ビョルンだった頃
「ノーチェ、起きろノーチェ……!」
ヴァンの声がしてノーチェは現実世界に引き戻された。暖炉の炎はだいぶ弱くなっていた。
どうやらウトウトし始めてからずっと夢の中にいたらしい。
「なんか寒いなと思ったら。火を絶やすなよ」
「……ああ。今度から気を付ける」
ノーチェは額に浮かんだ冷や汗を拭い、トナカイのニナと一緒に眠っているハンナの姿を確認した。当然ながら痣の進行はない。自然と安堵のため息がこぼれた。
「大丈夫か? なんか、ここのところずっとそんな感じだな」
「ヴァン。クヌートは、やっぱり死んでいるかもしれない。夢で見たんだ。あいつは腐った身体でここまで歩いてきた。そして、ハンナの痣も悪化して――」
「それはあり得ない。そんなに柔じゃないはずだ。そうだ。昔のあいつを知らないだろ?」
ヴァンはノーチェの話を強引に遮った。
「あいつは、軍に入れられてから度々脱走を図るようなやつだったんだよな。村に置いてきた家族がどうなったか心配で仕方がなかったんだろう。弟と母親のことは特に心配してるみたいだった。俺はあいつが連れ戻されて殴られてるのを、よく他の仲間と見てた。最初はやめときゃいいのに馬鹿な奴だなって思ってたんだ。でも諦めないんだなこれが。何度殴られても懲りずに脱走計画を練るあいつの姿を見て、そのうち心を動かされる奴らが出てきた。俺もその一人だったよ。そこで、何人かで協力してあいつを外に逃がそうとしたことがあったんだ」
「どうせうまくいかなかったんだろ?」
ノーチェが冷めた声で言う。
「それがな。うまくいっちまったんだよ。わざと騒ぎを起こしてさ。どさくさに紛れてあいつを外に逃がしたんだ。あいつは冷たい川を渡って王都から脱出した」
「それじゃあ、クヌートは一度外に出てるのか」
「ああ、戻って来たけどな」
「戻って来たァ? 何のために?」
「さあな。それなりに理由があったんだろうけど、話す機会なんて貰えなかったし、詳しいことはわからない。で、それからが酷かったんだ。軍の建物の中には、実験部屋って呼ばれてる部屋があって、そこに連れていかれた奴は大抵自殺するんだ。クヌートが……ビョルンが変わっちまったのも、たぶんそこに連れていかれたのが原因だと思う。あいつは誰に抵抗するわけでもなく、見違えるように大人しくなったよ。人が変わったみたいだった。俺たちが脱走に協力したことも一切喋らなかった。あいつが何度か実験部屋に連れていかれるのを見かけた。据わった目で俺の方を見てた。何もしてやれなかったけど、もしかしたら『助けて』って言いたかったのかも知れない」
そこまで言うとヴァンはため息をつき、暖炉に薪を放り込んだ。
「何をやってたんだ。その部屋で」
「詳しいことはわからない。詳細を知ってるのは極々限られた人間だろうし。ただ、噂はいくつもあった。俺が聞いた話によると、痛みを感じない、口答えしない、負傷しても暫く動き続けられる便利な兵士を作る実験をしているとかいう……完成したら、そういう人間を掛け合わせて戦闘や労働に特化した子供を作るんだと。まあ、大抵その段階に至るまでに、皆死ぬんだけどな。でもビョルンは運が良かった。その実験をやってた博士が途中で死んだからな。なかなか結果を出せなかったもんだから、立場が危うくなって自害したんだとさ。まあ、誰かに消されたって噂もあったけどな」
「それで、実験は中断したのか?」
「ああ。でも、実験は成功してたのかもしれないぜ。ほら、あいつは痛みに鈍感だろ?」
ヴァンの言葉にノーチェはきょとんとした。
「クヌートが痛みに鈍感?」
「一緒にいて気が付かなかったのか? 俺は見たことあるぞ。あいつが千切れかけの中指をこっそり自分で捥ぎ取ってるところ。本人は誰にも見られてないと思ってるだろうけど。普通そんなことできるか?」
確かにクヌートの左手の中指は途中までしかない。ノーチェは思わず苦笑いを浮かべた。
「……ま、まあ、確かに何かと動じない奴だなとは思ったけど。まさか」
「気が付かなかったってことは、あいつ記憶をなくしてから随分と平和に過ごしてたみたいだな。今もまだあの時の記憶はないんだろ? 幸せなこった。そのままにしとけ。たぶん、いや絶対にその方が幸せだから。思い出させちゃ駄目だ」
ヴァンはまたため息をついたが、その顔はどこか安心した様子だった。それと同時に、眠っていたハンナが「うーん」と唸りながら寝返りを打った。
「……まあ、そういうことだから。俺は生きている方に賭けるんだ」
ヴァンは大雑把にそう言い、軽く深呼吸をすると暖炉に新しい薪を突っ込んだ。
クヌート:主人公。数年前に雪崩巻き込まれそれ以前の記憶が曖昧になっていたが、魔獣との戦闘により死にかけたことをきっかけにようやく記憶の大半を取り戻した。しかし、ある一点だけがどうしても思い出せない。
その件についてはヴァンが知っているのだが……
ハンナ:産まれて間もなく邪悪な魔女に呪いを掛けられた少女。左側の手足に痣がある。呪いを完全に消し去るため北の魔女の元へ向かっているが、最近痣の容態が悪化してきた。
口数が増えてきており、ノーチェの心情を気遣えるまでになってきている。
ノーチェ:クヌートの友人。気性が荒く口も悪いため、男性に間違われることがある。幼いころから森に入り、特技の弓で狩猟を行ってきた。クヌート一人にハンナを委ねることに不安を感じ、旅に同行する。
荒々しい一方で責任感も強く、ハンナに何かされると憤慨する。
最近は少々傷心気味。
ヴァン:かつてクヌート(ビョルン)と同じトロール狩りの部隊にいたという青年。クヌートよりひとまわり小柄で逃げ足が速く部隊にいたときも腰抜け呼ばわりされていた。クヌートが行方をくらませてから間もなく脱走し、レフの村で生活していたが、クヌートが消息を絶った為にノーチェたちに同行する。
よくドジを踏むが、他人の気持ちを察する能力には長けている。
レフ:地図にものらない山奥の村の村長。かなりの歳だが腕の良い猟師。ヴァンを拾い、弟子として育てようとしていたが、クヌートが消息を絶った為にノーチェたちに同行させる。
アレクシ:シュヘン村で出会った老人。トロールの襲撃に伴いクヌート一行と共に村を出た。それから暫くは旅路を共にするが、その後魔獣に襲われ命を落とす。
カール:しがない賞金稼ぎの男。
王都でビョルン(クヌート)の貼り紙を見つけ、その後偶然本人に遭遇する。そこに運命的なものを感じたのか、クヌートを捕らえて王都に引き渡そうとする。ドジ。
マルタ:作中名前は出なかったが、カールの母親。何かと威勢がよく、自分より何倍も大きいクヌートに対し錆びた斧一本で立ち向かおうとした。その形相はまるで魔女か鬼婆のよう。




