水の底へ
夕闇が辺りを多い尽くした。冬の終わりとはいえ、森の中は暗くなるのが早いのだ。
魔獣から逃れたクヌート、ヴァン、レフ、アランの四人は身動きが取れぬまま、依然として森の中にとどまっていた。
あれから幾度となく魔獣に追い回され、一行は既に散り散りになっていた。
いつの間にか一人になってしまったクヌートは風下へ向かって歩みを進めていた。早いところ村へ帰りたかったが、一度目を付けられた状態で村へ帰る訳にもいかない。
暗い森にはほとんど音がない。昼間の姿とはうって変わり、まるで別世界である。
辺りを警戒しながら歩みを進めていると、前方から不穏な物音が聞こえてきた。
すぐにその場に屈んで耳を済ます。
クヌートはあまり視力は良くなかった。暗い森の中なら尚更だ。それでも音を聞いただけで、それが人間を喰らう魔獣の咀嚼音であることはわかった。
薄暗がりから、獣の荒い息使いと、バリバリという固いものを噛み砕く音だけが聞こえてくる。
奴がいる。間違いなく近くにいる。近くで誰かを喰っている。それが誰なのかはわからない。時折布を裂くような音もしている。
クヌートは、前にダズが取り落とした山刀を構え、ゆっくりと音のする方へ接近した。その時だ。
何者かが木の陰から飛び出し、彼の口を強引に塞いだ。さすがのクヌートもこれにはびっくりさせられ、その場に静かにしりもちをついた。
「やっと見つけたぞ、この……!」
彼の口を塞いだのはヴァンだった。
「誰だ。あそこで喰われてるのは?」
「レフ爺とアランは今一緒にいる。お前が生きてるなら、あれはダズかアレクシだろうな。気の毒に……」
魔獣はまだ二人の存在に気がつかずにいるらしく、死人の肉を下半身からバリバリと喰らっている。
「俺たちの反対側にレフ爺とアランがいる。俺の合図でヤツの目の玉目掛けて毒矢を射つ。暗いからちゃんと当たるかはわからない。特にアランはな……俺たちは今、ヤツのケツ側にいる。足を斬れクヌート。俺は右側、お前は左側だ。記憶はなくとも体は覚えてるはずだ」
ヴァンの説明にクヌートは黙って頷いた。
ヴァンは木の陰に隠れて立ち上がり、大きく振りかぶって右手に持っていた石を投げた。石は綺麗な弧を描いて飛んで行き、遠く離れた木の幹に当たってカツンと小気味の良い音を立てた。
音に気づいた魔獣がふと顔を上げた。その刹那、両の目玉に毒矢が放たれた。一発は見事に命中し、もう一発は瞳孔から少しずれた場所にめり込んだ。
「行くぞ」
ヴァンがクヌートの肩を叩いた。その声は恐怖心によるものか、震えているようだった。
一方、クヌートの方は不思議と恐怖心や焦りはなく、ひとつ息を吸い込むと、力強く雪を蹴って木の陰から飛び出した。自分は絶対に大丈夫だという確信があった。
しかし、巨大な魔獣は毒矢を射ち込まれ、視力をほとんど失っても元気に動き回った。
とにかく動きを封じようと二人は奮闘したが、うまくいかない。そうして手こずっている間にも、辺りはみるみる暗闇に包まれていく。レフもアランも、こうなると無闇に矢を放つことができなくなった。
「心臓だ! 心臓を抉れ!」
ヴァンがそう叫んだのと同時に、魔獣の振り回した尾が彼の腹にぶつかり、軽々と吹っ飛ばされた。クヌートは魔獣の腱を切ることを諦め、心臓に刃を突き立てようと、魔獣の腹の下に素早く潜り込んだ。魔獣の腹からは酷い悪臭がした。
かなり近いところでレフの声がした。だが何を言っているのかまるでわからない。それどころではないのだ。
感付いた魔獣が暴れ、クヌートを踏み潰しに掛かった。しかしほとんど目が見えていないのか、闇雲に暴れまわっている。
クヌートは腹の毛にしがみつき、魔獣の体に刃を突き立てた。すると強い振動が何度かあり、危うく振り落とされそうになった。吹き出した熱く生臭い血が、顔に掛かる。
「うっ……」
その悪臭に思わず顔をしかめる。魔獣が元気に動き回っているところを見ると、どうやら心臓は外したようだった。
もう一度肉を引き裂くと、今度は手応えがあった。吹き出る血の量が全く違う。
しかしそう思ったのもつかの間、一瞬辺りが明るくなり、氷の割れるような音と同時に、冷たい水が突として気管になだれ込んできた。
生臭く暖かな血と、身を引き裂くような冷たい水の感覚に一瞬頭が混乱したが、すぐに森を抜けた所にある川に落ちたのだとわかった。薄くなり始めていた氷が魔獣の重さに耐えきれず、割れたのだ。
クヌートは真っ暗な水の底に突き落とされた。元々泳ぎは得意な方だったが、視界が悪い上に魔獣の体が邪魔をして水面に上がれない。魔獣の心臓から出た血液が水を濁らせている。その中にぼんやりと月明かりのような仄かな光が見えた気がした。
それは、彼が水の中で見た最後の光景だった。
次回、新章突入。




