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水没世界のサラマンダー

作者: 綾瀬渚

 世界は緩やかに滅びへと向かっているのだろう。おれが(多分)長い眠りから覚めた時に見えた景色は、見渡す限りを水に覆われて水没した世界で、絶句させるにはじゅうぶんなものだった。

 ああ、なんて美しいんだ。散りゆく間際の儚さほど、輝きは大きく放つものなのだろう。遠くない未来、ぜんぶ消えてなくなるに違いない世界は、まばゆいほどの美しさをこの目に焼き付けさせてくる。

 だけどただひとつだけ、困ったことがある。



 おれは尻尾の火が消えると死んじゃう、哀れな火トカゲだったのだ。



 サラマンダー。

 かつておれは、そんな風に呼ばれていた気がする。

 なにぶん眠っていた時間が長すぎて、まだちょっと頭がぼうっとしている。それが眠りによるものなのか、それとも空気中の水分――つまるところ湿気によるものなのかは定かではないが、本調子でないことだけは確かであった。

 崩れ落ちて残骸となった瓦礫の山。おれが眠りにつく前のこの場所は神殿であったはずだが、今はその面影をわずかに残すばかりになっている。厳かな雰囲気は消え失せて、水平線まで覗けてしまうくらいに見晴らしがよくなっているのだ。

 そんな状況なので、苔むした台座の上で目の覚めたおれはいくぶんかの幸運を持ち合わせていたのだろうと思う。直径で三十センチもない小さな台座だ。もともとここには、おれを封印する宝玉が祀られていたはずである。多少湿ってはいるが、ここは高台となってくれているので浸水からはなんとか免れているのだ。最悪、目覚めた瞬間に乙っていてもおかしくない。寝返りをうっていても危なかった。

 尻尾で燃え盛る炎へ視線を向ける。火種もないのにごうごうと気勢を上げるそれを見て、おれは安心さえしていた。


 全盛期のおれは、尻尾だけで百キロメートルはゆうにあった。それ以上大きくすることもできるくらい地上には火の気が溢れていたが、大きくしすぎると自然のバランスが崩れるからとウンディーネのやつに怒られたのでやめたのだ。

 あの頃のおれはとにかく大きく、大きくなりたかった。腹が減っては火を食らい、『水』も、『風』も、『土』さえも溶かすくらいに熱かった。どいつもこいつもが煙たがっていたけれど、大きくなった火というのはさらに多くのものを巻き込んで大きくなる性質を持っているのだから仕方がない。おれはサラマンダーであったのだ。

 あまりに大きくなりすぎたので、世界のどこからでもおれの姿は見えていただろうし、おれも世界じゅうを見渡すことができた。けれど、プライバシーの侵害であるとウンディーネのやつに怒られたので、小さくならざるを得なかったのだ。

 小さくなったことで圧縮された尻尾の炎は、超高温になっていた。超高温になった火はあらゆる鉱物を溶かすことができたので、おれは彫金細工にハマっていた。溶かすのは簡単なのに、成型するのはトカゲであるおれには難易度が高かったが、老化とは無縁のおれである。時間だけは無限にあったおれは、大地のいたる金属や土を溶かしては固めて遊んでいた。あるとき、ノームが半泣きになっているとウンディーネのやつに怒られたので、溶かして固めたものだけを溶かしてまた固めるということを繰り返すことを余儀なくされた。

 そんなもんすぐに飽きるに決まっていた。しかしながら娯楽にハマることを覚えたおれは、もう退屈に耐えることができなくなっていた。でももう、何かをするたびにウンディーネのやつに怒られるというルーチンが完成していたので、ストレスのあまり尻尾の火がどんどん小さくなっていったのである。


 尻尾の火が消えると、サラマンダーは死んでしまう。


 ウンディーネも、シルフも、ノームも、そんな弱点はない。精霊は燃やしたって死なないのだ。なのにおれだけは、尻尾の火が消えただけで死んでしまう、哀れな火トカゲだったのだ。


 おれは怖くなっていた。いつか消えてしまう未来がリアルに感じられて、怖かったのだ。

 気づけばおれは小さく縮こまり、尻尾の火を守るように丸まっていた。



 ウンディーネのやつは……何も言わなかった。



 おれはただ、自由気ままでいたかった。

 水は流れ、風は吹き、土は育む。

 ならば火は?

 そう問われたときに、答えを持ち合わせたくはなかった。自分で自分の役割を、決めてしまいたくなかったのだ。

 やりたいことをして、生きたいように生きる。いつ死んでしまうかもわからないと自覚してしまったから、自由を求めていたのだ。

 なのに、おれが自由に生きることっていうのは、ほかのいろんなものに迷惑をかけるだけだったのだ。

 

 おれは――自分が消えてしまうのではないかと、怖かった。

 けれどそれと同時に、いっそのこと消えてしまいたいとすら思っていたのだ。


 おれを封印したのは、おれ自身だ。

 宝玉の中で眠ってさえいれば、消え去ることは決してない。ただただ微睡みの中で揺蕩うだけの存在でしかないとしても、おれはおれで居られると、そう思ったから。

 それは決してサラマンダー的な考えではないってことくらいはわかってる。だってサラマンダーは、ウンディーネのやつを泣かせたりはしないのだ。


 おれが眠りについたことで、世界じゅうの火という火が鳴りを潜めてしまったのだろうか。

 おれが顕現できている以上、火の概念まで消えてしまったわけではないだろうけれど、それでもその存在がか弱いものになっているのは間違いない。

 それが規模なのか、価値なのかまではわからないけれど、少なくともサラマンダー(おれ)にとって良い状況でないのは確かだ。これだけ水の気が満ちている場でおれが顕現できているだけでも奇跡に近いものがある。

 正直なところ起きるにしても場所とかタイミングなんかが最悪すぎる。なにせ、可動範囲が直径三十センチである。ここからはみ出て落ちでもすれば溺れること必至だし、それ以前に尻尾の火が消えてしまって乙ってしまう。だからここに留まるしかないのだが、それにしたって雨でも降ろうものならアウトなのだ。ここが神殿だったのも今は昔、ステンドガラスの天井は瓦礫となって崩れ落ちてしまっている。

 物理的な水で尻尾が消せてしまうほど、世界は水の気であふれているのだ。『風』も、『土』も、おれほどではないにしろその気がずいぶんと弱っている。


 ――バランスを崩すとおれを怒ったくせに。


 おれの声にもならないつぶやきは、水の底へと消えていった。


 かつておれが大暴れしていた時だって、世界の終末感は確かにあった。多少そういうムービングを楽しんでいた風もあるが、それにしたってただおれが暴れていただけにすぎない。

 おれが暴れたところで所詮は精霊なのだから、世界への影響なんてのは微々たるものだった。むしろ、世界が()()だったから、おれが暴れていたといっても過言ではない。それが、今の世界ときたらどうだ。

 いたるところが『水』に溺れてしまっていて、『火』は言わずもがな、『風』も、『土』も、その力を大きく失ってしまっている。透き通るような蒼がいかに美しかろうと、それは消えゆく命の美しさにすぎない。死ぬことのない精霊も、こうなってしまえば死んでしまうのだろうか。シルフやノームのことを思う。あいつらが死んだら、世界がこれだけ水を蓄えたところで死んでしまうに違いない。

 そうなったとき、おれは果たしてどうなってしまうのだろう。

 『水』も、『風』も、『土』もなくなった世界で、『火』は、どうなってしまうんだ?


 おれは再びの眠りを願っていた。

 宝玉はもうない。おれの封印が解けるのと同時に粉々に割れて、消えてしまった。

 おれは尻尾の火を中心にして、縮こまって丸まる。いつかのような恐怖はなかったが、言葉にならない寂寥感があった。あの時は、シルフが、ノームが、それからウンディーネのやつがいた。なんだかんだと文句を言いながらも、あいつらはいた。まだ消えてはいないのだから、どこかには居るはずだし、あいつらだって精霊なのだからおれの封印が解かれたことにだって気づいているはずだ。けれど今、ここにはいない。今、おれは独りぼっちの哀れな火トカゲだった。

 寂しさはある。けれど安心感もある。おれだっていつ消えてしまうかわからないのだ。おれはおれが消えてしまう瞬間を、あいつらにだけは見られたくなかった。

 ウンディーネのやつでさえ泣くのだ。シルフやノームのやつらまで泣いてしまったら、その涙は洪水となって、おれの尻尾の火は瞬く間に消えてしまうに違いない。そんな消え方だけは絶対にしたくないし、絶対に見られたくないと思ったのだ。


 俺はいつしか、目を閉じていた。

 宝玉がないから、眠ることもできない。目に映る景色があまりにまぶしくて、見ていられなかったのだ。

 ウンディーネ、シルフ、ノーム。おれにとって友達といえるようなやつらは、あいつらだけだった。すぐ文句を言うし、すぐ殴ってくるし、すぐ泣くし、一緒にいていい思い出なんて何もないはずなのに、今はあいつらの存在が恋しくてたまらない。おれはおれが消えるところを見られたくないが、それはきっと、あいつらだって同じなのだろう。だから、あいつらは今ここにいないんだろう。

 尻尾の火を抱えても、どこか冷たさを感じる。

 こんなことになるなら、目覚めなければよかったのに。眠りについたことさえ、間違いだったのかもしれない。おれがしたことは、ただの逃避でしかなかったのだと、今にしてみれば思う。でもあの時は、それしかないと思ったし、いつだって後悔は後になってから悔やむものなのだ。



 そうして、どれくらいの月日が経ったろうか。

 精霊にとって時間のながれは悠久だし、同時に一瞬でもある。

 おれは独りぼっちで丸まったままだったが、何かが起こることは終ぞなく、畏れていた――あるいは、待ち望んでいた雨が降り出していた。

 ぽつり、ぽつりと小雨が鱗を滴って、尻尾の火を揺らす。台座はすぐに水浸しになって、火トカゲたるおれは寒さに体を硬直させる。

 ああ、やっと終わるのだ。

 ゆらめきながら勢いを殺していく尻尾の火を見て、おれは安堵していた。まだ『水』も、『風』も、『土』もある世界で、最初に消えるのは『火』だ。おれは、他のやつらが消えるのを見なくて済むし、おれが消えるのを見られずに済んだ。


 ろうそくの火が消えるのと、一緒だよ。

 ひときわ大きな輝きを放つ。散りゆく間際のその火は、世界を覆う『水』のように美しかった。まぶしくて目を閉じたおれの瞼を流れる雨は懐かしくて、水没した世界を覆った水が、降りゆく雨が、ウンディーネのやつの涙だと俺はそのときやっと気づいたのだった。

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