一九四一年
▼一九四一年
その報せが届いたのは、暮れも差し迫った十二月のことだった。
ここのところ、別に変わったことはなかった。へまもしてないし、飲み過ぎで出撃して墜落もしていない。
だから司令室に行くように言われたとき、嫌な予感がした。明確な理由はない、ただ、なんとなく。
日本がアメリカの真珠湾を奇襲攻撃したというニュースが数日前に入ってきていた。私は何もすることがなく、飛行と睡眠以外の時間は相変わらず飲んだくれていた。エミリアはヴェルテと仲良くやっていたし、ニコラはこそこそと何かしているようだった。聞いても教えてくれないので、もう聞かないことにした。
フランス遠征から帰って来てから、頭が霞がかったようにぼんやりとして、考え事をするのが億劫になった。そのうち治るだろうと思っていたが、しばらく経っても治らないのでドクターの診察を受けたが特に異常は見られないというので、とにかく放っておいた。
あれから一年以上が経っても、いまひとつ改善していないが、仕事に支障はない。
司令室に行くと、彼のデスクの脇にそばかすの目立つ小柄な少女が立っていた。少女は見るからに落ち着かない様子で、私が部屋に入るとその度合いをさらに増して、小さな体を縮めようと必死にがんばっていた。私が敬礼すると、司令が促して彼女はようやく敬礼らしきものをしたが、それははなはだぎこちない動作だった。
私は彼女から離れて待ったが、彼女は視線を落ち着きなくさまよわせるばかりで、部屋は奇妙な空気に包まれている。私が説明を求めるように視線を向けると、司令は困ったように口を開いた。
「あー……。とりあえず、自己紹介をしてくれるかな」
そばかすの少女は不安そうに司令を振り返ったが、司令が黙っているのでどうしようもなくなり、ようやく私の方を見た。一瞬だけ目が合ったが、すぐに逸らされる。
「あの……、サラ……ポートマン、二等、兵……です。えっと……、あ、その、……よろしく、おねがい、し、します……」
かなり聞こえづらい声で、最後はほとんど聞きとれなかった。
「サラ二等兵は学校を出たあと軍に志願して、ベルリンで三ヶ月の訓練を受けて今日ここに配属された。色々と事情もあるが、とりあえずはそういうわけだから。シャーロット、彼女をよろしく」
結局司令がほとんど説明してしまった。
「はあ……」
腑に落ちないところもあるが、とにかく彼女が私の隊に配属された新人だということはわかった。数日前から、新人が来るということは聞かされていた。けれどいつのことで、どんな人物かはまったく聞かされていなかった。もしかしたら言われていたのかもしれないが、地上にいるときの私はシラフだとほとんど役立たずだったので聞いていなかっただけかもしれない。新人はエミリア以来なので、実に三年ぶりだ。
私は彼女に歩み寄って右手を差し出した。彼女は一瞬ひるんだが、私の顔と手をくり返し見て、おそるおそる手を握った。
「私はシャーロット・アップルトン曹長。第33飛行小隊の隊長をしているわ。あなたを歓迎します、ようこそシュランベルクへ」
なんとかそれだけは舌がもつれずに言えた。
握り返す力は弱々しい。
「……サラ・ポートマン、です。これから、よろしく、おねがいします……」
「基地を案内するからついてきて」
司令室を出てあちこちと歩き回った。総合指揮所、食堂、シャワールーム。滑走路に出て管制塔を下から眺めた。基本的に管制員以外は立ち入り禁止なので、私も上ったことがない。
外は寒く、どんよりとした雲が天を覆っていていまにも雪が降り出しそうだ。
「ここまでどうやって来たの?」
「輸送機に、乗せてもらって……」
「ベルリンから?」
サラは小さくうなずいた。
軍に入隊するタイミングはそれぞれだが、たいていは基幹学校を卒業した十五歳か、実科学校を卒業した十六歳、ギムナジウムを卒業した十九歳の三通りが一般的だ。入隊すると最初に教育隊で三ヶ月の訓練を受ける。ベルリンにしかその部隊はないので、みんな一度はベルリンに行く。
訓練を終了すると正式配属になって、国内に散らばる部隊のどこかに配属される。
サラを見ると、小さな肩が震えていた。コートを着ていても今日の寒さはこたえる。
「冷えるわね。戻りましょうか。宿舎の部屋は二人部屋だから、ルームメイトを紹介するわ」
宿舎二階に上がると、廊下に同じ色形のドアがいくつも並んでいる。そのうちの一つをノックする。はいはーいと軽い調子の返事が聞こえたので中に入ると、ケイトがベッドで横になっていた。
「隊長、おはようございます」
ケイトは起き上がってベッドの縁に腰かける。耳が出るくらいに短く切ってしまった茶髪が揺れる。大理石から彫り出したような高い鼻が顔の真ん中で目立っている。
「おはようケイト。朝からごめんなさいね」
「いえいえ。一人だと静かすぎて早く目が覚めたんで、別にいいですよ」
ケイトは爽やかに笑う。ケイトも、エミリアほどではないが明るい性格をしている。
元々、ケイトは他の子と同部屋だったのを、サラの面倒を見てもらうために部屋割をかわってもらっていた。
「その子が……?」
ケイトはよく見ようと身を乗り出す。
「ええ、さっき着いたばかりなんだけど……」
振り返ると、サラはケイトの視線から逃れるように、私の背中に隠れている。私は彼女の背中をどんと押し出す。
「ほら、自分であいさつして。今日から同じ部屋で暮らすんだから」
サラは自分を遮るものが何もなくなってもじもじとしていたが、
「……サラ・ポートマン、二等兵……、十七、歳です……。よろしくおねがい、します」
うつむきがちではあるが、ちゃんと言えた。
ケイトは大きな青色の瞳でサラのくりくりして瑞々しい前髪を見ていたが、笑みを浮かべて立ち上がるとさっと右手を差し出した。サラはまたびくりとしたが、おずおずとその手を握った。
「ケイト・アダムズ伍長だよ。二十歳だ。よろしくね、おチビさん」
ケイトはそう言うと快活に笑った。サラの方はまだ戸惑っている様子だったが、怯えてはいないように見えた。
それだけで、ケイトに頼んで正解だと思えた。小隊内でのケイトは、年齢こそ上から四番目だが、後輩の面倒見はだれよりもいい。彼女いわく、実家では妹弟たちの世話をする役割があったからだという。
「あとでサラの荷物を運ばせるから」
軽く手を振ると、ケイトはうなずいた。サラを彼女にまかせて私は部屋を出た。
これでうちの隊員は十三人になった。
その日の夜。食堂で、サラの歓迎パーティを開いた。企画したのはエミリアで、どこから用意したのか白い紙に「Sarah Willkommen!」と書いた横断幕が壁に貼られている。白いテーブルクロスの上にかんたんな料理とビールがのっている。
食堂に入ると、もうほとんどみんな集まっていた。すぐに今日の主役がケイトに付き添われてやって来たので、私は入り口からどいて道を開けた。
パーンッ! とそのときだれかがクラッカーを鳴らした。サラは、
「ひいぃっ!?」
と悲鳴を上げると、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「だいじょうぶだいじょうぶ、ただのクラッカーだから」
ケイトはもう慣れたのか、サラの隣にしゃがんでやさしく語りかけている。クラッカーを持った何人かが呆然とその光景を見ている。一瞬場が白けたが、主謀者のエミリアが慌ててサラに駆け寄った。
「ご、ごめんね! そんなに驚くとは思わなくて……」
サラは顔を上げると、エミリアの顔を一瞬だけ見つめてまたうつむき、ふるふると首を振った。それからゆっくりと立ち上がると、
「あの、その……、……すいません……」
「な、なんで謝るの?」
エミリアが困惑した様子で訊いたが、サラは答えなかった。かわりにケイトが歩み出て、エミリアにビシッとデコピンをお見舞いした。とても良い音がした。
「いだぁっ!」
エミリアは仰け反ると両手でおでこを押さえる。
「はいはい。いつまでもつっ立ってないで始めましょう。明日早いのもいるんだから」
ケイトがサラの手を引きながらテーブルに歩み寄って椅子に座らせる。涙目になったエミリアは当惑した様子でつぶやいた。
「な、なんでわたしだけ……?」
それでみんな、とりあえずは席に着いた。
司令にサラの歓迎会をしたいと言うと、快く許可してくれた。そのとき彼も誘ったが、丁重に断られてしまった。
よく考えれば、司令のことを私はあまり知らない。軍人としての彼のキャリアは知っていても、一個人としての彼のことはまったくだった。
食堂には小隊のみんなと、マルティナの姿があった。エミリアに頼んで彼女も誘ってきてもらった。サラと歳も近いし、彼女の性格はケイトやエミリアとはちがった方向でサラのためになると思った。
私たちとマルティナ以外の人の姿はない。いつもの顔ぶれだけがパーティ会場にあった。
そこかしこで勝手にお喋りの花が咲きそうになるのを、エミリアが止めた。持っていたグラスをフォークではじくと、食堂は静まりかえった。
「それじゃあ、サラちゃんの歓迎会を始めたいと思います! まずは本日の主役、サラちゃんからご挨拶をおねがいします!」
エミリアが言うと、サラは首をぶんぶんとふって拒否した。意志は固いようだ。
「えー……、ではかわりに、本日の会を企画しました私から挨拶を……」
エミリアが咳払いをして何か言おうとするも、だれも彼女のスピーチなんかに興味はなかった。みんなが興味を向けるのは、新入りの小さな女の子がどういう性格でこれまでどんな苦難に満ちた人生を歩んできたかということと、テーブルに並んだ料理や酒のみだ。
そこかしこからブーイングが飛ぶ。エミリアはそれで用意してきた言葉を披露するのを諦めてグラスを掲げた。
「ぷ、プロージット!」
Prosit!(カンパイ!)
グラスをぶつけると、みんなは一気に飲み干してしまった。すぐに空になったグラスに二杯目を注ぎ入れている。もはやこれがだれのためのパーティなのかは、みんなの頭の中からは消え去ってしまったようだ。
サラは食堂の真ん中――料理が盛られた大皿を目の前にした特等席――に座っていたが、そこだけぽっかりと台風の目のようになっていた。ケイトが隣に座っていて、反対には太陽のように明るいエミリアがいても、その空気は覆せていない。
自分の分のグラスを持って彼女に近づく。
「隣いいかしら?」
サラはぼうっと私を見上げていたが、すぐにこくこくとうなずいた。
ケイトが立ち上がって席を空けてくれたのでそこに座った。彼女は隅の方でにぎやかにしゃべっているニコラたちの方へ歩いて行った。
ちょうどそのとき、ヴェルテが食堂に入って来たので、エミリアは彼の元へすっ飛んで行ってしまった。いつもの彼女よりも、わざとらしい俊敏さだった。
私は手酌でグラスにビールを注いで、勢いをつけるために一息でそれを飲み干した。一息吐いてからサラに声をかける。
「ビールは、あまり好きじゃない?」
サラはあまり食べていないようで、テーブルの上の取り皿には料理が山盛りのままだ。グラスには薄い黄色の飲み物が半分ほど残っている。
パーティはあまり盛り上がってはいなかった。久々の新人だったけれど、みんな心から歓迎という雰囲気ではなかった。十三は、不吉な数字だ。
「初日から騒がしくしてごめんなさいね。まだ慣れてないのに、こんなに騒がしいと疲れちゃうんじゃない?」
サラはうつむいたまま黙って首を振る。
私はもう一杯ビールを注いでそれも一瞬で飲んでしまった。酔っているときだけは、頭がはっきりとすることにずいぶん前に気がついたので、それ以来こういう場では積極的に飲むようにしていた。翌日はひどい気分になるが、仕方のないことだ。
案の定、頭の回転が飛躍的に良くなっていくのを感じた。舌の滑りも良くなっている。
「けどこれもあの子なりの気遣いなのよ。わかってあげて」
サラはすぐにうなずく。ふと入口の方に目を向けると、エミリアがヴェルテの腕に抱きつこうとしてかわされているのが見えた。
「緊張するなとは言わないわ。だれでも知らない場所に来れば体が固まるものだから。ゆっくり慣れていけばいいから。少なくともここは安全よ」
結束していれば、基地の中はこの世界のどこよりも安全な場所だと、私は信じている。ここには仲間も大勢いる。だれも私たちに手出しできない。
「あなたがいままでどんなところで、どんな風に暮らしてきたのか私たちのだれも知らないし、無理に聞き出そうとは思わない。だれだって人生で、いやな記憶をいくつも抱えているものだから」
たとえばニコラのお父さんは訓練中の不慮の事故――記録ではそうなっている――で死んでしまったし、エリーには病気の幼い弟がいて治療のために家族はいつも貧乏だ。クリスティーヌのお父さんは詩人だったけど警察につかまって投獄されてしまったし、ヴェルテもなんだか訳ありのようだ。だっていくらなんでも十四歳からこんなところにいるなんておかしい。
私だって両親が死んでからは、いまとは比べ物にならないほど暗い日々を過ごしてきた。不幸自慢をしたいわけじゃない。ただここにいる子たちはみんな何かしらの過去を抱えている。だれも特別じゃない。この国で魔女が普通に暮らすっていうのは、夢物語と同じだ。夢は夢だとわかるから楽しい。
「ただ何か話してもいいことがあれば、私でも、ニコラでも、ケイトでもエミリアでも、だれでもいい、話しやすいだれかに話してくれると嬉しい」
サラはずっと黙ってうつむいていて、少しも顔を上げてくれない。
私ばかりしゃべりすぎたかな。そろそろ退散した方がいいかもしれない。
「とにかく、今日は楽しんで。私はどこか……、その辺に行くから」
「私は……」
私が椅子から立ち上がりかけたとき、サラが小さな声でつぶやいた。
「私は、お酒が飲めません」
思いのほかはっきりと、彼女は言い切って、ほんの少しだけ顔を上げて私を見た。青みがかった黒い目には、不安と一抹の決意が込められているように見えた。私は椅子に座り直した。
「それはまあ、個人の好みだから……」
「ちがうんです」
サラは今日いちばんの強い口調で否定した。何かためらっている様子だった。私は彼女の決心がつくまで黙っていることにした。
それから一分か二分の沈黙の間、サラは目をきょときょとと小刻みに動かしていた。深くため息を吐く。それから拳を握りしめてようやく、
「私は、その……ユダヤ人、なんです……」
と言って、トゥーフロックの胸元を指で引っ張った。上着の下、ライトブルーのシャツの胸のところに、黄色い(、、、)星型(、、)の(、)バッジ(、、、)がついているのがはっきりと見えた。
「そう……、そうなのね」
言いながら周囲を確認する。だれも私たちに注目している様子はない。
体からどっと力が抜けるのがわかった。
サラが言い淀んでいた理由はわかった。この異常な怯えようも納得がいく。
ユダヤ人で魔女。危機的状況だ。
「司令はそのことを知ってるの? もちろん知ってるわよね?」
サラは小さくうなずく。それならいい。
「他にはだれが知ってるの? ここに来てからだれかにそのことをしゃべった?」
つい早口になってしまった。幸いなのは、小声になる程度にはまだ理性が働いていたこと。なるべく早くこの話を終わらせたかった。他のだれに聞かれるのも好ましくない。
「いいえ、司令さんと……隊長さんだけです」
「そう……。それならいいわ」
私は一応の安心を得て、一息つこうとグラスを手に取ったが、空っぽだった。あきらめて、空のグラスを置いてから、彼女に顔を近づける。
「くれぐれも、このことは内密に」
「はい……」
これはかなり大変なことになった。速やかに対策を考える必要がある。けれど私に何ができるだろう。これはおそらく、私個人に対処できるような次元を超えている。
そう考えてからサラに向き直る。
「だいじょうぶ、心配しないで。うちにいる限り、みんなが全力であなたを守るから」
なるべく力強く言って、彼女の頭を撫でた。少しでも勇気づけたかった。彼女の頭はまるで子どものように小さい。
フランスで殺した魔女も、これくらい小さな頭をしていたな。ふと、そんなことを思った。あの魔女はいくつぐらいだったのだろう。少なくとも目の前のサラよりも年下には見えた。
そこまで考えて、やめた。考えても意味がない。
「どうしてそんな大事なことを私に言ったの?」
司令は彼女の経歴を書類で知っているだろうから仕方ないにしても、私に言う必要はなかったはずだ。無理には聞き出さないとさっき言ったばかりだし、隠していても別に怒らない。だれにでも秘密があってしかるべきだ。
「ここならだれも……、私を区別したりしないと、司令さんに、聞いたので……」
司令の言いそうなことだった。軍人らしくない、立派な大人が言いそうなこと。
そんなことを言う人物は、彼以外には知らない。
そこまで考えて、そういえばフランスで会った少尉も似たようなことを言っていたかもしれないと思い至った。
思い出そうとしてみるけれど、そろそろアルコールが許容量を超えてきそうだった。頭がぐらぐらと地震のように揺れる。まだ意識がはっきりとしているうちに、彼女をみんなにちゃんと紹介しないといけない。
「改めて、よろしくね。私のことはシャーロットでもシャーリーでもいいわ。みんな好きに呼んでるから」
「よろしく……おねがい、します。……シャーリー、さん」
色々と、解決できない問題ばかり増えていく。だけどそれはサラに課すべきことではない。それは私の問題だ。
内心で気を引き締めると、サラを立ち上がらせて、きちんと紹介するためにみんなの元に連れて行った。
サラの歓迎会をした翌朝、司令を訪ねた。扉をノックするとヴェルテが開けてくれて、中に入った。ヴェルテの背はいつの間にか伸びて、もう私を大きく追い越していた。
司令は朝食の最中だったが、特に気にする風でもなく私を招き入れた。執務机の上にはライ麦パン、ソーセージ、チーズなどが並んでいて、マグカップから濃い色のコーヒーが湯気を立ち昇らせていた。
「どうしたんだねシャーロット。こんな朝早くから」
司令は言いながらコーヒーを啜る。その苦々しい匂いを嗅ぐと胸がむかむかしてくる。二日酔いの頭にくるものがある。
頭痛をこらえながら司令の正面に立つ。
「サラのことでお話があります」
司令のこめかみが一瞬震えたのを私は見逃さなかった。司令はいたって冷静な仕草でマグカップを机に置いた。
「彼女から聞いたのかね」
「はい」
「そうか……。もう少し時間がかかると思っていたが……」
司令はそう言うと何度か小さくうなずいた。それから顔を上げると部屋の隅に立っているヴェルテに向かって言った。
「ヴェルテ。すまないが少し席をはずしてくれ。彼女とふたりきりで話がしたい」
「わかりました」
「ふたりではありません。ケイトとニコラもここに呼ぶ必要があります」
「何故だね?」
司令はパンを手でちぎりながら言う。
「ふたりの知恵が要るからです。私だけでは不足です」
「ふたりは口が堅いか?」
「私が保証します」
司令は少し考える素振りを見せたが、すぐに、
「ヴェルテ。ふたりを呼んできてくれ。この時間なら宿舎か食堂にいるだろう」
「はい、すぐに」
ヴェルテが部屋を出て行くのを見届けてから、司令に向き直った。
「それで、どう思うんだね、シャーロット。彼女のことは」
「司令はサラがユダヤ人だと知ってここに呼び寄せたんですか」
「別に私が彼女を呼んだんじゃない。彼女がここを選んだんだ」
「しかし許可されたんでしょう」
「断る理由もないだろう」
司令は頭を掻いた。私は内心、何故だかわからないがイライラしていた。
「それとも断った方が良かったか?」
もちろん私は答えない。それは私には決められないことだ。しかし一言くらい相談があっても良かったとは思う。
ケイトとニコラはすぐにやって来た。ヴェルテには部屋の外にいてもらい、二人は部屋に入ると私のそばに並んで立った。二人ともまだ少し寝ぼけているようだったが、私と司令の間の微妙な空気を感じ取ると、背筋を伸ばしてそれなりにしゃんとした。
「朝早くからごめんね。どうしても二人にも聞いてほしいことがあって」
「別にいいですけど。朝ご飯の途中だったから、なるべく手短に澄ませてもらえるとありがたいですね」
とケイト。
「右に同じ」
とニコラ。
「じゃあ前置きはなしに、さっそく本題だけど。……サラはユダヤ人よ」
二人の反応を待った。が、二人は大きなあくびをしただけで何も言わなかった。
「……驚かないの?」
いささか拍子抜けしてそう言うと、ニコラが、
「知ってたから。ベルリンの部隊の子たちから聞いてたし」
「そうなの?」
「第111小隊に、サラと教育隊で同期だった子がいてね」
「ふぅん、そう……」
半分感心、半分呆れながらつぶやくと、ニコラは私が拗ねているとでも思ったのか笑って、諭すような口調になる。
「ちょっとしたコネがあるのよ。こればっかりはだれにも教えられないけど」
「そういうことを私の前で言うのはいかがなものかな」
司令が意地悪っぽく口をはさんだが、ニコラは気にする素振りもなく、
「司令は私の諜報活動をご理解されていると思っていますので」
わざとらしく笑みを浮かべて平然と言い切った。司令は苦笑してそれ以上何も言わなかった。
「ケイトは? ケイトも秘密の情報網とか持ってるの?」
私はニコラを横目で睨みながら言った。ニコラがそんなものを隠し持っていたなんて知らなかった。どうやって国内に散らばる魔女部隊と連絡を取り合っているのかは気になっていたけれど……。
「いえ、そんなものはないです。でも見てたらわかりますよ。特徴的なあのくりくりした髪の毛に、肌が白いのはまあいいとしても……。なーんか、気になるなって、昨日会ったときから思ってたんですよ。まあ、決め手は名前ですね」
「名前?」
「サラ・ポートマン。姓にマンが付くのはユダヤ人に多いんですよ」
「あくまで多い、ということに過ぎないがな」
司令が言った。ケイトはうなずいて、
「そうですね。でもサラのあの怯えようは尋常じゃなかったし、ベルリン出身ということだったので、何か訳ありだろうなとは思ってました」
「目ざといのね……」
私は本人に言われるまでぜんぜん気づかなかったのに。ただの臆病な子だと思っていた。臆病な子は珍しくはないから。
「それで、私たちを呼んだのは、彼女をどうするか、ということの相談ですか?」
ケイトが言った。ケイトはおそろしく冷たい気をまとっているように見えた。
「私は別に、なんの問題もないと思うがね」
「何もなければそれでいいんです。ただ、何かあったとき、彼女をどうすることが最善なのか、決めておく必要があると思ったんです」
一晩考えたことだ。サラは弱い。だれかが守ってあげなければ、かんたんに墜落してしまうだろう。けれど私たちも、他人を抱えて飛べるほどには強くない。
「彼女はどうしてここに来ることを希望したんですか。ベルリンには111小隊と122小隊がいるじゃないですか」
ドイツ国内にはぜんぶで十二の魔女部隊が存在している。そのなかでもベルリンの111小隊と122小隊は首都防衛の一翼を担っている。魔女部隊の中でも花形で最大規模だ。二つの小隊には五十人近い隊員がいるはずだ。ここよりもよっぽど都会だし、あそこには教導部隊もいる。ここよりもよっぽどベテランの魔女が配置されている。希望すれば、よっぽどの理由がなければ通るはずだ。
「本人に訊けばいい。答えてくれるはずだ」
「それができないからこうしてるんです」
それは最後の手段だ。隊長命令で聞き出したって意味がない。昨日みたいに自分から言ってくれるならまだしも。まだサラとはそこまでの関係じゃない。
「いまベルリンがどういう状況か、ニコラはよく知ってると思うが」
ニコラを見ると、苦い笑みを浮かべて黙っている。
「知ってるのニコラ。お友だちから何か聞いてるの?」
「ええ、まあ。でも、いいのかな……。これはサラのプライベートにも関わることよ」
「プライベートで小隊が危機に晒されるなら、そこを侵してでも小隊を守るのが私の役目よ」
ニコラはまだ納得していない様子で黙っている。
「知ってるなら、教えて」
強い口調で迫ると、彼女はしぶしぶ口を開いた。
「わかった。……入隊希望者には、当然身分調査をしますよね。生年月日や家族構成、本人がどういう学校に通ってどういう教育を受けていたか。反国家的思想を持っていないかとか、血縁者に犯罪者はいないかとか、そういうことを。それによると彼女は、代々ユダヤ系の家系で、両親も祖父母も熱心な信者で、彼女自身はそうでもなかったようなんですが、ともかくガチガチのユダヤ人なんですよ」
ニコラがどうやって彼女のそこまで詳細な経歴を知っているのかは、この際訊かないことにした。
「よくある話じゃない」
別に珍しいことではない。
「そこまでならそうね。ただ、サラは基幹学校を十五歳で卒業したあとに二年間の空白があるの」
「空白?」
「ええ。どうやら父親が反政府運動をしていたらしく、身を隠していたとか。だから二年間各地を転々として、三か月前に突然ベルリンに戻って軍に志願したみたいなんです」
「……ちょっと待って。それならふつうは、入隊審査のときにはねられると思うけど。下手をすればその時点で投獄もありえるわよ」
「けれど彼女はこうやってうちの部隊にいます」
考えをめぐらす。たしかにサラは今年十七歳になったばかりだと言っていた。基幹学校の卒業は十五歳。私も十五歳で軍の門を叩いた。ニコラの情報に間違いがあるとも思えない、サラ自身が言ったことと符合する。
学校を出てから彼女は、空白の二年の間に何をしていたのか。
そんなのは考えるまでもなく明白だ。
たぶん、何もしていなかった。父親が反政府運動の運動員だったなら、政府の目から逃れるために家族とともに国内を逃げ続けていたとしても不思議ではない。
けれど、父親が活動家だからって娘もそうとは限らない。問題は、どうしていまさら彼女が入隊できたかだ。
「サラ自身にやましいことは何もないと思うわ」
「私も、そう思う。あくまで私の主観に過ぎないけど、彼女にそんなことができるとは思えない」
ニコラが同意してくれた。ケイトを見ると、彼女は黙ってうなずいた。
「……サラの家族がどうしているか、君は知っているか?」
司令の言葉にニコラは首を横に振った。
「そこまでは……」
「最初の質問に戻ろう。ベルリンがいまどういう状況にあるか、君は知っているか?」
司令は顔から一切の感情を排していて、まるで大理石でできた彫像のようだ。
「……内務省や親衛隊が、人間狩りをはじめている、と聞いています」
「人間狩り?」
聞き慣れない、それでいて不穏な単語に私は訊き返した。ニコラはうなずくと、ベルリンの魔女から聞いた話だと前置きをしたうえで、ゆっくりと話し出した。
「前々から、国内のユダヤ人や外国人がどこかに移送されているという話は聞いていました。けれどベルリンの部隊の方も基地の外に自由に出られるわけじゃない。彼女たちは私たちとちがって偵察なんてしませんから、ずっと基地の中にいるので市街の様子なんかはほとんどわからないままで……」
そのとき扉がノックされて、私は思わず身構えた。ニコラは言葉を切った。
「失礼します」
ヴェルテが部屋の中に入ってくると、私たちの視線を一身に受けてたじろいだ。
「あの、コーヒーを、お持ちしました」
そう言う彼は手に丸いお盆を持っていて、白いマグカップが四つのっている。
「ありがとうヴェルテ。しばらく休んでいていいよ」
司令はにこやかに笑った。ヴェルテはマグカップをみんなに渡すと部屋を出て行った。
「それで、なんだったかな」
一口飲んでから司令が言った。苦く香ばしいにおいが部屋中に広がっていく。
「……ベルリンの部隊は、基地から出ることができませんし、外に出向く必要のある任務なんてものは何一つとして彼女たちには与えられていません。ただ彼女たちは、ある日気づいたんです。街が異様なまでに静かなことに」
「ベルリンで魔女部隊の基地と言えば、市街地の中心部からはかなり離れたところにあるはずだろ? それなら静かなのはフツーなんじゃないの? ここみたいにさ」
ケイトがコーヒーをふうふうと冷ましながら口を挟んだ。
「離れてるって言っても、こんなド田舎じゃなくて、あくまで中心部から離れてるってだけだから、都市の中に基地はあるの。それに基地のそばにはあれがある」
「あれ?」
「ゲットー。ユダヤ人用と産革移民用の巨大なやつ」
私が言うと、ニコラがうなずいた。
「その通り。基地のそばには数万人のユダヤ人と、少なくとも五千人以上の産革移民が暮らすゲットーがある。――ベルリンの彼女たちは気づいた。市民が寝静まった夜とはいえ、いくらなんでも静かすぎる。何かおかしなことが起きている予感がする、と」
「魔女の勘っていうものはよく当たるのかね」
司令が言ったので、私は手を広げて肩をすくめた。
「それで?」
ケイトは恐々と熱々のコーヒーを飲む。猫舌なのでなかなか苦戦している。
「それでベルリンの魔女はどうしたんだ?」
「脱走した」
「はあ?」
ケイトが間抜けな声を出してニコラを見た。私も目を見張った。反射的に司令を見たが、彼はコーヒーに集中していた。
「脱走したの。と言っても、どこかへ逃げ出すわけじゃなくて、街を見に行くためにね」
「そんなこと、ここで――」
ケイトがちらと司令の方を見た。司令は特に驚いた様子もなく、
「私のことは気にしなくていい。ここで聞いたことはだれにも話さない、約束しよう。なんなら一筆書いてもいい」
「続けるわよ。基地の夜間哨戒の時間も、歩哨のだれがいつどこでサボっているかも知っている彼女たちは、部隊でひときわ注意深くて小柄な子を選抜して、ある日の夜更けに宿舎の窓から外に出した。基地の周りには金網や高い石塀があったけど、そんなもの魔女にはなんの意味もないしね。箒に跨った少女はそれらを軽々と飛び越えて、基地の外に出た。そのまま彼女はすぐそばの、数万人が暮らしているはずのゲットーに向かった。とっぷりと夜の闇に包まれたゲットー上空まで来て、彼女は愕然とした。街は静かすぎたし、暗すぎた。そこには建物だけがあった。だれもいなくなった家々だけがかつてにぎわっていたときそのままに残されていた」
「夜中だから静かなのは当たり前じゃないの?」
ケイトがおそるおそる言った。ニコラは首を振って否定する。
「彼女はちゃんとたしかめたそうよ。危険を冒してまで路地裏に降りて、家々の扉を叩いてみた。やっぱりだれも出なかった」
「たんに起きなかっただけかもしれないし、留守にしていたのかも。もしくは夜中の訪問者を警戒して扉の向こうで様子をうかがっていたとか」
「百軒もの家ぜんぶで?」
ニコラが言うと、ケイトは愕然として黙ってしまった。
「向こうでも、念のために三日続けて、別々の子にゲットーを調べさせたそうだけど、結果は同じ」
「よく見つからなかったわね……」
ケイトが驚きと呆れを混ぜ合わせた顔で言う。
「だれも彼女たちが逃げ出すなんて考えてないんでしょう。事実彼女たちは外に出たけど朝までには戻って来た」
「彼女たちが嘘をついている可能性は?」
私が訊くと、ニコラは素直にうなずいた。
「それは否定できない。けどいまわかっていることは、ゲットーにはだれもいなかったって三人分の証言があることと、私たちにはそれをたしかめる術がないということ。もちろん、彼女たちが嘘をついているかどうかをたしかめようもないことも。けれど彼女たちが嘘をつく理由が何かある?」
「人間は理由もなく嘘をつくことのできる生き物だ。だがそれはいま問題ではないな」
司令が静かに言った。
「いま重要なのはそのゲットーの消えた数万人と、サラとの関係だが……。察しのいい君たちならもうわかっているんじゃないか?」
見ると、ニコラもケイトも考えの行きつく先は同じようだった。たぶん私も。
「その消えた数万人の中にサラの家族も含まれていた」
「おそらくそうだろう。数万人の行き先についてもわざわざ言う必要はないな」
「それなら、身元がバレているのに彼女が入隊できたことはどうなんですか?」
ケイトが言った。それにニコラが答える。
「それは、私たちと同じじゃない? 軍にとって価値がある存在だから、いまのところ生かされているだけ。籠の中の鳥と同じ。飽きたら捨てられる愛玩動物よ」
「ただサラの場合は私たちよりナイーブな存在だと思うわ。彼女はユダヤ人で魔女、両手に花状態なんだから」
私が皮肉を込めて言うと、みんな黙ってしまった。
気まずい沈黙。
カップの中を見つめていた司令が口を開く。
「それで、シャーロットはサラをどうするつもりだ? もし親衛隊か、内務省の連中が彼女を連行しにやって来たら、君はどうする?」
その声には冬のアスファルトのように他者を拒絶する冷たさがあった。いますぐに回答を要求されている。ニコラもケイトも私を見ている。
「もしあの狂った連中が、サラを収容所に連れて行こうとしたら――」
「全力で阻止します。好きなようにはさせません」
自然と言葉が口をついて出ていた。それ以外の選択肢は頭の中に欠片も存在しなかった。
「彼女は私の小隊に来ることを望んで、私も受け入れました。一度迎え入れた以上、彼女は仲間です。仲間を見捨てるようなことを、魔女はしません」
彼女を見捨てるということは、私がこれまで守ってきたものを捨てることだ。
司令は私の答えを聞くと無言で手招きした。執務机に近づくと、机の引き出しの中から鈍い銀色の塊を取り出して机に置いた。いつぞや見たことのあるモーゼルだ。
司令は装弾されていることを確かめると、銃身を握ってそれを差し出した。
「君にこれを預ける」
「私に?」
意味がわからないままに受け取ると、手のひらにおさまるほどの大きさで、ルガーよりも軽い。眺めて見ると傷一つなく、ほとんど新品のようだ。まるで使われた形跡がない。
「私にはもう必要ないものだ。銃とは何かを成し遂げようとする人間が使うものだ」
司令はそう言うとさびしそうに笑った。私には何故だか、それが別れの前の表情に見えた。
「いつサラ目当ての人さらいが来るかわからん。そのときがいつ来てもいいように彼女を鍛えてやってくれ。せめて自分の身を守れるくらいにはな」
「了解です。早速今日から訓練を行います。武器庫の鍵をお借りしても?」
「かまわんが、どうするんだね?」
「射撃訓練をします、彼女だけでなく小隊全員で。小銃を十三丁お借りします」
ニコラが顔色を変えてはじかれたように私の方を向いた。
「ちょっとシャーロット!?」
「なに?」
「どういうつもり?」
彼女は冷静さをなんとか保とうとしているようだった。頬が少し赤くなっている。私は彼女の睨むような視線を受け流しつつ答える。
「どうもこうもない。事態は動きつつあるのよ。あなたがお友だちから聞いたことがぜんぶ――ぜんぶじゃなくてもだいたいで充分だけど――本当のことなら、うかうかしていられないわ」
「どういうこと?」
ケイトが口を挟んだ。彼女はまったくなんのことだかわからないという顔をしている。
「いい? これは新しい戦争よ」
私は小さい子どもに教えるように懇切丁寧に説明した。
「ベルリンのゲットーが空っぽになったってことは、そこにいた人たちはどうにかされてしまったってことでしょう。そこにいたのはユダヤ人か産革移民で、政府に目をつけられている種類の人ばかりだった。それなら、彼らと同じ系譜の私たちだって例外じゃない。そう考えるのが自然じゃない?」
「じゃあ次に狙われるのは私たちってこと?」
「絶対にないとは言い切れないでしょ」
「軍にいるのに?」
とケイト。ニコラは私たちのやり取りを厳しい目つきで見ている。
「軍にいるからこそ、ってこともあるわ。何か不都合なことがあれば、私たちのせいにされかねない。そんなときに、だれも守ってくれないわよ」
自分の身は自分で守るしかない。
もう私たちは大人なんだから。心とは関係なく、社会的にはそうみなされている。
「……いやいや、そんなことはないでしょ、さすがに。ねえ?」
ケイトは半笑いで否定した。私は真顔で、
「……だから?」
と言い返す。ケイトの顔がみるみる青白くなっていく。
「え、マジ……、ですか?」
ケイトは私とニコラの顔を交互にたしかめて、さらには司令の方も見た。だれも何も言わないので、それで察したようだった。
彼女は深いため息をつくと、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「……軍に入れば作戦で死ぬ以外は大丈夫だと思ってたのに……」
「ていうか、ここでそんなこと話して大丈夫なの?」
ニコラは横目で司令の方を見ながら、小さな声で言った。いまさらそんなこと。司令を見ると、優雅にコーヒーを飲んでいる。
「私のことは気にしなくていいと言っただろう。私は何も聞いていないし、何も言っていない。私はここにはいなかった」
そう言うとくるりと椅子を回転させて窓の方を向いてしまった。
「とにかく、ニコラはベルリンのお友だちに、いま私が言ったことを伝えてあげて。あくまでも私の想像でしかないけど、何かあってからでは遅いから。たぶん信じてもらえないだろうから、念を押してね」
「わ、わかった」
「すぐよ。急いで!」
「了解!」
ニコラが部屋を出て行く。扉が閉まって、沈黙が部屋を包み込んでも、ケイトはまだしゃがみ込んだままだ。
「ケイト」
返事はない。肩を揺すぶっても、ため息とも唸りともつかない吐息が出るだけ。
「ケイト立って」
彼女は顔を上げようともしない。深く気を落としているようだ。何をいまさら。少しでも頭を働かせれば、これくらいのことは想像できたはずなのに。
彼女の肩に置いた手に力を込めて、そのままぐっと押した。ケイトはあっ、と言う間もなく後ろに倒れて尻もちをついた。それでようやく顔が見えた。
「ケイト、まだ何も起きちゃいないわ。これは準備よ」
「隊長……」
頼りになる隊長、というものを頭の中に思い浮かべながら彼女に言った。心からの言葉だけでは、とてもケイトを励ませそうにはなかった。都合よく偽る必要があった。
「準備を怠ればいざというとき何もできずに死ぬだけよ。――でもきちんと備えていれば、どうにかなるかもしれない」
「そ、そうでしょうか……」
ケイトはよろよろと立ち上がった。
「落ち込むにはまだ早いわ、やるべきことはまだたくさんある。まずは訓練よ。いまいる全員を第四格納庫の裏手に集めて!」
毅然とした態度でそう言うと、ケイトは姿勢を正して敬礼した。
「りょ、了解です!」
「ほら走って走って!」
追い立てると、ケイトは騒々しく廊下に出てバタバタと走っていった。足音が聞こえなくなると、私は司令に向き直った。司令は依然として窓の外を見ている。今日の空は真っ青な快晴で、綺麗だ。
「司令」
「……なんだね?」
「実際のところ、どう思われますか」
司令は長く沈黙していた。あまりに長すぎるために、彼は私の質問を忘れて眠ってしまったのかと思った。
「彼らはやって来るよ。それだけはまず間違いない。いつ来るかまではわからんがね。親衛隊とはそういうやつらだ。病的なまでに主義だの主張だのというやつを信じている。妄信だ、狂気の罹患者だよ」
「司令が私たちをかばう意味がわかりません」
「なんだって?」
司令は椅子を回転させてこちらを向いた。意表を突かれたような顔をしている。
「ふつうであれば、私たちがいると迷惑なはずです」
「馬鹿馬鹿しい。だれがそんなことを――」
司令ははたと言葉を切って、口をつぐんだ。私は彼のやさしい反応が嬉しかった。
「いいんです、知っていますから。私たちはどうしたって歓迎されていませんから」
どうやったって、この事実は覆せない。何十年、何百年という単位で形作られた意識は、最低でもそれと同じだけの時間をかけなければ覆すことはできない。私の命の長さでは、到底たどりつけない領域の事柄だ。
「私は君たちの味方だ」
出し抜けに言われたので、すぐに反応することができなかった。いたって真面目な顔つきで、司令は机に肘をついて顔の前で指を組んだ。
「私は君たちがかわいそうだ。それと同時にかわいくもある。生きていれば私の娘も君たちと同じ年頃だったからかもしれない」
司令から家族の話を聞くのははじめてだった。だれかの噂だと、司令には家族がいないということだった。
「私は、親衛隊が憎い。ナチスが憎い。この国が憎い。この国は病巣だ、癌だ。毒を持った細胞が暴走しこの大陸全土を侵食しようとしている」
司令は自身の中の憎悪を静かに燃え上がらせながら穏やかで強い口調で言葉を紡いでいく。司令のはじめて見る一面に鼓動が早くなるのを感じた。
「私はただ、連中がひとり残らず駆逐されてしまえばそれでいいんだ」
「だから私たちの味方をしてくれるんですか?」
司令は頭を振った。
「それもある。だがそれだけではない。君たちのような純粋な少女が苦しむところは見ていられない。私は勝手に君たちを守る気でいるだけだ。老人のたわごとだと思って聞き流してくれたまえ」
司令はそう言うと背もたれに体を預けて天を仰いだ。老練な軍人の気迫のようなものは消え去っていて、そこには年老いた男がいた。
私は胸の奥から湧き上がる熱い何かを感じていた。それはせきとめなければ溢れ出しそうなほどの勢いを持っていた。
手に持ったマグカップの中を見る。黒々とした液体が満ちている。すっかり冷めきってしまったそれからは、何も嫌な感じがしなかった。私はマグカップの縁に口をつけて、一息で胃の中に流し込んだ。
すべて飲み干して空になったマグカップを司令の机の上に置いた。司令は呆気にとられている。たかだかコーヒーを飲んだくらいで大げさだ。
「ごちそうさまでした。それと、ありがとうございます」
「ああ……、お粗末さまでした」
私は司令に背を向け、一歩を踏み出した。希望と絶望が私の中でせめぎ合っていて、複雑な心境だった。
基地の南側の端っこにある第四格納庫の横手にみんなを集めた。滑走路を挟んだ向こう側に的を置いて、とにかく撃ってみた。小銃は整備こそされていたものの、司令にもらった銃と同じようにほとんど使われた様子がなかった。前線基地と言っても、歩兵の出番などないに等しい。弾も腐るほどあった。
ただ小隊のほとんどの子は満足に銃を撃った経験のない子ばかりだ。訓練期間に少し触ったことがあるだけで、携帯しているルガーP08さえも整備点検のときくらいしか触ったことがないという有様だった。
フランスを占領したことでシュランベルク航空基地は最前線ではなくなったから、時間は十二分にあった。前線に召集されることもなく、隣接するフランスはすでに敵国ではなく、形式的に国境線沿いの哨戒飛行は続いていたが、そこは以前と同じように敵にも味方にも出会わないさびしい空だった。
ニコラはやはり小銃訓練をすることに否定的なようだったが、黙って訓練教官を務めてくれた。しかし……。
「これは……まあ……」
「ひどいね」
私とニコラはそろってため息を吐いた。目の前ではひいひいと情けない声を上げている少女たちを、年長のケイトとクリスティーヌが腕を振りまわし喉を嗄らさんばかりにしごいていた。
最初、肩慣らし程度に三十メートルの距離から始めた訓練は、いまや十メートルまでになっていた。弾は的に当たらないどころかかすりもしなかった。三十メートル先の的に当てたのは私を含めた教官役の四人だけで、他のみんなは的との距離が十メートルになってもろくすっぽに当てることができない。
「やっぱりスコープをつけた方が良かったんじゃない?」
私は手に持ったカラビーナーを持ち上げてみせた。銃身の上に、フランス遠征時にはあった四倍率スコープがない、スタンダードな状態だった。武器庫にはそれも全員分あったが、ニコラはそれを持ってこなかった。
「いや、まずは基本をちゃんと覚えないと。便利な道具に頼るのはそれからだよ」
「それもそうね……」
……しかしいくらなんでも……。これは弾の無駄じゃないだろうか。
「エミリア! 何度言えばわかるんだ! 脇を締めろ! 空いている腕で銃身を支えろ! 撃つ瞬間に目をつぶるな!」
「はいぃぃいい……!」
ケイトが威嚇するように握りこぶしを頭の上で振りまわして、エミリアに檄を飛ばしている。エミリアは涙目になって、パンパンと引き金を引き続けているが、弾は的とは関係のない方向に飛んでいくばかりだ。
私を含めた教官役の四人と、午後の哨戒に行ったジェシカとナタリーを除く七人の女の子たちが、いまは訓練に励んでいる。立ち撃ちの姿勢で七人が一列に並んでひたすらに撃ちまくっている。しかし的にまったく当たらないので、意味があるのかはよくわからない。
「足は肩幅より広く開けよ!」
「銃床はちゃんと肩に当てて! 軸がブレるわよ!」
ケイトとクリスティーヌが七人の後ろをうろうろしながら叫んでいる。
「左手で銃身を支えるんだ! バランスを取って具合のいいところで持たないとしんどいぞ!」
「肘を遊ばせないで! 全身を使って的を狙いなさい!」
「引き金引くのは指一本あれば充分だ! 他の指は銃把に絡めろ!」
「銃床に頬をくっつけないとちゃんと狙えないわよ! キスしなさいキス!」
「エリー! おまえは左利きだろう! 利き手で銃身を持ってどうする!」
「リリアーヌ! 弾が切れたらすぐに弾込め! ぼさっとしない!」
「コリーン! 肩に力が入りすぎだ! 初夜じゃあるまいしもっと楽にしろ!」
「シャンタル! あなたは力を抜きすぎ! 銃を恋人のように扱いなさい!」
「サラどうした! もうへばったか? 的に一発でも当てないと終わらないぞ!」
「シルヴィ! もうサボるの? あと百発撃たないと終わらせないわよ!」
「どこ狙ってんだ! 酔っぱらってんのか!」
「地面に穴でも掘る気? 的はもっと上よ!」
「やめろやめろ! 弾の無駄だ! 当てられないようなら自分の穴にでも突っ込んどけ!」
「撃つよりも近づいて殴った方が早いんじゃない!?」
「弾込める! ボルト引く! 撃つ! 引く! 撃つ! 引く! 撃つ! 六発撃ったら弾込め! この繰り返しだ!」
「頭で考えないで! バカになりなさい! 体で覚えるのよ!」
「バカになるんだバカに! どうせおまえらの頭で考えたって無駄なだけだ!」
「体にしみ込ませるのよ! できるまで銃を抱いて寝なさい!」
「バカ! そうじゃない!」
「バカ! できないんじゃないの! やるのよ!」
「バカ!」
「マヌケ!」
「アホ!」
「バカ!」
…………色々とひどい。ちょっと止めた方がいいのではないだろうか。
「ちょっとニコラ、あれ……」
隣に立っているニコラを見ると、苦笑しつつも腕組みをして動く気配がない。
「うーん、まあ、いいんじゃないかな。言ってることは間違ってないし」
「でも……」
「こういうのって、ある程度は反復練習で身につくから、まあ一週間もあればそれなりになるでしょう」
「そういうものかな」
目線をみんなの方に戻す。怒声と泣き声が飛び交っている。
的を狙うことで、ある程度銃の扱いには慣れるだろう。
ただ、本番では的は動く。ましてや、向かってくることもある。
それに、的は生きているのだ。
赤髪の女の怒気を孕んだ目を思い出す。逃げていった魔女のおびえた目がよみがえる。
死んだ少女の暗い瞳。
そういうものを一度経験すれば、もう、ためらうことの無意味さを知ることができる。
戦場では、敵は、撃たないといけない。
撃たなければ、こっちが死ぬから。
そんな当たり前のことでも経験しないとわからない。
「それより、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
ニコラの顔から笑みが消えていた。真面目な顔つきの彼女は、怖いくらいに美しい。
「……なに?」
とてもいやな予感がした。直視することができず、私は訓練する魔女たちを見つめながら言った。
「フランスでのことだけど。どうしてあのときクリスティーヌたちをいちばん上に置いたの?」
ついに来たか、と思った。顔を覆いたくなる衝動を抑えて、気だるい風を装って答える。
「別に、たいした意味なんてなかったけど。ただあの状況ではああするのが最適だと思ったから。あなたも何も言わなかったじゃない」
「そうだけど、どうにも引っかかることがあったの。しばらくそれが何かわからなかったけど、このあいだやっとわかった」
一年以上もそのことについて考えていたことに感心した。
そこまで言うと、ニコラはズボンのポケットから紙巻き煙草の箱を取り出して、口にくわえた。差し出してきたので、一本もらう。彼女はマッチで火をつけて、ついでに私にもつけてくれる。煙草はコーヒーと同じくらい苦手だけど、こういう場面での社交の道具としては嫌いじゃない。
私は火のついた煙草をしばらく指の間に挟んで、紙の中の草がじりじりと燃えていくのを眺めた。ニコラはふーっと、唇をつき出して白い煙を吐き出す。独特のにおいのする煙が辺りに漂う。
「あなた、彼女たちに同士討ち(、、、、)をさせたくなかったんじゃない?」
当たり。そう思っても表には出さない。
ニコラははっきりした口調でそれだけ言うと、あとは黙って煙を吐き出し続ける。私も無言で前だけを見ていた。
長い間そうやっていたが、私はニコラを納得させられるだけの上手い言い訳を思いつくこともできず、かと言って真実を口にすることはできない。
「なに言ってるのニコラ? そんな訳ないじゃない」
はぐらかすことに決めた。こんなの、ニコラには通用しないことだってわかっていても。他にやりようは思いつかない。彼女たちを守るためなら、嘘くらいいくらでもつく。
「あのときは小隊を三つに分けて、役割分担することで作戦が上手くいくと思ったからそうしたのよ。事実、作戦は上手くいった。だれも失わずに、すべての作戦を全うできた。班分けは……、いちばん経験が薄い彼女たちを上空に置くことでこちらの被害を抑えられると思ったから。上空から俯瞰的に見ることはだれでもできるけど、とても大事な役目だったし、いちばん安全な位置だったから。あなたたちにはいちばん危険なおとり役をやってもらって……、とても感謝しているわ」
一気にまくしたててニコラの様子をうかがうと、彼女は微動だにせず前だけを見つめている。くわえた煙草の白い煙だけが、意思を持つ生き物のようにゆらゆらと立ち昇っている。
「それ本当?」
ニコラが私の方を向いて言った。
「本当よ。他に何があるっていうの?」
ニコラの視線から逃れるために顔を背けて遠くを見ると、一台の車が基地の入り口にとまっているのが見えた。中にだれか乗っているようだったが、ここからではよく見えない。
そこへ、建物の方から小走りで駆けてくる人影が見えた。軍服を着たその長身の男が助手席に乗り込むと、車は道路の彼方へ走り去っていった。助手席に乗り込んだのは、エックハルトだったように見えた。
「ねえ見た?」
私は純粋な質問として問いかけた。
「何を?」
「あそこに黒い車がとまっていて――いまはもういなくなったんだけど――、そこにエックハルトが乗り込んだように見えたんだけど。ニコラ見た?」
「見てない。本当に副司令だったの?」
「たぶん……。背が高かったし……」
ニコラは特に興味を引かれた風もなく、会話はそこで終わった。
射撃訓練の音は間断なく響いていた。