暖かい場所
ブランカという魔女の家まで行くのは一苦労だった。
まず丸一日歩き、小さな村の近くで夜を越し、そこから半日かけて平原を歩き、山を登った。途中の平原で遊牧民の男は仲間を待たせることにしたらしく、山には四人と一頭のトナカイとで登ることになった。
レオンは雪の降り始める前に遊牧民と出会えて本当に良かったと思った。もし積雪があれば、今よりずっと困難だったはずだ。
ブランカの家に着いたのは、その日の午後になってからだった。年老いた魔女は、ハンナを引き取ってくれたばかりか、クヌートも是非預かりたいと言った。
「最近力仕事ができなくなりましてね。ちょうど一人、力のありそうな人が欲しかったの。魔女といえども、そろそろ限界が来たようよ。さあ上がってちょうだい。いい時間に来たわね。お茶しましょう。キイチゴジュースがあるわ」
ブランカはどこか嬉しげだった。彼女はハンナを見た瞬間、「まあ可愛い」と言って何のためらいもなく抱き上げた。久しぶりに見る光景だとレオンは思った。
「いや、ブランカ。悪いんだが俺はこの辺で失礼するよ。山の下の草原に仲間を置いてきてるんでね。じゃあなクヌート。しっかりやれよ。またどこかで会えるといいな。それとレオン、トナカイは置いていくからな。お前の好きに使え。最悪、売っても構わん」
遊牧民の男はそう言いながらクヌートの頭をがしがしと撫でまわし、レオンの背中をばしばし叩くと、足早に立ち去って行った。
「……相変わらずね。彼は。あなたとのお別れが悲しくなる前に逃げたんだと思うわ」
ブランカは慌てて来た道を引き返す男の後姿を見ながらクヌートとレオンにそう言った。
家の中に上がった三人は、ソファに座り、手作りのキイチゴのジュースとジャムクッキーを貰った。窓の外から入り込む夏の風が、木々の匂いを運んできてとても心地よかった。
「まさかこんな風に頼られる日が来るなんてね。大昔は魔女狩りが恐ろしかったものよ。今でもところによってはまだ燻っているみたいだけれど」
ブランカはハンナの腕を見ながらつぶやいた。
「あの、ハンナは……妹は大丈夫なの?」
レオンはそわそわした様子で尋ねた。
「そうね。時間は掛かるだろうけど、きっと良くなるわ。見たところ、これは魔女の呪いで間違いない。でも、私のような魔女じゃないのよ。この呪いを掛けた魔女はね、もう理性を失いかけている。狂っているのよ。狂った魔女にしかこんな邪悪な呪いは掛けられないわ。ほーら、いい子」
ブランカはハンナを抱きかかえると、小さく砕いたクッキーを食べさせてやっていた。すっかりお気に召したようだった。
「それで、あなたはこれからどうするつもりでいるのかしら? あなたさえ良ければ、もう一つ部屋を用意するわよ」
彼女はレオンの方を見ながら心配そうに尋ねた。ハンナを治療してもらうこと以外何も考えずにいたレオンは、はっとしたように立ち上がった。
「ああ、そうだ。父さんにはすぐに戻るって言ってあるんだ。帰らなきゃ――」
「でも一人で二日かけて帰るだなんて危険じゃないかしら」
「大丈夫。一人で帰れるから! トナカイもいるし」
彼は立ち上がり、外へ出ようとした。
「お待ちなさい。いい考えがあるわ。この山の下に小さい村があるのだけど、そこから馬車に乗せてもらいなさいな。エルクルっていう知り合いがいるのよ。彼が荷馬車を持っているわ。ワタリガラスに手紙を届けさせるから待っていなさい」
「でも――」
「疲れているでしょう? 今日は泊まっていきなさいな。自分の村に帰っても、ハンナのことは手紙に書くわ」
ブランカはハンナを抱いたままレオンを説き伏せると、隣の部屋へと姿を消した。しかし肩にワタリガラスを乗せてすぐに戻ってきた。歳の割にやけに動きが機敏である。
結局、その日レオンはブランカの家に泊まり、翌朝山を降りてエルクルという人物の元へ向かった。
エルクルはブランカからの手紙を貰っていたので、レオンが村に着いたころにはすでに馬車の準備を済ませて待機していた。大げさに腕を組んで、いかにも準備万端といった様子だった。
「よう小僧。大変だったな! これで村の近くまで運んでやるからよお」
エルクルはヘラジカのような薄茶色の髭を生やした、酒臭い男だった。
「ど、どうも……」
レオンは戸惑い、引きつった笑みを浮かべた。
「おいジジイ。すぐ出発すんだろ。早く乗せてやれ」
「兄……姉さん。僕ら邪魔じゃないかな」
不意に荷車の上から二つの声が降ってきた。一つは荒々しい女の声、もう一つは穏やかな男の声だった。
「すまねえな。俺のガキ共も一緒だ。仲良くしてくんな!」
エルクルはそう言って酒臭い口で豪快に笑った。見ると、荷車には彼の子供と思われる二人が寝そべっていた。そのうちの一人が起き上がり、レオンの方へ歩み寄った。
「よろしく。僕はダグ。たぶん、君と同い年くらいかな。で、あっちは姉のノーチェ。たまに間違えて兄さんって呼びそうになるけど、ああ見えてちゃんと姉だ」
ダグはまだ荷車の上に寝そべっている自分の姉、ノーチェを指さして言った。
「御託はいいから早く出そうぜ」
ノーチェはそう言いながらのっそりと起き上がり、レオンの方を見た。短い黒髪に引き締まった顔つき。よく見なければ少年と見間違えそうだ。その一方で、ダグの方は茶色い髪に落ち着きのある顔をしている。
馬車に揺られている間、レオンは二人と色々な話をした。妹のハンナや姉のニナのこと、父親のこと、そして、一緒にブランカのもとへやって来たクヌートという無口な少年のこと。
「本当に記憶がないのかそいつ? 実は訳ありで、そんな風に偽ってるだけだったりして」
ノーチェはクヌートの話になると興味深そうに突っ込んだ質問をしてきた。しかし彼のことを何も知らないレオンに話せることは限られていた。
「確かに、それもあり得るかも。でも、彼は演技には見えないほど虚ろなんだけど」
「実はかなり面白い人かもね。どっかから逃げてきた、めちゃくちゃ身分の高い人だったりしてさ」
ダグが口を挟むと、すかさずノーチェが反論した。
「馬鹿言え、ガキのお伽話じゃあるまいし」
馬車がレオンの村に到着すると、村人たちから一斉に目線を向けられた。見知らぬ馬車が来たことに驚いているというよりは、元気そうなレオンの様子に驚いているようだった。
「見てごらん。レオンだよ。生きてたみたい」
「妹はどうしたんだ?」
「わからん。家にもいないみたいだし」
「まさか棄ててきたんじゃ……」
「やめなさい。本当だったらどうするの」
人々は口々に何か言っているようだった。エルクルは馬を大人しくさせると、村人たちに向かって大声で言った。
「ハンナは無事だ。大物に診てもらってるからな。だから妙な推測なんてするなよ!」
彼のよく通る声は村中に響き渡った。
「おい、もう行っていいんだぞ」
ノーチェがレオンの背中を押した。その後ろから、ダグも声をかける。
「気が向いたらまた遊びにおいでよ。なんなら迎えに行ってあげるけど」
「ありがとう。ダグ。ノーチェもエルクルも、本当に。今は無理でも、いつか必ずこのお礼はさせてほしいと――」
「そういうのいいから、行けよ。皆がじろじろ見てんだよ」
ノーチェは顎を突き出すようにしてレオンを促した。彼は小さく会釈し、駆け出した。父の待つ家を目指して。
ハンナとレオンの父親ハンスの名前がヨハンやレイフになっている箇所を修正しました。




