決断
再び寒いヨルンの街に戻され、クヌートは自分の身体が動かせるようになっていることに気が付いた。隣には先ほどまで悪霊の器だった男が転がっている。首に手を当てると血管が脈打っているのがわかった。どうやら死んではいないらしい。
屋根の上から町の様子を見渡すと、松明の明かりがちらちらと見えた。恐らくノーチェの言っていた「門の前にできた人だかり」なのだろう。何かを叩くような音と人々の掛け声が微かに聞こえてくる。
遠くの空はうっすらと白んできている。もう夜も終わりに近づいているのだ。
獣や化け物、ならず者たちの侵入を防ぐために作られた城壁は、今や単なる障害物でしかない。せめて複数の出入り口があればこんなことのはならなかっただろうとクヌートは思った。
――日が昇るまでに決断するんだ。
悪霊の声が聞こえ、クヌートの思考はぶつりと断絶された。例の断末魔が、再び頭の奥から呼び戻される。口の中に強烈な鉄臭さと気味悪い温かさが広がった。悪霊の言っていたトラウマを永遠に反芻する感覚とはこういうことなのだろうかと考えていると、また思考が遮られる。
――もし、どちらも選ずに日が昇れば、私は承諾したと認識することにしよう。町の人々は死んでしまうが、君と仲間たちは助かるし、忌々しい記憶も消してやろう。
子供の泣き声、母親の悲鳴、父親の怒号、断末魔、けたたましく鳴きながら逃げ惑う家畜たち。
――この町の人間が君に何をしてくれたと言うんだ。ビョルン。
血の臭いと温かさ、地面に転がる無数の亡骸、あまりの恐怖と罪悪感に涙が込みあげ、反射的にその場から走り去ったあの日の自分。両足は幾度となくもつれ、ずるずると地面を這うように前へ進む。自分はかつて家族を殺した奴らと同じ、野蛮な人殺しになってしまったのだと思うと、この世界から消えたくなった。
悪霊は地鳴りのような低い声で、穏やかに囁き続ける。
――死んだ人間は二度と戻ってこない。彼らの顔を覚えていても、それで何かが変わるはずもない。もしそれが自分にできる償いだと考えているのなら、それは単なる自己充足に過ぎない。無意味な行為だ。
隠れるように森の中へ走り、大木の根本に倒れこんだ。血の混ざった胃液をありったけ吐き出すと、急な眠気に襲われた。不都合な現実が遠のいていく。これが、すべて夢だったら良いのにと強く願った。
――ビョルン。もういいんだ。
かつての感覚と悪霊の囁きとが交互に入り混じる。少しでも気を抜くと今にも気が狂いそうで、クヌートは必死に歯を食いしばった。赤いオーロラは山の向こうから昇る太陽の光に溶け始めていた。残された時間は残り僅かだった。
――君は元々、とても繊細で真面目な人間だ。初めは抵抗すると思っていた。そうすることが正しいと思い込んでいるから。でも思い出してくれ。君が本当に救いたいのは君だけだということを。さっきも言ったが、君は誰かを救いたくて自らの身体を差し出したわけじゃない。約束された「安心」が欲しいだけだ。しかし、それは仕方のないことだ。追いつめられた人間とは皆そうなるものだ。こればかりはどうしようもない。
夢だったら良いのに。目が覚めたら、すべてが元通りになっていたら良いのに。全部なかったことにしたい。何もかも手放したい。――でも、いずれ罰は受けなくてはならない。罰さえ受ければ、それで許されるのだろうか。
あの日の思考が濁流のように流れ込んでくる。罪を背負う前の、元の自分に戻りたい。すべて忘れてしまいたいという思いが、未だに自分の中に残っている事実にクヌートはこの時になってようやく気が付き、何とも言えない自己嫌悪に襲われた。
一方的にやられてばかりは嫌だと強く思う一方で、心のどこかで完全な被害者であり続けることを望んでいた。そうすれば、自分は正しい側の人間でい続けることができたはずだった。
しかし、現実は違っていた。自分は今まで見てきたどんな人間よりも歪んでいたのだ。
――元の綺麗な姿に戻してあげよう。問題なのは君の心や人間性でなく行為そのものだ。あの日、村に盗賊さえやってこなければ、王都にさえ行かなければ、君はきっと心優しい穏やかな人間として幸せに暮らすことができただろう。君は悪くない。君のせいじゃない。
「おいクヌート! そんなところで何してる!」
突然真下から怒鳴り声が聞こえ、クヌートの意識は一気に現実へ引き戻された。そこにはノーチェの姿があった。
「ノーチェ、どうやってここまで――」
「心配だから探しに来てやったんだろ! ちょうど雪も弱くなってきたしな。さっさと降りてこい! 朗報だ。スロがもう一つの出口を見つけたらしい」
クヌートはノーチェの姿を見るのが嫌だった。彼女の姿を見ていると、自分がどうしようもない汚物のように思えるのだ。
「おい。クヌート……どうした?」
彼女に自分の真実を知られたくない。だが隠していたくもない。すべて忘れたい。しかし、それはできない。
ノーチェに失望されたくないという思い。そしてすべてを打ち明けるべきだという思いがぶつかり合っている。
「クヌート。まさかお前、本当に――」
何かを察したノーチェが屋根に上ってきた。
――すべてを知られたくなければこちらにおいでビョルン。
今までにないほど動揺していた。悪霊の言うことをきいてはいけない。しかし今の自分が何者であるのか知られたくない。手に持った斧に力が込もる
――今更躊躇することでもないだろう。
悪霊の言い放った一言に心臓が跳ね上がった。もう太陽は山の上から顔を出し始めている。ぐずぐずしていれば、本当の意味で悪霊の器になってしまう。ノーチェたちに真実を知られることもなく、すべての苦しみからも解放されるが、町の人間は死んでしまう。
「クヌート。好きなほうを選んだらいい。どんな決断をしようが、お前の判断だ。でもこれだけは言わせてくれ。自分を失うことになるくらいなら、いっそ苦しい方を選べ。その方が、お前はきっと楽になると思う」
この一瞬のうちに何をどこまで理解したのかわからないが、ノーチェはきっぱりとそう言った。まるで子供を宥める時のような柔らかな口調だった。
彼女は続けた。
「私やブランカがどんな気持ちでお前を預かったか知ってるか? 見るからに怪しくて、気味悪くて、何かと危なっかしい人間を、ただ気の毒だからという理由で拾ったと思うか? 何の覚悟もなかったと?」
その言葉に、胸の蟠りが少しだけ解れたような気がした。
――聞く必要はない。どうせあっという間に掌を返すさ。優しくされればされるほど、後でつらくなるのは君なんだ。
「……完全な被害者でなくても、何の罪もない人間を最低なやり方で殺していてもか?」
クヌートは悪霊の言葉を遮るように言った。心の具合は最悪だったが、自分の中に微かに力が戻ってきているのがわかった。
「何の罪もない、ねぇ……そんなことしたのか? お前は」
ノーチェは淡々とした様子で返した。クヌートは喋り続けた。
「中には子供もいた。父親は喉を喰い破って殺した。平和に暮らしている人間が妬ましかったのかもしれない」
「そうか」
「その時は脱走兵だった。でも、そのまま逃げかえるように軍へ戻った。それでもまだ同じことが言えるのか」
ほんの少しの間、沈黙が流れた。冷汗が頬を伝う。
ノーチェはゆっくりと頷いた。それと同時に太陽が山の上に姿を現した。赤いオーロラはすっかり成りを潜め、代わりに真っ赤な朝日が町を包み込んだ。
ノーチェは言った。
「ブランカと前に話したことがある。お前がどんな過去を持った人間だろうが、どんな真実を隠していようが、自分の意思で手を差し伸べたからには最後まで味方でいることにしようって。何年も前から覚悟はしてきた。でなきゃ初めから関わったりしないんだよ」
それから暫くの間二人は屋根の上に立っていたが、悪霊の言ったような惨劇は起こらなかった。日の出前と変わらぬ状態が続いていることに、クヌートはほっと胸を撫で下ろした。しかし、ノーチェの顔はどこか悲しげに見えた。まるで何かを感じ取ったかのように。
クヌートの頭の中で悪霊の笑い声がこだました。




