湖の畔で
「なあ、本当なのか? そいつがまだ生きてるって」
満天の星が瞬く空の下、四人の男が焚き火を囲んでいた。一人の青年が酒に酔った男に尋ねる。
「ああ。おそらくな。奴の顔を見て思ったんだ。王都の『罪人の壁』に貼ってある、ビョルンとかいう脱走兵の似顔絵とよく似てるってな。死んだって言われてるが、死体は上がってないらしい」
男はぐびりと酒を飲んだ。
「人違いじゃねえの、おっさん」
「黙れ、小僧。でもそいつ、何かを知ってるみたいだ。トロールという言葉を聞いて、目の色を変えたからな。罪人の壁から盗んできた似顔絵にもそっくりだ。ほれ、見てみろ」
男が差し出したくしゃくしゃの紙には、ビョルンという青年の似顔絵と身体的特徴が書かれている。
「盗んでくんなよそんなもん。ひっぺがしてきたのか?」
「で、でも、もしそいつが例の脱走兵だったら?」
「それなりに金は貰えるだろうよ。……ゲフッ」
「おい、おっさん。あんた酒飲み過ぎだぞ? 大丈夫か?」
「シーッ! いいじゃねえか。もっと飲ませて、情報聞き出そうぜ」
「と、ところでおっさん、あんた王都から来たのか? 普段は何してる人なんだよ?」
「まさか軍の関係者とか、暗殺者とか?」
「馬鹿にしてんのか。俺はただの賞金稼ぎだ。今さら、馬鹿なタマなし脱走兵のことなんて、王サマは散らばったゴミ程度にしか思っちゃいねぇだろ。わざわざ軍の人間なんて動かさん。俺たちみたいので十分だ。ああ、ちょっと待て、俺吐きそう……」
男はそう言って立ち上がると、千鳥足で歩き出した。
やがて一行は、凍った湖に出た。日は傾き始め、気温もだいぶ下がっていた。
湖のほとりに、小さな三角形のテントが四つほど並んでいるのが見えた。テントの側では火が炊かれ、何人かの男が湖に張った氷に穴をあけて釣りをしていた。その奥にはトナカイの姿も見える。
「やった。モヴィ族だ。今晩泊めてくれるかもな。私が頼んでみよう」
ノーチェはそう言って広げていた地図を畳んだ。
モヴィ族とは、基本的に村や決まった住居を持たず、移動式のテントを持ち、トナカイや羊などの動物たちと様々な地域を転々としながら生活している民族だ。
「おい、懐かしいか? クヌート」
ノーチェがクヌートの方を見た。しかし彼が何か返事をするよりも早く、テントの近くで釣りをしていた老人が声をあげた。
「やあ、何用かね? 迷子かい?」
老人は徐に立ち上がり、かぶっていた帽子を取った。
「訳あってリトレ遠い村まで旅してんだ。怪しいものじゃない。実はさっき、盗賊にいきなり襲われて、旅の予定が狂ってしまった。一晩だけ、一晩だけ泊めてもらえないか? もちろんタダでとは言わない」
ノーチェは腰を低くして老人に頼み込んだ。老人はノーチェ、クヌート、ハンナの順に目をやり、少しの間考えこんだ。
「うむ。いいぞ。ただしお前たちの持っている食料も少し分けてくれるか? 特に調味料。塩か何かがあればいいんだがな」
ノーチェは塩を持っていた。それを老人に渡すと、三人は一番大きいテントの中へと案内された。
テントの中は外よりはいくらか暖かく、釣ったばかりの魚が地面に置かれていた。釣り上げられた魚は、そのまま氷の上に放り出しておけばすぐにカチコチの冷凍状態になってしまうのだ。
テントの中には中年の女性が一人料理を作っており、腰の曲がった老女がテントの隅で刺繍をしていた。
「おや、あんた方はどっから来たんだい?」
釣りをしていた老人と共にテントに入ってきた三人を見て、老人は嬉しそうに微笑んだ。特に驚いた様子はない。こういった状況はよくあるのだということが伺えた。
「何でも、リトレ村まで行くらしい。さっき盗賊に襲われて、トナカイをなくしてしまったんだそうだ」
ノーチェの代わりに老人が説明した。
「まあ、気の毒ね。でも、リトレ村って聞いたことがあるわ。北の海沿いの村だから、ここからずっと遠いわねえ。……盗賊に襲われたって、その後彼らはどうしたの? どこかへ逃げてしまったかしら?」
「トナカイと金を渡したら、すぐに逃げた」
老女の問いに瞬時にそう返したのはクヌートだった。ノーチェとハンナはお互いに顔を見合わせ、苦い顔をして笑った。
「それはなによりねえ」
老女はまた微笑んで刺繍を再開した。
「さ、できたわ。好きなとこに座んなさい。トナカイ肉よ」
鍋をかき混ぜていた女性が、出来上がった料理を取り分け始めた。焚き火の周りには釣った魚が串刺しになって焼かれている。
テントの入り口に、他のテントからやってきた子供たちが集まってきていた。どんな客人が来たのか気になって、覗きに来たのだ。そのうちの一人がハンナに興味を示し、時々木の棒で食事をする彼女の背中をつついた。その度に老人が子供をげんこつを振り上げて脅すのだが、子供たちはきゃっきゃっと無邪気にはしゃぐばかりだ。
夕食を取り終えると、辺りはもう闇に包まれていた。三人はそれぞれテントを借り、眠らせてもらうことになった。
その晩、クヌートは嫌な気配を感じて目を覚ました。テントから顔を出し、辺りを見回す。火の番をしている男がうたた寝をしており、北の空にはうっすらとオーロラが漂っている。
クヌートはうたた寝している男に気が付かれないよう外に出ると、テントの周りを歩き回った。すると、奥の林で何かが蠢く音がした。ザクザクと雪を踏む音だ。
――男だ。
音を聞けばすぐにわかる。二足歩行、大股。明らかに獣ではない。クヌートは足音の後を追った。
足音は木々の間をすり抜けるように遠ざかっていく。本能なのか、その後を追わずにはいられない。追いつめてその正体を確認しなければ気が済まない。
「まずい、ばれたぞ……」
逃げていた男は足を止めた。真黒な闇の中から声だけが聞こえている。オーロラが大きさを増し、こちらへやって来る。真っ黒な闇に、柔らかく鮮やかな光が穿たれ、男の顔が照らし出された。
【お知らせ】
5話の終盤のノーチェとハンナの会話部分を改変しました。