深層
目を覚ますと身体が鉛のように重かった。自分の中に悪霊が入り込んだのは間違いない。起き上がろうと身を起こすと、全身が引き攣るような奇妙な感覚に襲われ、再びその場に膝をつく。激しい眩暈がし、思わず目を瞑った。
――無駄だよ。ビョルン。
頭の奥で声が響く。
――君は痛みを感じない。だから私の器になることを選んだ。だが残念なことに、君を私の言うとおりにさせる手段はいくらでもある。町の人間はどうでもいい? 君はそんな奴じゃないはずだ。ほら、目を開けて周りをよく見てごらん。
クヌートは言われるままに顔を上げた。辺りは夜の闇に包まれている。生暖かい夜風が頬を撫でた。
「どこだここは」
彼がいるのは屋根の上ではなかった。空には満天の星々が輝き、草の中からは夏の虫の声が聞こえてくる。
――君がまだ思い出していない重要な部分だよ。誰にでも消したい過去はある。罪のない人間など存在しないのだから。……まあ、君ほどのものを抱えている人間は、そう多くないのだろうが。さあ、歩いてごらん。
クヌートは歩きたくなどなかったが、この時すでに自分の体が自らの意思で動かせなくなっていることに気が付き、そのまま歩き出した。きっとどこかに隙があるはずだと彼は思った。悪霊が肉体的な痛み以外の方法を使ってくることも予測していた。ノーラの記憶を見た時、彼女は明らかに心に異常をきたしていた。それさえ乗り越えられれば、呑み込まれずに済むかもしれない。
――飽くまで乗り越えられればの話だがね。
頭で考えていることすら筒抜けになっているのか、悪霊は当たり前のように返事をしてくる。クヌートはできるだけ何も考えないように努め、ひたすら歩き続けた。しかし声が止むことはなかった。
――考えても見てくれ。君の記憶にはいくつか奇妙な点があると思わないか? 強制的に王都へ連れてこられ、トロール殲滅部隊の一員として悪夢のような日々を強いられた。置いてきた家族のことが心配で、思い通りにならない境遇から抜け出したくて、何度も脱走を試みては失敗し、その度に傷を作った。だが、一度だけ君は仲間たちの手を借りて脱走に成功している。よく晴れた夏の夜に……そう。まさにこんな夜だ。
クヌートは自分の体に鳥肌が立つのを感じた。
――ひとつ質問だ。何故、君は戻ってきた? ようやく手にした自由。血と暴力にまみれた世界からもおさらばだ。あの日、君は自分の生まれ故郷に向かって一心不乱に走った。家族の無事を祈りながら、走って走って、走り続けた。そうしてやっとの思いで故郷の村にたどり着いた。それなのに、何故君は……
「黙れ」
クヌートは全力で抵抗し、歩みを止めた。痛みを感じなくとも、全身が激しく引き攣る。彼はありったけの力を使ったが、結局諦めてすぐに歩みを再開した。抵抗する一方で、自分は心のどこかで真実を知りたがっている。そんな気がした。
饒舌な悪霊はべらべらと一方的に話を続けた。
――君は村で、あることを聞いたんだったね。忘れてしまっていても、頭の中にはちゃんと残っている。生きている限り、記憶が完全に頭の中から消え去ることはない。ただ、隠してしまっているだけなんだ。ビョルン。真っすぐ前を向け。何が見える?
悪霊の示す方向には小さな明かりが見えた。村の明かりのようだ。広漠とした草原の向こうに、朽ち果てた小さな村が見えた。
自分の中にある幼い心が内側で騒ぎ出すのをクヌートは感じた。嫌だ。そっちには行きたくない。あの言葉を聞いてはいけない。
――ビョルン。お前ならいつかここに来ると思っていた。この村にはもう誰もいない。あの日、盗賊たちはすべてを奪っていった。お前の家族も例外じゃない。皆、死んでしまった。
この場所へ連れてこられる直前に、突如耳元で聞こえた謎の声。聞き覚えのなかったその声は、村を目にした瞬間、ある確信へと姿を変えた。雷に打たれたような衝撃と、心臓を掻き毟られるような不快感が同時に押し寄せた。
――そう。残念なことに君の家族は全員死んでいたんだ。ビョルン。君には帰る場所がなかった。でも、理由はそれだけじゃない。問題はここからだ。そうだろう?
問題はここから。その言葉に再び心が騒めきだす。記憶の底に沈んでいた真実が、闇の中からゆっくりと浮上し始めた。
――もうすぐ彼はここへやって来る。
悪霊がそう言うと、目の前の草むらでガサガサと音がした。誰かが走ってこちらへやって来る。それがいったい誰なのか、もうクヌートにはわかっていた。
草むらから飛び出してきたのは、かつての自分だった。酷く動揺した様子で走り去る彼を、クヌートは無意識に目で追った。幼い自分は両手と顔を朱に染め、左手には血濡れの斧が握られていた。ほんの一瞬のことだったが、その血が誰のものであるかも彼はすぐに理解した。
――あれは別に追わなくていいんだ。彼がいったい何をしてしまったのかを見に行こう。
「もう十分だ。自分が何をしたか、俺はわかってる」
――いいや。思い出したつもりになっているだけさ。さあ歩け。
一歩、また一歩とクヌートは草を踏みしめた。前進する体とは裏腹に、意識だけが後ろへ引き返したがっている。
奥深くに沈めておいた記憶が完全に顔を出し、頭の奥から男の断末魔が近付いて来る。意味がないとわかっていても思わず耳を塞いでしまう。すると、足元にあった何かにつまずいた。
――ごらん。これをやったのはさっきの彼……つまりかつての君だ。
つまずいたのは男の死体だった。雲の切れ間からぬうっと青白い満月が顔を出し、クヌートの眼前に血濡れの草原を照らし出した。死体は全部で五つ。男が三人、女が一人、幼い子供が一人。男のうちの一人は無残に喉笛を喰い破られている。
クヌートはさっき見た自分の口周りが真っ赤だったことを思い出した。むせ返るような鉄の味が咥内に広がる。
――初めての人殺しにしては、君は本当に惨いことをしてしまったようだ。よく見てごらん。今の君ならわかるはずだ。君は、彼らが何に見える? 盗賊? それともトロール?
「……違う」
――そう。どちらでもない。旅の途中で休んでいた遊牧民の家族だ。君は何の落ち度もない彼らをその場の感情に任せて惨殺し、その場から逃げ去った。女子供の首を跳ね飛ばし、家族のために必死で抵抗する男の喉笛にまで喰らいついた。とても常人の成せるものではない。よくもこんな酷い仕打ちができたものだ。嫉妬かい? それとも彼らが盗賊にでも見えたのかい? 罪悪感から再び軍に戻り、自らを犠牲にする道を選んだのはまだいいが、どうやったらこんな記憶を忘れることができるんだい、ビョルン。君は可哀そうな被害者なんかじゃない。痛みを感じなくなったのは実験のせいなんかじゃない。君自身が強く望んだことだったのさ! 痛みに纏わる感情を勝手に封印してしまっただけのこと。
せり上がってきた胃酸で焼けるように喉が痛む。何か話そうとしても吐き気がして、言葉は喉の奥へと戻される。悪霊は静かに、しかし嬉し気に続けた。
――今まで君の過去を知った者たちはすべからず君に同情し、親切に接してくれたことだろう。ヴァン、スロ、そしてノーチェ……彼らはこの真実を知らない。でも、もし知ってしまったら、いったいどんな反応をするだろう?
久しぶりに感じる痛みが、耐え難いほどに苦しかった。
――もし君が私のものになり、ヨルンの人々を見捨ててくれるのなら、私はこの記憶をなかったことにすることができる。ノーチェたちもこの真実を知らずに済む。君に酷い仕打ちをした軍への復讐にも手を貸そう。でも、もし断るのなら、私は君を呪うだろう。君は死ぬまでこのトラウマを何度も反芻し続けることになる。決められた時が来るまで、自ら命を絶つことも許されない。そしてノーチェたちにも真実を知ってもらおう。君は本当の意味で独りぼっちだ。
「どんな手を使ってくるかと思えば……」
――君は下調べが足りなかったようだ。いや、違うな。むしろこうなることをずっとどこかで望んでいたんじゃないか? いつか自分の罪を思い出す日がやって来たらどうしようと怯えていたんじゃないのか? 残酷で、不都合な現実を完全に消し去ってくれる存在を、どこかで望んでいたんじゃないのかい。なあ、ビョルン。結局君が救いたいのは、自分だけだ。
悪霊がそう言うと、再び頭の奥から断末魔がやって来た。




