取引
「ほう。私の復讐を赦す代わりに、君の復讐にも加担しろと?」
悪霊の目に、微かにだが力が宿ったように見えた。クヌートが無言で頷くと、悪霊はゆっくりと彼のほうへ歩み寄ってきた。動かしづらい身体を引きずるようにしてやっと動かしているように見える。
二つの落ち窪んだ目がじっとこちらを見つめる。頭の中に素手を突っ込まれたような、不快な感覚がクヌートを襲った。まるで今までの人生を覗き見られているかのような焦燥感が頭の中をのたくっている。
「君は……酷い人生だったろう」
悪霊はただ一言そう言うと、クヌートから目を逸らし、少し後ろに下がった。
「さぞ悲しく、悔しかっただろうね。自分の力ではどうにもならないとなると」
悪霊は静かにその場に膝をつき、口を大きく開けた。
取り憑いた男の口から、どす黒い煙と一緒に無数の赤黒い手足が虫のようにわさわさと這い出てきた。それは間違いなく、マルタに取り憑いていたものと同じ化け物の姿をしていた。
男から這い出た悪霊は、そのままずるずるとクヌートの方へ這ってきた。
――よし、そのまま来い。
クヌートは心の中で呟いた。
悪霊を自分の中に封じたまま町を出ていくことができれば――誰も悪霊を殺す術など知らないのだ。ならば、自分の身体が朽ちるまで閉じ込めてしまえばいい。閉じ込めた後は誰の足も届かないどこか遠くへ行ってしまえばいい。かつて悪霊に呑み込まれた魔女がそうしたように。
以前、レオンから聞いた話では、悪霊は暗闇を好み、激しい痛みで人間を支配するらしかった。痛みを忘れ、家族すらいない脱走兵にはもってこいの役目である。もしこの試みが成功するなら、一人では何も変えられなかった幼い日の自分を救ってやれるような気がした。ブランカを亡くし、記憶を取り戻し、ハンナの身の安全を確保した今、クヌートには生きる目的など残っていなかった。どうせなら自分の存在が何かを変えるところを、誰かを救うところを見届けたい。
しかし、それとは別に、クヌートは何かとてつもなく重大なことを意識し忘れているような気もしていた。切実な思いの中に紛れ込んでいる異物。これまでに幾度となく巡ってきた機会をすり抜け、まだ心の奥底に沈んだままでいる、どうしても思い出せない記憶の断片を彼は感じていた。
――頭の中に何かが足りない。一体、何なんだ……?
悪霊はクヌートの方へ近づき言った。
「取引自体悪い話ではないが、悪霊の器になるからには相応の条件というものがある」
「条件?」
「大した条件じゃない。君の人生や感情を、そっくり私の中に取り込むんだ。そして君の中にも私は取り込まれるだろう。心配ない。詳しいことは後でわかるさ」
悪霊は気味が悪いほど淡々としていた。そしてその瞬間、目の前が暗転し、物音ひとつ聞こえなくなった。身体の機能がすべて停止するような恐怖感に、クヌートは思わず逃げ出したくなった。五感をすべて奪われた彼はなすすべもなく暗闇の中に取り残された。
暫くすると、目の前にぼんやりと青白い光が差し始め、身体の感覚が徐々に戻ってきた。仄かな光はまるで長い洞窟の出口のように見えた。それは段々と大きくなり、クヌートの目の前までやって来た。
青白い光の中から、誰かの囁く声が聞こえてくる。ひそひそと、呪文を唱えるような女の声。時々鼻を啜るような音と、不規則な呼吸が混ざる。自分の全く知らない記憶が入り込んできている。どうやら悪霊が言っていた「君の中にも私は取り込まれる」とはこのことらしい。
ぼんやりと視界が開け、薄暗い森に独り佇む少女が現れた。両目を腫らし、あかぎれだらけの両手に息を吹きかけながら、何かを必死に唱えている。彼女の足元には、血に汚れた袋と動物の死骸があった。
――ごめんなさい。私がこんなだから、助けてあげられなくて……いつもいじめられてばっかりで、おまけにこんなことにまで利用して……
少女はそう言って死骸を撫でた。その言葉だけはクヌートにも聞き取ることができた。
やがて、森の至る所から小枝を踏みしめる音が近付いてきた。一体ではない。複数の何かがこちらに向かってやって来る。少女は地面に頭を付けて、早口で何かを囁いた。
――魔女だ。
クヌートははっきりそう思った。自分は今、一人の少女が魔女になる瞬間を目撃しているのだと。
木々の間から無数の青白い光が集まってくる。それは少女のやせ細った身体を瞬く間に包み込み、すっと消えた。あの悪霊だとクヌートは直感的に思った。今とは全く違う姿をしているが間違いない。あの悪霊が、まだ美しい精霊だったころの姿だ。
クヌートは少女のもとへ駆け寄ろうとした。しかしそれとほぼ同時に両足が地面に沈み、そのまま深い深い地の底へ落下した。
――ノーラ。どうかこの村をお救いください。
――あなたにしかできない。代わりはいないのです。どうかお願い。
所変わって薄暗い雪空の下、少女は村人たちに跪かれている。彼女の名前はノーラというらしい。森の中にいた時とは打って変わり、彼女の目には安堵の色が浮かんでいた。悪霊の言う「私たち」とは、どうやらこのノーラと自分のことであるらしい。
――ねぇ聞いた? スーヴァ村の魔女、一人殺されたらしいわ。
――最近多いわね。この村もそろそろかしら。近頃野蛮な移民が増えて、ノーラに否定的な人も増えてきたし……下手に庇わないほうが良さそうね。巻き込まれるもの。
時が流れると、やがて人々の意見は変わり始めた。時代の流れに伴い、村は不穏な空気に呑まれていく。
破滅のきっかけを作ったのは、村長とその息子だった。
――隣の村はもう魔女を殺したそうだ。もしこの村が魔女を崇拝しているなんてことが外の人間に知れたら、我々の身が危ない。すぐにでもやるべきだ。
――何を言ってるんだ父さん。今まで散々あの方に頼ってきたくせに。勝手すぎる。
――黙れ! お前のような平和ボケした人間が人々の決断を鈍らせ、危険に晒すのだ。
口論の様子を、ノーラが空き家の陰から密かに覗き見ている。クヌートは嫌な予感がし、すぐにでも彼女を止めに行きたかった。だが身体は竦み、ただ見ていることしかできない。
やがて、激高した息子が村長に掴み掛かった。年老いた村長はいとも簡単に突き飛ばされ、固く凍った地面に頭を打ち付けると、そのまま動かなくなった。息子は暫くの間、青ざめた顔で呆然とその場に立ち尽くしていた。
――おい。村長が死んでるじゃないか! いったい誰がやったんだ?
村の人間がやって来て叫んだ。息子は少しばかり間を置いて、こう答えた。
――違う。俺じゃない。魔女だ。魔女がやったんだ。俺、見たんだよ。
――なんだと……やはり噂は本当だったか。面倒だが、うちの村もやらなければならないようだ。皆を守るためにも。
その瞬間、ノーラの中で何かが切り変わったように見えた。彼女の背中から赤黒く染まった無数の腕が生え始める。それは間違いなく悪霊の姿そのものだった。
悪霊は彼女のやせ細った身体を瞬く間に包み込むと、じわりじわりと自身の体内に取り込んでしまった。
ほんの一瞬、稲妻のような閃光が走った。クヌートには何が起きたのかわからなかったが、次の瞬間には二人の男は地面に伏していた。辺りには赤い飛沫が火の粉のように舞っていた。
――化け物! 今すぐ魔女を火炙りにしろ!
村人の怒声がこだまする。直後、ノーラの中で憎しみに満ちた力が暴発し、邪悪な呪いが村人たちを呑み込んだ。真っ赤に煙る霧の中で、クヌートは成す術もなく呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
そこでノーラの記憶は途切れ、再び真っ暗な闇が彼の視界に下りてきた。
――雪崩だ! 逃げろ!
静寂を引き裂くような怒号が背後で聞こえ、かつて見た情景が息を吹き返した。気の遠くなるような暗闇が、突如真っ白な雪壁に埋もれる。頭の中でノーラと自分の感情が混ざり合った。
――何やってるんだビョルン。逃げろって言っただろ!
――いいか、下手に騒いだり暴れたりしたらその場で首を切り落とすからな。その代わりじっとしてさえいれば、王都へ連れていってやる。
――なあ、トロールを見たことがあるか? 底辺の仕事だ。死者が多くでるから、死んでも困らないような、いらないヤツがやらなきゃならないんだ。
従兄の胸に刺さった矢、強引に腕を掴んだ盗賊、荷馬車の隙間から遠くを見つめるヴァン。恐怖に潰されかけた幼い感情がまざまざと甦り、再び脳裏にこびりつく。
――随分と元気がなさそうだが、この子は優秀なのか?
――反抗心が強いのは問題ですから、それをへし折る為にもこの実験はうってつけかと。本人も納得しているようですし。
――ビョルン。この村にはもう誰もいない。皆死んでしまった。
かつての情景が生々しく甦る中、突如重苦しい声が耳元で聞こえ、これまでの流れはブツリと絶ち切られた。




