襲撃
雪の上には点々と赤い血が散りばめられ、見たこともないほど巨大な足跡が残されていた。辺りはしんと静まり返っており、小鳥の囀りすら聞こえてこない。
「俺たちが村に戻ってすぐに、ここにヤツが来たんじゃないか? 人間の臭いを警戒して、どこかに持っていったのかもしれない」
ヴァンが辺りを警戒しながら小声でクヌートに囁く。
「まだ近くにいるぞ。毒矢を構えておけ」
レフもまた囁くと、着いてきた二人も辺りを警戒しはじめた。
「レフ爺、この足跡を追おうぜ」
アランが言った。彼はクヌートやヴァンより一回り歳上で、ダズの従兄である。手に持った山刀をぎらつかせ、いかにもやる気満々といった様子だ。
「いや、待て」
それをレフが落ち着いた低い声で制する。
「ここにある遺体を囮に誘き寄せようと思ったが、一旦撤収だ。今足跡を追っても遅すぎる。すぐに暗くなるだろう。そうなったらおしまいだ。あいつは夜に活発になる。帰って、別の方法を考えるぞ」
「ちぇっ、飯なんか食ってる場合じゃなかったな。あの熊が村人を喰ってないとわかった段階で、ここにぶっ殺しに来れば良かったんだよな」
ダズが雪の上に唾を吐いた。
「よせ。今さら。ここにあったって死体は保存用に埋められていたんだろ? こんなにすぐになくなるのは珍しいと思わないか? だってーー」
ヴァンが不機嫌なダズにそう言いかけた時、ふいにクヌートが彼の肩を叩いた。「おい。あの木の上を見ろ。何だあれは」
クヌートは巨大な足跡の続く方向を指さしていた。
「本当だ。何かある。そこの木の上だよな?」
レフもそれに気がついたらしく同じ方向を指差す。かなり離れてはいるが、木の上に何かがぶら下がっているように見えた。
一行はその木の元まで歩き出した。近づくほどに、その正体は明確になっていく。だらりと垂れた手足と血の気の引いた顔。アレクシの遺体だった。
「ひどいな……」
ヴァンは思わず顔をしかめ、背を丸めて後退りした。
「こんなのははじめて見た。これも熊の仕業なのか? もう既に仕留めた保存食を、今さら何のために……」
アランがそうつぶやいた直後、森の奥から嵐の前の雷に似た低い唸り声が聞こえた。
全員、一斉に声のした方を振り返る。そこには、今までに見たこともない巨大な化け物の姿があった。
ずんぐりとした体は錆色の斑模様で、そこから四本の巨大な足がつきだしている。それはまるで、足にかんじきをはめているように見えた。真っ黒な爪は何でも貫けそうなほど太く、先端は雪に深くめり込んでいる。そんな体に対し、顔の方はいくらか小さく、今朝仕留めた熊と同じくらいか、それ以下だった。一見、狼の顔のようにも見えるが、尻尾は狐のようにふかふかの毛で覆われていた。
「何だあれ。熊じゃねえじゃん」
「あれは……魔獣か? なんでこんなところに」
「しっ……! お前たち声を出すな」
驚愕するアランとダズに、レフが小声で注意する。だが、化け物は口からねばついた涎を撒き散らし、全速力でこちらに向かって突進してきた。
全員が散り散りになって魔獣をかわした。しかし、ダズひとりだけが逃げ遅れた。
太く重い前足が、彼の腰骨を一撃で打ち砕く。喉の奥から絞り出された断末魔が、その場にいた全員の足を止めた。
レフが素早く反応し、すぐさま魔獣に向かって矢を放ったが、雪の上に投げ出されたダズは、そのまま魔獣に踏み潰されてしまった。その様子を目の前で見せられたアランの絶叫が、辺りにこだまする。
「うろたえるな。背を向けるな」
レフは冷静にもう一度矢を射った。彼の放った毒矢は、二本とも眉間に命中していた。しかし、魔獣は一向に動きを止めない。それどころか、口にくわえたダズの身体を凄まじい勢いで森の奥へ引き摺っていく。
「やめろ! そいつを連れていくな!」
半狂乱になったアランが魔獣を追いかけようと走り出した。その襟首を、クヌートが力ずくで引っ張る。
「無理だ。もう助からない」
クヌートは、ダズが既に絶命していることを確信していた。彼が魔獣にくわえられた時、瞳孔の開ききった瞳とがっちり目が合ったのだ。それは、今までに幾度となく見てきた死人の目だった。そして彼は、その目を見た瞬間、自分の頭の中で何かが脈打つような奇妙な感覚に襲われていた。かつての感覚が生々しく甦る。
「でかしたクヌート!」
暴れるアランを駆け寄ってきたヴァンと一緒に押さえる。
「まだ、まだ生きてるかもわからねえ!」
「落ち着いてくれ。もう無理だ!」
ヴァンが声を荒げると、アランはようやく落ち着きを取り戻し、雪の上にへたりこんだ。
「くそぅ。なんてこった。罠に掛かったのは、わしらの方だったと言うわけか」
レフがぽつりとつぶやいた。三人はただ黙って彼の話を聞いていた。
「あの魔獣をやらない限り、わしらは誰ひとりとして村には戻れん。ぐずぐずしていると日が暮れる。闇に視界を奪われる前に、必ず、奴を仕留めるんだ」
【魔獣】
主に南の森に生息する巨大で狂暴な獣を指す。大抵は醜い姿をしている。
トロールほど数は多くないが動きが素早い。北側にも多数生息するが、トロール同様身体も小さく、数も生息地域も限られている。北の人々からは時に神や精霊の一種として認識されていることも。




