ブランカの笛
クヌートはゆっくりと起き上がって床の上に足を下ろした。違和感こそあるものの、たいした痛みはない。服の中をまさぐってみるが、武器になるようなものは何もない。すべてカールたちに奪われてしまったようだ。
盗られたものの中にはハンナから半ば強引に奪い取ったブランカの形見である首飾りもあった。あんまりハンナが泣くのでどうして良いかわからず、とりあえず原因を取り除こうと奪ってしまったのだった。
隣の部屋から足音が近づいてきた。クヌートはもう一度台の上に横になった。
彼はできることなら吹雪が止まないうちに逃げ出したいと思った。夜まで待つという手もあるが、昼間より気温が低くなるのでなるべく避けたいところだ。
「おい、餌を運んできてやったぞ。これが人生で最後の飯かもな」
湯気のたつ器を持ったカールが入ってきた。中身は豆のスープのようだったが、暖かい部屋で深靴を脱いだ後の足の裏のような臭いが漂っており、クヌートは顔をしかめた。一体どんな調理法を試したというのか。こんなものが人生最後の食事であって良い筈がない。
「あっ、お前手枷を!」
クヌートの両手を見たカールが間抜けな声をあげた。今ではクヌートが両手の自由が利き、カールの両手が塞がっている状態なのだ。
「おい、何をっーー」
カールが何か言い掛けるより早く、クヌートの右手が彼の喉を捕らえた。そのまま後ろに回り込み、腕で首を締め付けたまま床に倒れ込む。臭いスープが音を立てて床に跳ねた。
頸動脈をギリギリと締め付けていると、カールは声もあげられぬまま静かに意識を失った。もしかしたらこのまま殺してしまった方が良いのかもしれないと迷ったが、異変に気が付いたカールの母がこちらへやってくる音が聞こえ、クヌートは慌ててカールをドアの側から遠ざけ、自分は開いたドアの真後ろに身を隠した。
「なんだい騒がしいね! カール! どうしたんだい?」
母親が勢い良くドアを開けて入ってきた。
「カール!? あの男はどうしたんだい!?」
母親が床の上で干物のようにのびているカールに駆け寄った瞬間、クヌートはちょうど入れ違いになるかたちで母親がやってきた部屋に飛び込み、素早くドアを閉めた。
「なんだい!?」
母親は頓狂な声で騒ぎ出した。
「出といで腰抜け! よくも息子を! お前はとんだ腰抜け野郎だよ! 今すぐこの場で死刑になれ! よくも人の息子を……」
どうやら母親は自分の息子が死んでしまったものと思っているようだった。金切り声は家中に響き渡る。
「人殺し! 地獄に堕ちろ! 私がぶっ殺してやる!」
ドアの向こうからドタドタと暴れまわる音がする。
クヌートはドアの向こうで冷静に部屋を物色し始めた。この部屋は主に台所として使われているらしく、獣の血の臭いが染み付いていた。
テーブルの上には盗られたクヌートの私物が雑に並べられていた。その中にはブランカの形見である首飾りもあった。首飾りはよく見てみると笛のようになっており、フクロウの絵が彫られていた。
「さすがは悪い噂の絶えない所にいただけあるね! 人殺しなんてお手のものなんだろ! あそこは犯罪者と腰抜けの巣窟だ!」
背後のドアがガツンと音を立てて揺れた。
「これで首をちょん切ってやる!」
どうやら母親はどこかから斧を持ち出して、ドアを破壊しようとしているらしかった。あまりぐずぐずしている暇はなさそうだ。クヌートは私物をすべて服の中にしまうと、椅子に掛けられている毛皮を羽織った。どこかに売るつもりだったのだろう。毛皮はすっかり乾き、手入れまでされていた。
背後からメキメキと嫌な音がして、少しだけドアに穴が空いた。隙間から母親の血走った目がこちらを覗いている。
「そこだね。動くんじゃないよ……」
その形相はさながら狂った魔女のようだった。
クヌートはどこかに外に出られる場所はないかと探したが、そんな場所はどこにも見当たらない。ナイフを取り出し、母親を迎え撃つしかなさそうだと思った時、ふとシュヘン村での記憶が甦った。
ノーチェの笛だ。確か彼女はブランカから貰ったと言っていた。暴れ馬を鎮め、トナカイを呼んだあの笛。
ーーさすがに暴れ婆は鎮められないだろうが……
クヌートは自分の首に掛かった笛を見た。一見して何の変哲もない木製の笛だが、側面には小さな文字が記されていた。
『自らの犯した罪の認知と、当人の意思による告白もって、器の内は守られる』
どういう意味かはさっぱりわからなかったが、クヌートは戸惑いつつも笛を鳴らした。辺りに鼓膜をつん裂くような奇妙な音が響き渡った。




