正夢
三つ葉と酒がからみあったゆたかな香りが食欲をさそった。アサリの酒蒸しだった。アサリはぱっくりと口をあけて、空をあおいでいる。風呂から上がったばかりの輝夫は、そそくさと席について、箸を持った。
「ねぇ、今日、また夢みた」瑠璃が言った。
瑠璃は三つ年上の彼女だ。仕事帰りによく輝夫の部屋によって、料理をしてくれる。つきあって三年がたつ。まわりからは、そろそろ結婚かとはやしたてられていたが、輝夫はまだそんな気にはなれなかった。もうすこし遊びたかった。
彼女には不思議な力があった。予知夢というのだろうか。瑠璃が見る夢は、なぜか正夢になる確率が高かった。それを輝夫はいつも、面白はんぶんに聞いていた。
「どんな?」
輝夫はビールをあおりながらたずねた。今度はどんな夢をみたのだろう。先週は、けっさくだった。『輝夫のアパートの大家が、宝くじがあたったと言いはるが、当選番号が間違っている』という夢だった。翌日、本当にそう言いだす大家に、輝夫はひとあわ吹かせることに成功した。
瑠璃の顔がくもっていた。
「どうしたのさ?」輝夫は笑った。
「わたしが、妊娠する夢、みたの」
「そっか」
輝夫はとっさに冷静をよそおった。その様子をみて、瑠璃の表情がすこしやわらいだ。安堵したようだった。だけど輝男はおもわず聞いてしまった。
「で、それ、もう確定?」
「ううん、まだ、夢」
瑠璃は、検査薬も使ったけど、反応なかったから。と、目を伏せた。
知らぬ間に緊張していた頬がゆるむのがわかった。そうであれば、これから気をつければいい。
「あと」もうひとつ。瑠璃がつけくわえた。
「輝夫が死ぬ夢」
口のなかで、砂を噛んだ音がした。
瑠璃がみた夢は、毎月の京都出張の帰り道で、輝夫が交通事故にあうという内容だった。夢の中で着ていたというスーツも、輝夫が持っているスーツと同じである気がした。
とにかく気をつけてね。そう残して、瑠璃は自分のマンションに帰っていった。泊まれば、と言ったのに、明日早いとかなんとかで、輝夫はポツンとおきざりにされた。
こんなに瑠璃が恋しいのはひさしぶりだった。突然、自分の死を予知された輝夫は、ベッドの上で、ひとり、恐怖にさいなまれていた。瑠璃の予知夢がよくあたることは、これまでなんども目のあたりにしている。電気を消して、目をつむっても、なかなか寝つけない。自分の死をここまで意識したのはいつぶりだろうか。
こどものころ、ひとりで寝るのがこわかった。侵入者に殺されたら。おばけに食べられたら。おそろしくて、よく布団のなかでしくしく泣いていた。夜だけじゃない。公園の池に落ちたら。このままお母さんが帰ってこなかったら。いまおもえば、あのころはそんな風に、つねに、死の感覚がとなりにあったような気がする。
二十八年間、それなりの人生ではあった。だけど、やり残したことがたくさんあった。結婚して、子供を育てて、小さいながら一軒家を買って、年をとって、孫をあやして…。これから先、平凡だけど、そういう人生をおくると信じてうたがっていなかった。考えはじめたら、無性に悲しくなって、気づけば目には涙がにじんでいた。
出張は、今週末だった。
なにかを変えたかった。だから急きょ新調したスーツを着ていた。京都出張の、帰りの新幹線の中だった。浮気相手の家に泊まって帰るのも、今回からはやめた。これまでの通信履歴も全部消した。スマホの中身がきれいになると、まるで自分もきれいになったように感じた。
くわえて輝夫はある願掛けをしていた。あたらしく未来の予定をたてれば、自分の運命が変わる気がした。輝夫はポケットにしのばせた小さな箱にふれて、ひとりにやけた。
もうすぐ東京駅だ。あとは山手線に乗って、家に帰るだけだった。帰るだけだったのに。
前方で地響きのような音がした。大きな揺れを感じたかとおもうと、床が高波のようにうねりはじめた。座席から人が飛びあがった。窓の外をみると、もうそれは上だか下だかわからなかった。窓ガラスが飛び散った。輝夫は外に放りだされていた。くやしかった。やっぱり運命は変えられなかった。輝夫は目をかたくつむり、小さな箱を力強くにぎりしめた。
輝夫。名前を呼ぶ声がした。天国だろうか。目をあけると、白い天井がみえた。病院か。そうおもったところで、瑠璃に顔をのぞきこまれた。
輝夫の部屋の、みおぼえのあるカーテンがチラチラとゆれて、太陽のひざしが差し込んでいた。いつも通りの朝だった。
「気になって、今朝、もう一度調べたの」瑠璃が言った。
「そしたら、やっぱり陽性だった。だから、出勤前に、きちゃった」
「え?」輝夫は混乱していた。
「妊娠、正夢だった」瑠璃が恥ずかしそうに笑った。朝日に照らされたその顔は、聖母のようだった。いましかない、輝夫は反射的にポケットをまさぐっていた。だけど、小さな箱は見当たるはずがなかった。
出張は、今週末だった。