剣術指南役シルフィア 13
「まあ。可哀そうなシルフィ。そんなにも心が苦しいのね」
ベルスレイアは嘆く。そしてシルフィアに歩み寄り、その頭を両手で抱き締める。
途端、シルフィアは混乱する。何故、自分が同情されているのか。慰められているのか。何故悪魔――ベルスレイアが他人を気遣うのか。全てが理解できない。
故に恐ろしい。異形の精神でシルフィアを気遣うベルスレイアを、得体の知れない怪物のように感じた。怖気が身体を襲い、震える。
だが何よりも。――その不気味な腕に抱かれて、何故安心感を抱くのか。恐ろしいはずの悪魔の胸の内に抱えられ、どうして不安が消えていくのか。
自分自身の心の動きが、シルフィアには何よりも恐ろしかった。
まるで、自分という存在をベルスレイアに作り変えられているようにも感じた。
そんなシルフィアの頭を、ベルスレイアは可愛がるように撫でる。
「――シルフィ。お前は優しい。お前は正しい。そして何より、強い信念がある。清く正しいお前が自分を貫くからこそ、私はお前を欲しいと思ったのよ」
語りながら、ベルスレイアは頭を撫でる。何度も、何度もシルフィアを慰める。
実のところ、この行為にこそ原因がある。シルフィアが安心感を抱く理由。
それはベルスレイアに得体の知れない何か素晴らしいものがあるからではない。単に、ベルスレイアは大量の魔素を注いでいるに過ぎない。
手を通し、頭に大量の魔素を浴びせる。赤子の頃から異様なほど魔素操作の鍛錬を続けていたベルスレイアだ。浴びせる魔素の量は常人が普通に生活していて浴びることが無い量となる。
慣れもしない膨大な魔素を浴びた脳は混乱し、酔い、温まり――意識が混濁する。
つまり、シルフィアが覚える安心感というのは、単に魔素と脳が反応した結果起こる薬物的な反応である。
それを知らないシルフィアは、まんまと騙される。ベルスレイアに何か特別なものを感じ始める。
これこそが、ベルスレイアの得意とする洗脳術であった。フラウローゼス家に居るメイドの信奉者達は、皆この技術で洗脳されただけに過ぎない。
ただ、洗脳と言っても永久に思考を操るものではない。
一度だけ、他では得られない経験を与えてやる。快楽と、思想の肯定で心を縛る。すると二度と洗脳する必要も無い。以後はベルスレイアの特別性を疑うことの無い、立派な信奉者となるのだ。
このような手段を取る理由は、ベルスレイアが他人を信用していない為だ。他人は所詮他人である。自分の素晴らしさを理解できる知能があるとは期待していない。だから、手元にあるものについては洗脳する。強制的に理解させる。
今も、それを実行しているだけに過ぎない。シルフィアが自分の持ち物であるからこそ、必ず行う儀式である。
「正しいシルフィ。清いシルフィ。お前は誰よりも純粋で、何よりも輝く心の持ち主。……だけど、覚えておきなさい。人はどれだけ正しくても、幸せにはなれない」
ベルスレイアの言葉が、シルフィアの朦朧とする意識に浸透していく。
「だから私とお前は反発し合う。お前は私を間違っていると非難する。私の行為を悪事と呼んで否定する。でも私は辞めないわ。私は幸せになりたいもの。他人を慮って損をするのは嫌だもの。だからお前がどれだけ正しいことを言っても、私はそれを否定するわ。絶対にお前の言うことは聞いてやらない。お前の目の前で何度でも悪いことをしてあげる」
ベルスレイアは、膨大な魔素をシルフィアに注ぎ続ける。メイドを洗脳する時よりも、遥かに大量の魔素である。既にシルフィアは中毒のような症状を起こしており、目は虚ろとなり、口の端から涎が垂れている。
「でもね、シルフィ。それでもお前は正しいの。清くて美しいシルフィ。私に何度否定されても、私を一度も止められなくても、正しいのはお前なのよ。だから何も心配する必要は無いわ。罪を償うこともない。だってお前は正しいことをしているのだから。そしてお前がどれだけ正しくても、私は止まらないのだから」
言葉による洗脳が、シルフィアに染み渡っていく。正しい、という言葉が繰り返されるほど、シルフィアの意識は快感を覚える。常に正義を貫こうとする、過激な思想の持ち主シルフィア。だからこそ、魔素中毒状態で説き伏せられたら、逆らうことも出来ずに快楽を享受してしまう。
正しいという快楽。ベルスレイアの側にいれば、ずっと正しくいられるという錯誤。快楽を伴った誤認識が、脳に刷り込まれていく。
「だから、シルフィ。お前はずっとこのままでいてちょうだい。ずっと私の側で正しくいて欲しいの。私を間違っていると、私を悪しき者だと謗って欲しいの。だってそんなシルフィが、私は好きなんだもの。そういうシルフィだからこそ、私は手元に欲しいと思ったのよ。だからこれからも、私の側で悩んで、苦しんで、正義感を傷つけられて、それでも永久に正しくあり続けてちょうだい」
ベルスレイアは語り終え、シルフィアの頭から手を離す。顔を見てようやく、少しやりすぎたかしら、と反省する。目の焦点が会っておらず、涎を垂らし、泡を吹くシルフィア。エルフらしい美しい顔立ちが台無しである。
ここまで表情が崩れるほど魔素を浴びせたのは、ベルスレイアも初めての事であった。どんな後遺症が残るのかしら、と心配する。だが心配は半分だけで、もう半分は好奇心。そして廃人になったとしても、処分すればいい。その程度にしか思っていない。
――この時、ベルスレイアも想定していない事態がシルフィアの脳内で進行していた。
シルフィアはエルフ、つまり妖精族であり、肉体の構造に魔素を必要とする。逆に言えば、魔素を浴び過ぎれば肉体の構造に影響が出るという意味でもある。
脳に直接膨大な魔素を浴びたシルフィアは、脳機能に変調を起こしていた。それは深刻な変化を起こすようなものではない。ただ――ベルスレイアの側で、ベルスレイアに逆らい、ベルスレイアを否定する、ベルスレイアが保証する正しい自分というものに快楽を覚える。それだけの変化に過ぎない。
だが深刻な変化である。これでもう、シルフィアはベルスレイアから離れることが出来ない。正義に殉ずる過激思想の持ち主であるからこそ、この変化が齎す快感は甘美である。ベルスレイアという悪人を放置は出来ない。故に必ず正義を遂行する。遂行する正義に脳が歓喜する。思想に快楽が伴うようになれば、それは麻薬となる。
故にシルフィアは、ベルスレイアから離れられない。




