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白銀の国 ―極北のクヌート―  作者: 生吹
1.旅の始まり
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ノーチェの村

 冷たく澄みきった空気の中、クヌートは早々に旅の荷物をまとめ、庭にいた若いトナカイの背中に積んだ。ハンナは気持ちの整理をする暇もなかった。ただできるのは、目の前にいる大人の後についていくことだけだった。


 ブランカが死んだ翌朝、二人は一頭のトナカイを連れて住み慣れた小屋を出発した。ハンナは小屋から持ってきたブランカのネックレスを握りしめ、泣きながらクヌートの後ろを歩いていた。

「今日は山を下りて、一番近い村まで歩く。夕方には着くはずだ。そこで家から持ってきたものを売る。そこには知り合いがいるから何とかなるだろう」

 クヌートはハンナを気遣ったり、慰めたりするような真似はしなかった。それどころか、淡々とした口調でそう告げると、泣いているハンナからネックレスを取り上げてしまった。

「あっ……」

 ハンナは取り返そうと手を伸ばしたが、小さな彼女ではとてもクヌートの身長に適わなかった。

「後で返す」

 彼は抑揚のない調子で、ただ一言そう言った。


 真冬の山を下るのは容易なことではなかった。ハンナは時々深い雪に足を取られて転倒した。見かねたクヌートがかんじきを履かせたが、歩くペースが遅いので最終的にはトナカイの背中に乗せてしまった。

 お昼頃にようやく山を下り切り、広い雪原に出た。ここは雪さえなければ色とりどりの草花が咲き乱れる美しい草原で、動物たちの憩いの場にもなっている場所だ。しかし今は静かな白銀の世界が延々と続いているだけである。

 雪原の真ん中に、葉の落ちた白樺の木が佇んでいた。クヌートはその木の枝にトナカイの手綱を括り付けた。食事の時間だ。真冬の旅の唯一の楽しみである。

 持ってきた荷物を広げ、地面に軽く穴を掘り、乾いた白樺の皮や小枝を敷き詰めて火を着けた。小さな鍋に積もったばかりの雪を入れ、火の上で溶かしていく。ハンナは自分のリュックから干し肉を取り出した。干し肉は凍っていたので、火に近づけて溶かさなければならなかった。

「おなかへった」

 ハンナが言うと、クヌートがパンをちぎって寄こした。もちろん、パンもカチカチになっていた。

 二人が食事をしていると、真っ白な雪原の彼方に、黒い人影が見えた。距離が掴みづらいが、人影はどんどんこちらへ近づいているようだった

 クヌートは警戒した様子でじっとその人影を見ていた。やがて人影は一人の男であることがわかった。この辺りではあまり見ない黒髪で、クヌートよりだいぶ背は低いが、屈強そうに見えた。

「おい、お前たちこの辺でトロール見なかったか?」

 男はクヌートの顔を見ると、ふと思い付いた様子で尋ねた。二人は一瞬混乱し、互いに目線を送った。

「なんだ、そんなにびっくりするな。トロールを見たのか見てないのかって聞いてる」

「……見てない」

 二人はほぼ同時に答えた。クヌートは彼に対する警戒を解かなかった。

「なぜトロールなんか探すんだ」

 クヌートは男に問いかけた。どうも嫌なものを感じる。服を捲らずとも、全身に鳥肌がたっているのがわかった。

 黒髪の男は一瞬顔をしかめたが、すぐに「ふぅん。まあ、見てないならいいさ」と言って二人に背を向けた。

「最近、この辺りでトロールを見かけたとかいう話を聞いてな。……まあ、一応気を付けてな」

 男はそう言うと足早に立ち去っていった。



 クヌートたちが目的地の村に着いた時、太陽はすでに西の山の向こうへ沈み始めていた。

 村の門の前には門番が二人立っていて、そこでしばらく足止めを食らった。ここは山奥にある小さな村だ。そういう村は大抵、どこから来たのか、何という名前なのか、旅の目的は何なのか、何日間この村に滞在するのか、ありとあらゆることを質問されるものだ。だがここの門番はクヌートの名前を聞くと、あっさりと門を開けた。

 村に入ると、人々の目が度々二人の方に向けられることがあった。ある者はすぐに目を逸らし、ある者は熱い視線を送ってきた。

「ここどこ? あのひとたちしってるの?」

 ハンナは人々の視線から目を逸らすのに必死だ。

「よく来る。何度かブランカの家を空けていたことがあっただろう」

「ここにきてたの? おともだちがいるの?」

 ハンナがそう尋ねると、クヌートは一瞬立ち止まり、眉間にしわを寄せて小さく首を傾げた。ハンナは彼が少し混乱しているように思えた。それは意味の分からない単語を耳にしたような反応だった。

 ハンナが何か言おうかと迷っていると、一人の気の良さそうな初老の男がクヌートの背中を叩いた。

「クヌート? お前さんブランカの所に帰ったんじゃなかったのか? 赤毛のチビちゃんなんか連れてどうしたんだ」

 老人はクヌートの背中を軽快に打ち鳴らすと、ハンナの方に目を向けた。

「こ、こんばんは……」

 ハンナは老人から目を逸らしつつあいさつした。老人からは強烈な酒の臭いがした。

「へへ、怖がられちまったぜ! 無理もねえなチビちゃん」

 老人はヘラヘラしながら携帯していた酒をぐびぐび呷った。

「ノーチェに会いに来た。今、村にいるか」

 クヌートは軽く屈んで酒臭い愉快な老人に尋ねた。ハンナは老人の酒臭さに耐えかねてさりげなく距離をとった。

「どうしたクヌート。忘れ物でもしたか?」

 老人が返事を寄越すよりも早く、背後で声がした。クヌートとハンナが振り返ると、すらっとした若い男がいた。いや、男というのは、単にハンナがそう判断しただけである。

「あっ、お前がハンナか。前にこいつからちょくちょく話は聞いてたよ。初めまして」

 どうやらこの人物がクヌートの言うノーチェであるらしい。短く切られた黒い髪がさっき白樺の木の下で出会った男を思い出させた。

 ノーチェはハンナの目線の高さまで腰を下げ、引き締まった笑顔を見せた。

「へへ、おめえのこと男だと思って怖がってら!」

 初老の男は嬉しそうに手を叩いた。ハンナはますます混乱し、目の前にいるノーチェを凝視した。

「黙りなジジイ。性懲りもなく酒ばっか飲みやがって。いつまであの世とこの世の境を行き来するつもりだ? 気にしなくていいハンナ。ああ、でも一応言っておくと、私はこれでも女なんだよ」

 ノーチェは老人を一喝すると、再びハンナの方に向き直り猫なで声を出した。

「うん……」

 ハンナはノーチェの喉に喉仏の突起が見当たらないのを確認し、納得したように頷いた。

「で、何か用があってここに来たんだろ? 言ってみ」

 ノーチェは今まで黙っていたクヌートの方を向いた。

「ブランカが死んだ」

 クヌートは外套のポケットから手紙を取り出してノーチェに渡した。ハンナはその手紙を目で追った。クヌート宛ての手紙は読んでいないのだ。

「うわ。あの婆さんとうとう死んじまったのかよ。えーっと、『私はもう長くありません。私が()()()()ハンナを頼みます。この国の最北に私の元弟子がいます。彼女ならハンナの治療ができるはずです。手間をかけて本当にごめんなさい。ハンナを村に送り届けたら、あなたはどこへでも好きなところへ行きなさい。できるだけ遠くへ。そうだ。もし行く場所がなかったら、ノーチェさんを頼ったらいいんじゃないかしら?』……あんのババア。『なんなら一緒に連れて行くといいわ』私にお守り役押し付ける気か」

 ノーチェはそう言って手紙を折りたたむと、やや乱暴にクヌートのポケットにねじ込んだ。

「どうするかは、ノーチェに委ねる」

 クヌートが言うと、ノーチェは小さくため息をついた。しかし、本気で嫌がっているわけでもないようだった。

「ついてきなよ。とりあえず飯だ。こんな時間に外は寒い」

「わしも行って良いか?」

 ノーチェの言葉にすかさず老人が反応した。もうまともに立っていられないのか、右へ左へとふらふらしている。

「勘弁してくれよジジイ。良いも何も、おめえの家だろうが」

「でへへ、そうだった。俺の家かぁ!」

 どうやらこの飲んだくれ男はノーチェの家族であるようだった。ハンナは三人のやり取りをぽかんとした顔で眺めていた。




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