後悔しても
レオンは一歩も動けずに、ただその場に立ち尽くしていた。背後からノーチェのものと思わしき怒鳴り声が聞こえるが、何を言っているのかまるでわからない。ふわふわとした意識の中で、誰かがナイフを持った右手を引っ張った。あまりの力強さに思わずよろけ、力なくその場に崩れ落ちる。
目の前に誰かがいるが、視界がぼやけてよく見えない。手足がガタガタと震えているのがわかる。そのまま呆然としていると、右の頬にピリッと鋭い痛みが走り、そこでようやく我に返った。
目の前にヴァンの姿があった。怪我をしているが、どうやら上手く逃げ切ったらしい。いや、そんなことより――
「皆は? クヌートは!?」
周りには誰もいなくなっていた。クヌートの掌から滴り落ちた血が、雪の上に点々と残されているだけである。
「大丈夫だ。あいつもわかっていて飛び込んだはずだ。恨んじゃいないさ。痛みがわからない分、どこを負傷すれば危ないのか熟知しているからな。ちゃんと意識もある。でもまだ行くなよ。ノーチェが荒れてるからな。たぶん、お前に怒ってるわけじゃないだろうけど」
「……ハンナは?」
「生きてるぞ。先にこの街から出した方が良いな。クヌートの応急処置が済んだら一緒にアウロラに託すつもりだ。ブランカの弟子の所へ急いで貰う。お前も一緒に行くといいよ。俺たちはここにやってくる人間と、例の悪霊を何とかしなきゃならないからな」
「悪霊って……」
「もうわかってるだろうが、お前の読みはハズレだ」
不安そうに眉間を寄せるレオンにヴァンは容赦なくそう言い放った。冷たい汗がレオンの額から流れ落ちる。彼は静かに頭を抱えた。
「俺たちがハンナを助けに行っている間、あの家で何が起こったのかはよくわからない。でも奴がマルタに取り付いていたことは確かだ」
「あの人、マルタっていうのか」
「ああ。たぶんカールが家に入ってきた時には、もう……」
「カール?」
「マルタの息子だ。スロの隣に住んでる。ほら、お前が広場で助けようとした男だよ」
レオンの頭にじわじわと冷静さが戻ってきた。少し前の自分がいかに狂っていたか、この時はじめて気が付いた。
「なあ。昔、ある奴がこんなことを言ってたんだよ」
ヴァンは放心しているレオンの肩にそっと手を置き、少し目線を泳がせた後、何かを決心したように切り出した。
「うまくやるコツは、恐怖心を否定しないことだ。丸ごと受け入れなきゃならない。怖がっている自分を認識するんだ。『何も恐くない』なんていう暗示は掛けるな。それなら乗り越えた先に得られるものを考える方が良い。何が恐いのか、何故恐いのかはっきりさせることができれば、恐怖を味方に付けることができる。恐怖すら感じられなければ、今頃俺はここにいない。痛みを殆ど感じない人間にとって、恐怖心は最大の味方だ。排除してしまうと返って死期を早めることになる――だそうだ」
「できるかな。そんなことが」
「少なくとも、クヌートぶっ刺して目が覚めたろ?」
「そうだね。クヌートに謝らないと。謝っても、全然足りないけど……」
ヴァンがレオンの元に残っている間、家の中には何とも言い難い空気が漂っていた。マルタはカレンにすがって泣いており、その横ではノーチェが今にも噛みつきそうな形相で窓の外を睨んでいる。
「クソ。何でこうもうまくいかない。スロ、見てたんだろ。あの化け物どこへ行った。引き摺り出して火炙りにしてやる」
ギリギリと歯を鳴らすノーチェに対し、スロは至って冷静にクヌートの手当てをしている。
「なんでそんなに落ち着いていられる」
「落ち着いてなんかいないさ。今にも心臓が口から飛び出しそうだし、君たちがいなければすぐにでもやつを殺したいところだ。だが、奴は消えてしまった。また誰かの中に入り込んだかもしれない。……ビョルン、痛くないか?」
スロの呼びかけにクヌートはゆっくりと頭を持ち上げた。
「痛いも何も」
困ったように眉間を寄せる。
「ああ。確かに、君はそうだったな。だから飛び込んだのかい? 君にしては随分と意外な行動だったね。暫く見ない内に変わったもんだ」
スロの問いにクヌートは口を継ぐんだ。正直なところ、自分でも何故あそこに飛び込んで行ったのかよくわからなかった。何故かふと、そうすればレオンが正気を取り戻すように思え、咄嗟に飛び込んでしまったのだ。
「まあ、それにしても、ハンナを連れていった連中はどうしてわざわざうちを選んだんだ? ハンナの存在を知っていたんだろうか?」
スロが話題を変えた。
「まず考えられるのは――」
ノーチェが二人の会話に割り込むように間に入った。腕の中にはハンナがいる。
「この街に入る時にやり取りした門番だ。あいつに目を付けられていた可能性がある。もしくは――」
ノーチェは口にするのも嫌といった様子で顔をしかめた。
「奴にも、あいつらを嗾ける時間はあったはずだ。カールが助けを呼びに来た時、奴は家に一人だった。通りがかった人間に隣の家が怪しいとでも言ったんじゃないか? そいつは一人で乗り込むのが怖かったから、仲間を集めて戻ってきたのかもしれない。くそ、思い出したら腹が立ってきた」
苛ついたノーチェが頭を搔きむしる。
「これで良し。急いで外に出るぞ。アウロラはもう来ているのか?」
「クヌートが呼べばいつでも来る」
ノーチェがそう言ったのとほぼ同時に家の扉が開かれ、その場にいた全員が注目した。赤い目をしたレオンの後ろにヴァンが何とも言えない顔で立っている。
数秒間気まずい沈黙が流れたが、レオンは自らその沈黙を打ち破った。
「ごめんなさい」
彼は言った。
「皆には本当に馬鹿なことをしてしまって、何度謝っても足りないくらいだ。だから……だから俺――」
しかし彼がそう言いだした瞬間、その言葉を遮るように背後から男が勢いよく飛び込んできた。盛大に突き飛ばされたレオンはバランスを崩してその場に倒れ、冷たい床に強かに腰を打ち付けた。
「お、おい! やべぇぞ皆!」
乱暴に飛び込んできたのはカールだった。彼は騒ぎに乗じて何とか逃げ出したものの、独りで暫くこの辺りを逃げ回っていたようだった。
「ん、お前は……」
クヌートはカールの方をまじまじと見た。
「え?」
カールの方もまた、クヌートの顔を間抜け面で見ていた。お互い広場にいた時には気が付かなかったのだ。
クヌートの脳裏に数々の不快な思い出が浮かんでは消えていった。しかし、それはカールも同じだった。ある意味自業自得だが、クヌートさえいなければ家の屋根が破壊されることはなかったし、こんな町にわざわざ越してくる必要もなかったことだろう。
「あーっ、てめぇ! あの時の!」
カールは叫んだ。しかしクヌートの方が反応が早く、たちまち彼は床の上にねじ伏せられてしまった。




