来るという話はとんと聞かない。

 大急ぎで降下していくと、建物の陰から滑走路に出てくる人影が見える。パイロットにも整備兵にも見えない。人影は私たちに手を振っている。

 珍しい組み合わせだった。マルティナとヴェルテが、いっしょになって手を振っている。私は思わずエミリアを見たが、彼女はのんきに手を振り返していて私の視線にも気づかない。

 滑走路の真ん中、もうプロペラを回転させている飛行機の後ろに降り立つ。ブーツの底に硬い感触。箒を降りると、二人がゆっくりとそばまで来た。

「ご苦労さまです、エミリア、シャーロットさん」

 マルティナが白いタオルをエミリアと私に渡してくれた。

「ただいま」

「ただいまー!」

 ありがたく受け取って顔の汗を拭う。

「いったいどうしたの? 二人してわざわざ」

 ヴェルテが待っているときは、たいてい司令からの呼び出しがある。正直、あまり歓迎できない。

 ただマルティナはふだん滑走路には出てこない。航空隊員と飛行機に携わる人間以外は基本的には出てはいけない決まりになっている。

「……エミリア、言ってないの?」

 マルティナは当惑した様子で、ヴェルテににじり寄ろうとしているエミリアに言った。エミリアはきょとんとしている。

「あれ、言ってませんでしたっけ?」

「だから、何を?」

 マルティナは小さくため息を吐いた。ヴェルテはエミリアと距離を取っている。

「二人が箒に乗せてほしいって言ってたので、期待に応えようと思いまして」

 と、エミリアが言った。

「ふぅん、そうなの」

 そんなこと言うなんて、二人は怖いもの知らずというか、好奇心が強いというか。他人が舵を取る箒に乗るって、はっきり言って楽しいものじゃない。私たちの箒は一人用なので、二人乗るとバランスがうまく取れないから、落としそうになって怖いのだ。たとえるなら、単座の戦闘機に二人乗るみたいなものだろうか。乗ったことがないからわからないけれど、たぶんそんな感じだろう。

「まあいいんじゃない? 怪我だけはしないようにね」

「なに言ってるんですか? 隊長も協力してくださいよ」

 エミリアはさもありなんという風に言うと、ヴェルテをそばに招き寄せた。

「私はヴェルテを後ろに乗せるので、隊長はマルティナを乗せてあげてくださいね」

「え、ちょっと」

 私が言う前に、エミリアはヴェルテを後ろに乗せてさっさと空へ舞い上がって行った。偵察機も飛び立ち、整備兵たちも引き上げた地上には私とマルティナだけが残される。

 気まずい沈黙。

「……あの、私は、別にかまいませんので……」

「あなたが気を使う必要はないわ。まかせなさい、これでも魔女だから」

 私は降りたばかりの箒に乗り直して、いつもより前にお尻を置いた。

「どうぞ、乗って?」

 あまり自信のない声になってしまった。

 マルティナは不安そうに、おずおずと私の後ろで箒に跨った。

 私も不安だ。訓練生時代に二人乗りをさせられたことがあるけど、そのときは着陸に失敗して危うく箒を折りかけた。

「い、いくわよ……。しっかりつかまってね!」

「は、はい!」

 一人で飛ぶことには慣れている。けれど、後ろにだれかがいるだけで緊張して体がかたくなる。

 箒に乗っているときは重さを感じない。ただ自分以外のだれかが乗っていることを意識しないと、いつもの調子で飛んで振り落としてしまいそうになる。一人のときとは勝手がちがう。

 暑さのせいではない汗が背中を流れ落ちる。

「いつも通りに……いつも通りに……」

 意識しすぎて声に出ていた。ゆっくり、ゆっくり上昇していく。足が地面を離れて、重力を忘れ、目線は少しずつ高くなっていく。

 たっぷり時間をかけて上昇していくと、管制塔より少し高いところでエミリアたちが待っていた。エミリアは満足げな表情をしている。理由は言わずもがなだろう。足元が不安定な場所では、何かにしがみつきたくなるものだ。

「マルティナ、だいじょうぶ!?」

 思いがけず声が大きくなった。こんな気持ちで空に上がるのは久しぶりだった。ある意味では刺激的とも言える。

「はい!」

 マルティナもつい叫んでいる。私の腰にまわされた腕に力が入る。

「下は見ないようにね!」

 言いながら足元を見ると、小指ほどの大きさになった整備兵たちがぼんやりと私たちを見上げていた。

 ニコラは私を置いてさっさと森の方へ飛んで行ってしまったが、私は彼女ほど上手に飛べそうにないので、いつもの何分の一かの速さでゆっくりと、基地の上空を回ることにした。

 何周かしていると、緊張もほぐれてきた。マルティナの腕からも力が抜けている。

 真っ青な空が、山の向こうまで続いている。北側には夏の木々に彩られた山の緑色の稜線が、両手を広げたように東西に広がっている。基地の周囲には青々とした森、西側には無機質な建築物、六つ子のように並んだ格納庫。南北にまっすぐ伸びた道路を黒い車が一台、検問所を通って基地のゲートの方にやって来ている。目新しいものも、特別なものもない。

 いつもの風景だ。あらゆる季節、あらゆる天候、あらゆる時間に見てきた景色。

 それが後ろにだれかがいるだけで、ちがって見える気がする。いつもより暖かみのある色合いに。背骨のあたりがぞわぞわする。

 空から見ると、世界はなんて広くて、人はなんて小さいんだろう。ここでは不可能なことなんて何もないような気がする。あらゆる可能性に満ち満ちている私の世界。

 想像を停止して、私は叫んだ。

「どうマルティナ! 空を飛んだ気分は!」

「すごく……素敵です……! まるで、まるで、世界が私の一部になったみたいです!」



 地上に降りた私たちは、日陰を探して格納庫の壁に背中を預けて座り込んだ。

 気を使っていたせいか、体よりも頭が疲れて重くなっているようだ。手で庇をつくりながらながら、まだ飽きることなく飛んでいるエミリアたちを眺めた。

「ありがとうございました」

 隣に同じように腰を下ろしたマルティナの方を向くと、彼女は薄緑色の草を指で撫でていた。

「とても楽しかったです。なんだか、鳥になったみたいでした」

「喜んでもらえると、がんばった甲斐があったわ」

 マルティナは顔を上げてほほ笑んだ。赤い髪が影の中にいることでより色濃く見える。

 彼女の横顔は幼い。エミリアよりもなめらかな体つきや、小さな目や低い鼻のせいもあって本当の子どものようだ。

 首都の方では、本当の子どもが銃を手に行進していると聞く。

「エミリアって、あなたから見てどう?」

 マルティナは少し考えてから、

「……明るくて、いつも笑ってて、素敵です。私の憧れです」

「奇遇ね。私もよ」

 マルティナは小さく首を傾げた。私は冷たい土に手のひらを置きながら、

「私もエミリアみたいになれたら、って思うの。エミリアって、ほら、物語の中に出てくる天使みたいに感じるときがあって……」

 上手い例えが思いつかずそう言うと、マルティナは目を瞬せてから重々しい雰囲気で言った。

「……意外でした。シャーロットさんでも、そんな風に思うときがあるんですね」

「そんな風にって?」

「だれかに憧れるときがあるんですね」

 私は思わず苦笑した。マルティナの表情が真剣そのものだったからだ。

「あなた、私をなんだと思ってるの?」

 笑いながら言うと、彼女は目を伏せた。

「すいません、失礼な言い方でした」

 私は慌てて否定する。

「ちがうちがう、怒ったんじゃなくて、単純に疑問として訊いたのよ」

 マルティナはしばらく考えてから、慎重に言葉を選ぶように言った。

「シャーロットさんは、私から見ると、完璧で、悩みなんてないような人に見えます」

 ずいぶん買いかぶられたものだ。彼女は、光を当てられて実物よりも大きくなった影を見ているのだろう。

「私はそんな、すごい人間じゃないわ。周りのみんなが助けてくれるから、隊長をやれているだけだもの」

 常々思っていることを口にした。

「でも……」

「本当にすごいっていうのは、エミリアや、ニコラみたいなのを言うのよ」

 二人とも私の憧れだ。彼女たちは強く気高い。一生かかっても、私はああはなれないだろう。この後ろ向きな心をどうにかしない限り。

 エミリアは上空を、もう何周も回り続けている。それも巡航速度でだ。彼女の箒捌きはなかなかのものだ。後ろに人を乗せた状態で、いつも通りに飛ぶことはかんたんではない。

 ああやってだれかを後ろに乗せて空を飛ぶ日がかつてあり、またいつか再来するのだろうか。魔女が日常的に都市の上を飛び回り、箒を店の入り口に立てかけてカフェでお茶を飲んだり、箒やローブや杖の専門店のショーウインドウを店先から覗いたり。

 そういう日がいつか来ればいいなと思う。

 そんな日はきっと来ないと考えている。

 私はいつだって、矛盾したことを考えている。希望の裏にある絶望を見すぎるのだ。ときには考えすぎない方がいいということもわかっているし、ニコラにも注意されたけれど、どうしてもやめられない。

 考えることをやめると、窒息してしまうような気がして。

「ニコラは頭が良いし、エミリアは場を明るい雰囲気にする天才だわ。ケイトだって気さくだし、クリスティーヌは門番のように頑ななところもあるけど、いいお姉さんって感じね。他のみんなもそう……。だれにだって、素敵なところがあるのよ」

「それじゃあ、シャーロットさんにも素敵なところがあるはずですね」

 私は面食らってしまった。マルティナの口調が本気で、またその眼差しが強い意思を持って私を捉えていたからだ。私はたまらず目を逸らして、首を振る。

「何度も言うけれど、私はそういう人間じゃないから……」

「私は、シャーロットさんを尊敬しています」

 強い口調のまま言われて、どういう顔をすればいいのかわからない。どうすればいま、適切なのか。彼女の期待を裏切らないのか。

 考えて、私は物分かりの良い年上ぶった微笑を浮かべた。

「ありがとう。嬉しいわ」

 マルティナはふたたびうつむくと、ぽつりぽつりと話し始めた。

「私、学校でいじめられてたんです……」

 マルティナが静かに、けれど明確な意思のこもった声で語り出したので、私は黙ってその声に耳を傾けた。目は空中のエミリアを見ている。エミリアは戦闘機がやるような空中機動の真似ごとをはじめた。ヴェルテの引きつった顔がここからでもよく見える。

「学校では友だちもいなくて……。授業が終わったらすぐ帰って、家の手伝いをしてました。うちは貧乏で、私は長女で、下に弟や妹がたくさんいましたから……」

 マルティナはきっとだれかに聞いてほしかったのだろう。自分よりも強そうな、頼れそうなだれかに。私にもそういうときがある。ただ私の場合は、そういう相手がいないから話せない。

 聞き手はだれでも良いのだ。ただこの場合、選ばれたのは私で、断るほどの理由も私は持ち合わせていない。

 エミリアは急加速すると、ぐいっと切っ先を上げた。

 インメルマンターン。

 後ろに人を乗せた状態で、無茶をする。

「友だちがいなかったのは、仕方がないんだと思うんです。私といてもたぶん、退屈だったろうし……」

 そのまま一回転するように上方宙返り。

「自分でもわかってるんです。私って、いっつも、人の顔色をうかがってばっかりで、自分の気持ちを伝えるのに、なんだか……。遠慮、しちゃって」

 水平飛行に戻るとすぐにまた縦に上昇してバーティカルキューバンエイト。

「たぶん、そういうところがいけなかったのかなって、いま思えばわかるような気がするんです。だって、嫌ですよね。いっつもびくびくしてる子なんて」

 かなり張りきっているみたいで、続いてシャンデルからのスライスバック。

「だから学校を卒業したときは、変な言い方ですけど、ちょっと、ほっとしたんです。これで、私はどこにだって行けるんだなって。私のことをだれも知らないところに行ってもいいんだなって」

 またループ機動。

「でも、働き口がぜんぜん見つからなくて……。結局、叔父の勧めもあって軍に入りました。最初は訓練も、教官の先生も怖かったけど、学校にいるときよりは、なんというか、楽しかったんです」

 そこからまさかの左捻り込み。敵機もいないのによくやる。

「それからここに来て、エミリアに会いました。私とエミリア、ベルリンから同じトラックに乗って来たんですけど、ここに来るのは二人だけで……。私、緊張して、ろくにエミリアの顔も見れなかったんです。たぶん、相当変な風に見えてただろうなって、いまは思います」

 最後とばかりにエミリアは垂直急降下。耳をつんざくようなヴェルテの悲鳴が少し遅れて聞こえてくる。

「エミリアは、そんな私にやさしくしてくれたんです……。彼女、見ての通りの人だから……」

 マルティナの告白はそれで終わった。

「家族のことは、好き?」

 私が空を見上げたまま訊くと、彼女はしばらく考えるように黙ってから、

「好きです……。でも、考えちゃうんです。もし、私がひとりっ子だったら。家が裕福だったらって」

 私は鷹揚にうなずいた。だれだって、そういうことは考えるだろう。

 もしドイツに生まれなければ。

 もし戦争がなければ。

 もし裕福な家庭だったら。

 もし、魔女じゃなければ。

「けどそんなのって、嘘ですよね」

 マルティナはさっぱりした口調で言うと、立ち上がってズボンの土を払った。

 滑走路の先にエミリアが着陸していた。彼女はぶんぶんと大きく手を振り、マルティナは控えめに振り返す。ヴェルテが地面に膝をついてうな垂れているのが見える。

 私もタオルを首にかけて立ち上がりながら、マルティナの横顔を見た。顔にはそばかすが薄く残っているが、その顔からはもう以前に感じたあどけなさが消えている。

「エミリアを見ていてあげてね。あの子、たまに無茶をするときがあるから」

 私はお願いするような気持ちで言った。彼女の清々しい顔を見ていると、そう言うべきだと思った。マルティナこそ、エミリアにとっていちばん近しい友だちだと思ったから。私では、そこまでなれない。

 マルティナは小さくうなずいた。私は念を押すように、

「もし鼻血が出たら要注意よ。魔女は無茶をすると鼻血が出るんだから」

 そう言うと、マルティナはくすくす笑った。

「信じてないわね? 本当よ? 魔力が沸騰して体からあふれちゃうんだから!」


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