二十六話 愛に殉じる人
扉を開き、薄暗い廊下を進む。
奥へ奥へと。
そうすると、地下へと続く階段が現れ、リリィはそこを迷わず降りていく。
地下には、広々とした部屋があった。
大小様々なガラス瓶。その中には、何かの肉片や、砕いた石のかけらなどが入っている。 心底気持ちの悪い部屋だが……ここで自分は生まれたと、リリィは知っていた。
「…………来たか」
掠れた声が、地下の空気を揺らす。
銀製の器具や、乾燥した植物などが散乱するテーブルに向かっていた化け物が、ぐにゅりと動いてリリィの方を向いた。
「久しぶり、お父様」
リリィは、化け物に向かってちょいちょいと剣を持ち上げ挨拶をした。その切っ先が濡れている事に気付いたのか、父である化け物の声が、神経質に尖る。
「汚らしい体液を持ち込むな」
「ひどい。貴方があの連中を示唆したんでしょう」
こうなるって分かっていたくせに、とリリィは鈴を転がしたような笑い声を上げた。
「ふん。金を湯水のごとく使うしか能の無い穀潰し共だ。処分を陛下より任されたからこそ、楽に死なせてやったんだ。……そもそも、お前が命令に背いて遊びほうけなければ、死ぬことも無かった命だがな」
「ふーん、そうなんだ? 残念だったね」
小首をかしげたリリィの気のない一言に、父は笑ったようだった。化け物の体がぷるぷると震える。
(相変わらず、気持ち悪いなぁ)
内心でそんな事を思いつつ、リリィはそれを黙って見ていた。
「ハッ、心にもない事を。……よいよい。お前は忠実に仕事を遂行したのだから、よしとしよう。……もう、遊びも飽いたのだろう?」
「……遊び……?」
「あの三人から、お前が他者に強い関心を抱いていると聞いたときは、どこか壊れたのかと思ったが……魔族だったと知った時は手を叩いて喜んだぞ! さすが、私の傑作。――獲物に対して、鼻が利くな」
爛々と、その目が輝いた気がした。
リリィは、チリリと胸の辺りまでせり上がり、とぐろを巻いている感情に気付く。
――不愉快、という感情だ。
「……先に言っておくけど……連れてきてないよ」
「素材を監禁しておく屋敷を使えなくて、残念だったな。どの程度持つか実験するのも、一興だったが……」
「――…………」
なぜ気前よく自分に屋敷をくれたのか、リリィはボンヤリとだが、時折考えていた。
そういうことだったのかと、今初めて合点が行った。
(あのお家……カラールを連れていかなくてよかった)
この化け物は、わたしにしたような事を……もしかしたら、それよりももっと酷いことをカラールにしたかもしれない。
そう考えると、普段は感情の起伏が抑えられているリリィの腸が、煮えくりかえる。
(カラールに……カラールにっ……わたしの大切なカラールにぃ……!)
リリィの目は、どんどん狂気じみた光を帯びていく。
(あぁ、やっぱり。……コレだけは……この醜悪な塊だけは、何としてでも消し去らないと……!)
コレは、カラールを不幸にする存在だ。
愛する男を傷つけ、苛む、忌々しい生き物だと、リリィは握った剣に力を込める。
「それで? お前はいつまでここにいる? 遊びに飽いたのならば、さっさと仕事を果たしてこい。魔族でも混血でもいい、なんなら魔族と通じた異端でも構わない。臓腑をえぐり出し、私の元へ持ってこい。あぁ、くれぐれも、鮮度は失わぬようにな」
「――……ねぇ、お父様」
「なんだ? 私は忙しい。さっさと行きなさい」
「お父様の言う事は嘘だったの」
化け物の目が、ぎょろりと動く。
「お父様は、わたしを化け物っていうでしょう? わたしみたいな醜い化け物は、誰にも好かれない愛されない、みんな本性を知って逃げていくって」
「ああ。そんなお前を愛してやれるのは、創造主である私だけだ。だからお前は、私の命に従っていればいい」
「でもね……あの人は……カラールはね、わたしを好きだって言ってくれたのよ」
笑っちゃう、とリリィは肩をふるわせた。
「わたしはそばにいたかったのに。どんなことになっても、あの人のそばにいられればそれでいいのに……好きだから、わたしを置いていこうとするの。変でしょう? ……わたしは強いから、盾にでもなんでも使いようがあるのに、考えもしなかったのよ?」
ねぇ、お父様。
リリィはもう一度、呼びかけた。
「優しいあの人は、わたしみたいな化け物を、心配してくれたの」
地下の、大小様々なガラスが並ぶ研究室。
そのガラスに映る自分の姿を目にとめて、リリィは笑いながら涙をこぼした。
――見ないように、見ないように……。
努めて鏡を見ないようにしてきたリリィは、ガラスに化け物の姿を見た。
父よりも一層醜悪でおぞましい、化け物の姿を。
リリィが目に映しているものを知ってか知らずか……父が、侮蔑のこもった一言を吐き出す。
「怪物が恋情だと? 馬鹿げた事を」
「別に、あなたに理解して貰いたいなんて思ってない。理解しようなんて思っていたら、今すぐねじり殺してやりたいくらいだわ。……わたしのカラールへの愛だけは、誰に指図されたわけでもない、わたし自身の本当の気持ち。わたしだけのもの」
「リリィ。怪物であるお前を、その男が受け入れてくれたとでも? だったら、どうしてお前は一人でここに来た?」
「……あの人が、一人でお父様に会おうとするから。そんなの、耐えきれない。……穢れるわ」
「ふはは……」
「何がおかしいの?」
リリィの父である化け物は、諭すような口調で言った。
「お前は、それだけの理由で単身ここに来たのか? 受け入れてくれるかもしれない存在を振り切って? ――裏切って?」
「……裏切ってなんかいないもの」
「救えない愚図だな。その行為は、裏切りだろう。貴様は人族の勇者。ここに単身戻ってきた時点で、あの薄汚い魔族共からすれば、明白な裏切りだ」
「…………」
「哀れだな、リリィ。結局お前は、人ではいられない。けれど、汚らわしい魔族ですら受け入れてくれない。怪物は、朽ち果てるまで独りだ。……だが、私は父としての情があるから、お前を受け入れてあげよう。仕事を与えてやる、居場所も与えてやる。だから……私のために、人族の栄華を取り戻すために、怪物なりに尽くすといい」
あぁ、馬鹿だなぁ。
リリィは、またそんな事を思った。
「お父様。たしかにお父様は、わたしを作った人だわ。この力も、もともとはお父様の研究の成果だものね。たくさん頑張って作った魔導兵器だから、お父様は自分に従って当たり前って思ってるのよね。……そうやって、嫌な事を言えば、わたしが泣いてお父様に感謝すると思ってるのよね。……ふふ、馬鹿みたい」
「……何……?」
「……居場所はもう、貰ったわ。だから、他は必要ないの。……別れはすませたから、もう何も、わたしには必要ない」
だからねぇお父様、とリリィは笑う。
「死んで? あなたを殺して……わたしも死ぬ。――そうすれば、今度こそ本当に、カラールの世界は綺麗で優しいもので満たされるわ」
「っ」
化け物が真っ赤になった。
そして、唾を飛ばさんばかりの勢いで怒鳴り声を上げる。
「気狂いが!」
「ふふふ、馬鹿なお父様。さっきから馬鹿な事ばっかり。――貴方が作り出した怪物よ? ……最初から、気が触れてるに決まってるじゃない」
一歩、二歩と剣を片手に踏み出す。
怒りに震えていたリリィの父は、はたと何かに気付いたようにテーブルの上にあった液体の詰まった小瓶を掴んだ。
そして、ためらいを見せずリリィに投げつけた。
剣で叩き落とされた小瓶は、あえなく床で砕け、中身をまき散らす。
しかし、父は悔しがるどころか「くくく」と愉快そうな笑い声をこぼした。
床に広がった液体から、じゅわっと蒸気が立ち上る。
父が、ゴテゴテと装飾のついた杖を手にし、床をついた。
ぴかぴか、チカチカと装飾の宝石や刻み込まれた文様が輝き、その光は床を伝い――液体に陣を浮かび上がらせる。
「……え?」
途端、リリィは全身から力が抜けるのを感じた。
「くくくっ、情けで生かされているだけの分際で、飼い主に噛み付こうとするとは、何事だ」
「…………なにを、したの…………?」
「お前のような怪物を飼うには、こういう事も想定しておかねばならぬだろう? ……リリィ、お前の体を巡るのは、あの忌々しい呪い石の力だ。……我々人族は、穢れた魔族共の策略により、彼の石に対する耐性が著しく低い。…………だがな、私は効果を薄める方法を見つけたのだ」
「…………」
「血だよ。……あの、穢れた連中の、生き血だ」
得意げな声。
自身の研究を、心底誇りに思っている、そんな声だ。
「体が呪い石で形成されているお前を弱体化させる……良い薬だと思わないか? ……もっとも、これほどまでに効くとは思わなかったが」
剣を取り落とし、うずくまっているリリィに近付いてきた父は、ふと娘の手に目をとめた。
真っ赤な手。
いや、リリィの手にこびりついたままだったカラールの血が、床に飛び散っている液体……魔族の血に呼応するように、きらきらとわずかに輝きを放っていたのだ。
「……これは……! 魔族の血か? いや、それにしては反応が違う……! ――まさか……、まさかまさかまさか……、混血か!? ビュティアでは狩り尽くしたと思っていたが、まだ取りこぼしがあったのか! よくやったぞ、リリィ! これで私の研究はさらに進むだろう!」
興奮し、早口でまくし立てる父がリリィの手を掴んだ。
「まずは、これの成分を調べるか……。さぁ、はやくかしなさい」
「い、いや……!」
「わがままをいうんじゃない! これは偉大な研究なんだ! あぁ、時間が惜しい……腕を切り落とすか」
父は、リリィを引きずり、テーブルに近付く。
そして、銀製の器具の中から、ギザギザの刃がついた大きめのナイフを手に取った。
「なぁに、腕の一本や二本、化け物には支障ないだろう?」
「…………っだめ、これは、カラールの……!」
愛する人の血。
なんと言われようが、一滴たりとも誰にも渡したくない。
けれど、今のリリィは嘘のように非力だった。
「なんなら、あとで生やしてやるさ」
笑う父。リリィの目には化け物にしかうつらない存在は、ためらいなく娘の細腕にナイフを振り下ろそうとした。
「――誰の、何を、どうするって?」
冷ややかで……暗い。
地を這うような低い声が響いたかと思うと、振り上げていたナイフに、ぼっと火がついた。
「あ、熱っ……!」
リリィの父は、思わずナイフを取り落とす。カランと乾いた音を立てて落ちたナイフは、まるで意思でもあるかのようにするすると床を滑り、やがて……誰かの足に踏みつけられる形で止まった。
「――随分面白い話をしていたな? ……是非、もう一度聞かせて貰いたい。……誰が、何を、どうするんだって?」
そこにいたのは、薄い唇の端を、器用に片方だけ持ち上げ、酷薄な笑みを浮かべた痩身の若者――。
「……カラール……?」
リリィが愛して止まない、彼だった。