出会い 後編
巨大な母熊が牙を剥き出し向かってきた。
「逃げろー!!」
グスタフの絶叫が森中に響き渡り、クヌート以外の四人は一斉に走り出した。
「クヌート! 何やってる走れ!」
ノーチェがクヌートの腕を引っ張る。直後、耳元で熊の前足が風を切る音がした。まともに食らえば顔の半分が抉られるほどの勢いだ。
母熊は自分の子供が木の上に追いやられていると思い込んだようだったが、どういう訳かクヌート一人に狙いを定めて襲ってきた。
「今だ! 行くぞ」
グスタフはそう言うと、クヌートをおとりにして仲間の二人と逃げていった。
ノーチェは熊の鼻先をナイフで切りつけると、クヌートを連れて走った。森で熊に会ったら走るなと前に父親から言われていたが、最早走らずにいられるような余裕はなかった。
「村に戻るより狩猟小屋に行く方が早い。幸い風下の方角だ。ついて来い」
彼女はクヌートを村の方へは案内せず、森の奥へと入っていった。
狩猟小屋へたどり着いた時には、既に辺りは薄暗くなっていた。大きなマツの上に建てられた小さな小屋に、一本の梯子が掛かっている。
二人が梯子を登って中に入ると、既に先客がいた。
「な、なんだよ。お前らかよ」
グスタフだった。彼は独り部屋の隅で小さくなっていた。
「グスタフ。何でお前一人がここに? 他の二人はどうした?」
「……わ、わからねぇ。途中ではぐれたんだよ。この小屋を見つけたのも偶然だ」
ノーチェの問いに、グスタフは震えながら答えた。
小屋の中には小さなテーブルと毛皮の敷き詰められた長椅子、壁には鉈やナイフが吊るされていた。
「今夜はここにいよう。精々二人が無事な事を祈るんだな」
ノーチェはそう言うと毛皮の上に腰を下ろした。クヌートはさっきまで威勢良く自分を殴っていた相手の変わり様に思わずため息をついた。今の彼はまるで怯えたネズミのようだ。
「そんな。助けてくれよ。お前猟師だろ? 慣れてるんじゃないのかよ」
グスタフはすがるような目でノーチェを見た。だがノーチェは抑揚のない声で冷たく返した。
「普段から私や父さんを散々馬鹿にしてるくせに、こんな時は頼ろうだなんて勝手過ぎる。それに、さっきだって私らをおとりにして逃げただろ。それについてはどう思うんだ?」
「それは……」
「そもそも、なんでクヌートを殴った。何か悪いことでもしたか? ブランカから聞いた話だとまだ病み上がりらしいじゃないか。お前らはいつもそうだ。自分より強い相手の前ではお行儀良くしてるくせに、ちょっとでも弱いとわかればすぐ袋叩きにして面白がる。そうやって自分は強い人間だと勘違いするんだ。そうしないと胸を張れないからな。恥ずかしくないのか? いっそ喰われちまえば良かったんだよ。お前らなんて……!」
小屋の中がしんと静まり返る。グスタフは唇を噛んだまま何も言い返さない。さすがに言い過ぎたと思ったのか、ノーチェも少しバツの悪そうな顔をしている。クヌートはそんな二人の顔を交互に見ていた。
「……黙るな。どっち道、私一人にはどうにもできない。もう少し待ってくれ。真っ暗な中じゃ、獣の方が強いんだ。父さんならまだしも、私なんかにどうしろって言うんだよ。それに――」
ノーチェはクヌートの方を見た。
「お前がボコボコにしたヤツを手当てしないと」
ノーチェは立ち上がり、小屋の隅にあった木箱から包帯と布を取り出すと、クヌートの血で湿った前髪を捲り上げた。
「思ったより頑丈だな。傷も大したことないし、もう血も止まってる。適当に拭いとけ」
そう言って布を頭の上に乗せる。クヌートはお礼を言おうとしたが、頑張っても声は出てこなかった。
「そう言えば自己紹介してなかった。私はノーチェ。隣の村で猟師をやってる。で、お前を殴ったこのクソがグスタフ。同じ村に住んでる問題児だよ。後ろにくっついてた二人はロイとトール。同じく問題児。村の嫌われ者だ」
「おい、そこまで言わなくていいだろ!」
グスタフがようやく口を開いた。
「自覚がないわけじゃないだろ?」
「自分でも浮いてることくらいわかってるよ。お前や親父みたいな取り柄もないし、ちやほやされてもないしな」
「私がいつちやほやされたって?」
ノーチェが食って掛かる。二人がまた言い争いを始めたため、クヌートは完全に置いてきぼりをくらった。
彼は暫く二人の言い争いを聞いていたが、段々と眠気を感じ始め、知らず知らずの内に眠ってしまった。病み上がりにもかかわらず殴り合いに巻き込まれたうえに森まで走らされたせいで、身体が鉛のように重かった。
それからどれくらい眠っていただろうか。ふと目を覚ますと、グスタフとノーチェもいつの間にか眠ってしまっていた。外からは鳥たちの鳴き声が微かに聞こえてくる。一人で起きていても仕方がないのでもう一度目を閉じようとすると、小屋の外で音がした。
落ち葉を踏む音と荒い息使い。人間でないのは明らかだった。
足音は段々と小屋に近づいて来る。梯子が揺れる気配がする。
――登ってきた。
クヌートはノーチェを起こすべきか迷ったが、音をたてることを恐れて息を殺し、じっとしていた。人がいることを気取られてはならない。
やがて、扉がガタガタと揺れ始めた。
もう気付かれているのではないかと思い始めた時、隣で寝ていたグスタフが盛大にくしゃみをした。よりによって、くしゃみは三回連続で出た。
「カフッ、カフッ」
扉の向こうから奇妙な鳴き声が聞こえたかと思うと、メキメキと凄まじい音を立てて扉が歪んだ。光の差し込む扉の隙間から見えたのは、巨大な黒い鉤爪と真っ赤な長い舌だった。間違いない。あの熊だ。あの母熊が、小屋の扉を外そうとしている。
「何だ……!?」
ノーチェが飛び起きた。
クヌートは咄嗟に手近にあった斧を掴み、扉の内側に入ってきた前足目掛けて振り下ろした。何の躊躇いもなかった。自然と体がそう動いたのだ。ぼんやりとしていた頭の中が、一瞬にして冴え渡った。
「起きろグスタフ!」
ノーチェがグスタフを叩き起こす。グスタフは目の前の光景に思わず悲鳴をあげて飛び上がった。
一度目標を定めた熊の執着は凄まじく、クヌートの攻撃を食らった一瞬は怯んだものの、しつこく扉をひっかき続けた。ノーチェが急いでテーブルを引き摺り、扉の前に防柵を作ったが、いつまで持つかはわからなかった。
「まずいぞ。この扉が破られたら俺たちお終いだ。クソ。こんなところで人生が終わるだなんて!」
グスタフがガタガタと揺れるテーブルを押さえながら言った。扉がバリバリと割れる音がして、三人の頭に木くずが降りかかる。
「馬鹿だったよ。今になって気付いた。俺はただ、落ちこぼれだって思われたくなかっただけなんだ。猟師になろうとしたけどダメだったって、馬鹿にされたくなかっただけなんだ。ああ、俺が森へ行こうなんて言い出さなければ……クヌートにちょっかいなんて出さなければ……!」
もう助からないと思ったのか、グスタフは遺言だと言わんばかりにべらべらと喋りだした。
「――しっ! 静かに」
ノーチェがグスタフの口を押えた。何かに気付いたようだった。クヌートが耳を澄ませると、確かに何か聞こえた。犬の吠える声と、ノーチェの名を呼ぶ声が近付いてくる。
「やっと来たか。父さん」
呻き声と共に一瞬熊の動きが止まり、ドスンと地面に降りる音がした。
暫くの間数人の足音や掛け声があちこちから聞こえ、やがて静かになった。
「ノーチェ! 生きてるか?」
しわがれた男の怒鳴り声が森中に響き渡った。
三人がボロボロになった扉を開け外に出ると、そこには地面に倒れた熊と数人の猟師、そして猟犬の姿があった。
「遅いんだよ。くそ親父」
ノーチェが言うと、一番恰幅の良い男がゲラゲラと笑った。
「三人とも無事たぁ、一晩酒を我慢した甲斐があったってもんだ! これで全員の無事が確認できたな」
「全員? あの二人は、トールとロイは無事だったのか!?」
グスタフが割り込む。どうやらはぐれた二人は熊の餌食にならずに済んだようだった。
「怪我してるが、五体満足でピンピンしてるぞ。お前の両親も心配してる。さっさと帰るぞ。それと――」
ノーチェの父はクヌートの方を見た。
「何かと大変だったな。ブランカとハンナも心配してたぞ」
ノーチェの父はクヌートとグスタフをそれぞれの家まで送り届けてくれた。ブランカの家に帰ると、庭に出たブランカがハンナを抱いて待っていた。
「おかえりなさい。随分と大冒険したみたいね」
彼女は疲れ切った表情の三人に言った。
「何が大冒険だ。死ぬとこだったんだぞ。……それじゃあクヌート、元気でな」
ノーチェがそう言ってクヌートの肩を叩く。クヌートはノーチェと彼女の父にお礼が言えないことを残念に思った。彼らはグスタフを送り届けるため、もと来た道を引き返し始めた。
「言えるわよ」
遠ざかる後ろ姿を見ていると、唐突にブランカが言った。
「――えっ」
その言葉に引っ張られるように声が出た。
「本当だ……」
いつからだろうか。いつの間にか頭の中に言葉が戻ってきていた。
「まだ間に合うわ。いってらっしゃいな」
ブランカの細長い指がクヌートの背中を押す。彼は小さくなるノーチェたちの背中を追いかけた。
ここまでお付き合い頂きありがとうございました。
またいつか、別の番外編でお会いしましょう。




