十五話 名前
「断っておくが、僕の家は大きくない。ごくごく普通の家だ。お前が見てきた屋敷だとか、城だとか、そういうレベルを期待されても、無理だからな」
そう念を押して勇者を連れてきた、久方ぶりの家。
グラマツェーヌの部下であるカラールは、彼女に付き従い城詰か呪い石回収任務で外に出ている事が多い
そのため、持ち家はあるものの、家に帰る頻度はかなり少なかった。
小さな家は、城下でも賑わいから離れた場所に建っている。
点々としか家が存在しないこの区域は、庭で新種の植物を育てたり、新しい肥料を試したりする、いわゆる研究者気質の者達が暮らしていた。
彼らは皆自分の研究に夢中で、あまり他者を気にしない。
だから、カラールが勇者を連れて帰ってきたとしても、不必要な注目を集める事はない。――魔王が、カラールに任せたのも、それを把握していたからだろう。
「ここが、カラールのお家?」
「あぁ」
「青い屋根に、白い壁……」
ふと立ち止まった勇者は、カラールの家を眺めて呟いた。
「庭には、赤い木の実と薬草、良い匂いの花が植えられてる……」
「……え?」
最初は、見たままの感想を言っているのだと思ったが、続いた言葉にカラールは怪訝な声を上げた。
「……おい、大丈夫か? 僕はあまりここには戻らないから、見ての通り庭には何も植えてない」
「…………っ、う、うん。そうだね」
「……まぁ、多少ほこりっぽいかもしれないが、中に入れ。換気すればマシになるから、休んでろ」
「わたし、手伝うよ! なんでも言って!」
木製の柵を越え、最低限の手入れしかなされていない殺風景な庭を横目に、真っ直ぐ出入り口の扉に向かうと、勇者が慌てて追いかけてくる。
家の中に入ると、カラールは片っ端から窓を開けていった。
座っていろと言っても、勇者はひな鳥よろしく後を追いかけてくるので、早々に諦め、好きにさせておく。
(――……木の実に、薬草、花か)
なぜ勇者がそんなことを言い出したのかわからない。
漠然とした憧れだったのかもしれない。
ただ、彼女が口にしたそれは、全て……――カラールの記憶の中にあった。
両親と暮らしたあの家には、勇者が言った全てが揃っていた。
「ねぇねぇ、カラール」
懐かしさに引っ張られそうだったカラールは、自分を呼ぶ声に振り返る。
「なんだ?」
「わたし、本当にここに住んでもいいの?」
「……行く当てないんだろう。今更、何を言ってるんだ。僕が放りだしたら、困るくせに」
「…………えへへ、やっぱりカラールは優しい」
「……あ?」
反射的に低い声が出て、眉間に皺が寄る。
怯むなりすれば、まだ可愛げがあるというのに、勇者は何故か歓声を上げて飛びついてくる。
「優しい、優しい、カラール。だーい好き」
「はぁ!? 意味が分からないし、脈絡なく抱きつくな!」
「……優しいあなたは、わたしが絶対に守るからね」
「…………勇者?」
意味が分からない。
もっとも、勇者の理解できない行動はこれが初めてでは無い。
「大好きよ」
ただ、この言葉を聞いたとき、カラールはなぜか動揺した。胸の辺りを引っかかれたような、痛みと不快感を覚える。
(――変だな)
その不快感は、理解不能な勇者に対してでは無い。
(……なんで僕は、この変態勇者を、放っておけないなんて思ってるんだ?)
突き放すでもなく、カラールの手は無意識にまた勇者の頭に伸びていた。
自分と同じでは無かった。
けれど、複雑な身の上だと言う事は理解できた。
人が作り出した、新たな呪い石……目の前の勇者は、血の通った人間であるから、魔王の比喩なのだろうが――不穏だった。ついで、勇者自身が事も無げに付け加えた単語も。
だから、同情しているのだろうかと、カラールは自分に問う。
可哀想だから、気の毒だからと、突き放せないのだろうか。
考えても、明確な答えは出なかった。
「…………お前、名前は?」
「え?」
出せない答えを引きずりつつ、カラールは少女に問いかける。
「あのな、魔王様治める土地で、勇者なんて言葉を大声で口に出来るわけ無いだろう。……僕に本名を教えるのが嫌なら、偽名でも良いから、なにか呼び名を考えろ」
「嫌じゃない! 呼んでくれるの!?」
「――あ……あぁ、それは、もちろん……」
勢いに押されてのけぞり気味になったカラールが頷くと、勇者はみるみる明るい表情に変わった。
「カラールが、わたしの名前を呼んでくれるとか……! 夢じゃないよね? わたし、これが夢だったら神様殺す……!」
この上ない理不尽さだ。それが勇者の言う事かと頭に手を当てるカラールを前に、勇者は居住まいを正した。
「えぇと、じゃあ、……呼んでね? ちゃんと、本当の名前だからね? 偽名とかそういうの、わたし使わないから!」
「わかったから、さっさと言え」
「リリィだよ。……わたし、リリィって言うの」
期待に満ちた紫の瞳に見上げられたカラールは、咳払いを一つした後、たったいま知った、勇者の名前を呼んだ。
「わかった。……リリィだな」
呼ばれた勇者の頬が、途端に赤く色づいて、紫の双眸がとろんと溶けた。
「ふふふふふふふふ、幸せ…………!」
そのままゆっくり後ろに倒れた勇者を、慌てて抱き留めたカラールは、なんだこれはと呟いた。
「……名前を呼んだだけで気絶とか……、本当にお前はよくわからない奴だな……リリィ」
意識を失いつつも、その顔は幸福感に満ちていた。
見ている方も、思わず頬が緩むほどに。
覚えたての名前をもう一度口にして、カラールは手のかかる同居人を寝かせてやるべく、立ち上がったのだった。