魔が差す時
レオンはハンナをしっかりと抱え、異様な空気の漂う路地を一目散に走った。
ハンナを奪還した後はスロの家の裏手にある畑に向かい、そこでノーチェやヴァン、アウロラと合流することになっていた。
しかし、その途中でレオンはあることに気が付いた。ハンナが何かを話そうとしているのだ。何か伝えたいことでもあるのか、必死に右手を伸ばしている。
「いかないで」
何とか絞り出した声は今にも消え入りそうである。
「大丈夫だよハンナ。どこにも行ったりしない」
レオンはそう返したが、返事は返ってこなかった。
合流場所にノーチェとヴァンの姿はなかったが、既にスロと年老いた女の姿があった。しかし、何やら様子がおかしい。どういうわけかスロが女を地面に押さえつけ、暴言を吐いている。
「おいあんた、何してるんだ!?」
レオンがスロに向かって怒鳴ると、女がはっとした様子で顔を上げた。
「助けてちょうだい! この人様子がおかしいのよ! 私を殺そうとするの! まるで何かに取りつかれたみたいに!」
「違う! おかしいのは私じゃない。カールの母さんの中に奴が入り込んだんだ。だからこっちに来るな!」
スロはそう言って女の首根っこを掴んだ。
「きっと呪いに飲み込まれてしまったんだわ! この人の体には呪いの痣があるのよ。お母さまもさっき亡くなって……この災厄の原因もきっとこの人に取りついた悪霊の――」
「黙れ! 出鱈目を抜かすな! お前がやったんだろう! お前が母さんを殺した! 今すぐこの身体から出ていけ!」
レオンはわけがわからずハンナを抱えたままその場に硬直した。いったいどちらが本当のことを言っているのか、わかるはずもなかった。そればかりか、途中から合流した彼には二人が何者であるかすら全くわからなかったのだ。
「俺にどうしろって言うんだ……」
彼が迷っている間にも二人の言い争いはエスカレートしていく。ノーチェやクヌートたちもまだ来ない。腕の中では小さなハンナが身体の痛みに苦しんでいる。彼女の姉であるニナも、まさにこんな表情をして死んでいったことを、レオンは思い出していた。
「助けて。あなたしかいないの」
女が言う。「あなたしかいない」。それは、彼が誰かに言ってもらいたかった言葉だった。
その時ふと、ハンナの腰にナイフが刺してあることにレオンは気が付いた。それはハンナがノーチェの村を出る際に彼女の弟であるダグから貰ったものであった。
「魔が差した」とでも言うべきか、レオンはおもむろに鞘からナイフを抜き取り、研ぎ澄まされた刃先をスロと女の方に向けた。彼の中で、得体のしれない何かがゆっくりと頭をもたげはじめた。
自分から家族を奪った疫病神が、今目の前にいる。姉を殺し、妹を苦しめ、自分と父親を追い詰めた元凶。村人たちの罵声や汚い物を見るような目線は、今でも脳裏に焼き付いて離れずにいる。あんなに優しかった村人を醜い化け物に作り替えた人間の敵。忘れたくても決して忘れられず、これまでに何度も生きるのを諦めようとした。それでも生き続けてきたのは、まだ仇を取っていなかったからではなかったか。
今、目の前にいる人間のどちらかが家族の仇なのだ。
「君、いったい何を……?」
スロがレオンの異様な気配に気が付いた。
「俺には、どちらが本当のことを言っているのかなんてわからない。でも、どちらかが災いの元凶であるならば……やることは一つだ」
レオンはそう言うと、ハンナを雪の上に降ろし、二人の方へ一歩だけ近付いた。どちらか一方を選べないのなら、両方選んでしまえば良い。実に簡単なことだった。
「早まるな。私たち二人を君が殺したところで無駄だ。この人に取り付いている悪霊は、またすぐに肉体を脱出し、別の誰かに乗り移る。それは君かもしれないし、そこにいるハンナかもしれない。生み出されるのは誰かの屍だけだ」
ようやく我に返ったスロがなだめるように呼び掛ける。だが、それはむしろ仇となった。
「やっぱり、言い訳が随分と達者だな。俺はクソのような日々に何年も耐えながら、たった独りで魔女の情報を馬鹿みたいに集めてきたんだ。だから、奴らの口が上手いのはよく知ってる。そうやって村の人間を意のままに操ってきたんだろう? 今回だって、この場所から追い出された過去を恨んで、力を蓄えて復讐しに来たに違いない」
「待て。止すんだ。ナイフを仕舞え!」
スロは叫んだが、その瞬間レオンは彼の心臓目掛けて突進した。
「やめろ」
その時、突然スロでも女でもない声が聞こえ、何者かがレオンの視界を遮った。彼ははっと我に返り止まろうとしたが、間に合わなかった。右手に持ったナイフは鈍い音を立て、突如現れた人物の掌に突き刺さった。刃先が相手の肉にめり込み、鈍い音を立てながら向こう側に突き抜ける感触が手に伝わる。突き刺した反動で、自分の指も少し切れた。
頭の中は真っ白になった。何が起きたのかわからない。ただわかっているのは、自分が取り返しのつかないことをしてしまったということ。それだけだった。
灰色の目が、至近距離でこちらを見ている。突き刺さるような眼光に、レオンは己の心臓をズタズタに引き裂かれたように感じた。
「ビョルン。どうして……」
その場に呆然と立ち尽くすレオンの前で、スロがぽつりと呟いた。一方マルタはそんな彼を一瞥し、苛ついたように鼻を鳴らすと当前のように歩き出した。
「ああ、借り物の器は扱いづらくてかなわん」
去り際、ぼそりと呟いた言葉がその場にいた者たちを凍り付かせた。
「お前……!」
スロはマルタを追いかけようとしたが、その瞬間クヌートに服の裾を力強く引っ張られた。マルタは続けた。
「ここまで来るのに随分時間が掛かった。だが始めてしまえば意外にあっけない」
マルタはそう言うと、クヌートの方にちらりと目線を傾けて、何かを感じ取ったかのように薄ら笑いを浮かべた。そして糸の切れた人形のようにぱたりと地面に倒れると、口から影に似た黒い塊を吐き出した。影には人のものと思わしき無数の手足が百足のように生えており、その足の一本一本が地面を踏みしめたかと思うと、煙のようにふっと消えてしまった。その場にいた全員が戦慄した。
「なんてことなの」
それからどれだけ経ったのか、正気を取り戻したマルタがゆっくりと身を起こした。
「殺してしまった……」
赤黒い夜空が、冷たい雪を散らし始めていた。




