南の森から来た少年
雪のちらつく薄暗いの森の中を、白い服に身を包んだ幾人もの「兵士」たちが走り抜けていく。手には斧や弓、剣を持ち、目標目掛け一心に突き進んでいく。
彼らの目前には人間の身長を優に超える巨大なトロールの姿があった。灰色の硬い体には所々地衣類が繁殖し、だらしなく開けられた口からは黄色い唾液が糸を引いている。
兵士たちはトロールの視界に入る前に、次々と猛毒の塗られた矢を放ち、斧や剣を振りかざして一方的にトロールたちを痛めつけた。
トロールの鮮血が火花のように散った。それはまるで花弁のように真っ白な雪の上に着地し、湯気を立てながら冷たい雪を溶かし、地の底へと沈んでいった。
兵士たちの中に、一人の少年がいた。兵士たちの中で一番足が速かった彼は、持ち前の脚力を駆使して毒矢の刺さったトロールを無我夢中で追いかけた。まだ若いトロールたちは森の奥深くへと逃げて行き、やがて切り立った崖のふちまで追いやられた。
少年が斧を構え、後からやってきた仲間たちとトロールの腱目がけて猛突した時、その悲劇は起こった。
突如不穏なくぐもった音が辺りに響き、何事かとそちらを見ると、巨大な雪壁が煙を巻き上げ、凄まじい勢いでこちらに迫ってくるのが見えた。
「雪崩だ!」
誰かが叫んだ。雪崩はこちらに近づくほど、その速度を増していく。
「逃げろ!」
兵士たちは散り散りになって逃げた。何人かは飲み込まれて生き埋めになり、また何人かは猛突してくる雪の重さに耐えきれず、首を折って即死した。
少年も雪崩に飲まれまいと横に横に逸れながら、懸命に走った。大地を飲み込む巨大な白魔の唸り声は、彼のすぐ後ろまで迫っていた。
やがて、目の前に切り立った崖が姿を現した。「まずい」と思った時にはもう手遅れで、少年は雪と一緒に真っ白な闇に落ちていった。
それからどれだけ経ったのか。気が付くと少年は暖かいテントの中にいた。火が焚かれ、鍋の中ではトナカイの肉が煮えている。テントの入り口は開いており、子供たちがじっとこちらを見ている。
「気が付いたか。でも動くんじゃないぞ。まだ骨が折れているからな」
真横に初老の男が座っていた。
「おまえは何者なんだ? こんな状態で、いったいどうやって歩いていた? 普通なら痛くて動けないだろうに」
少年は言われている意味がよくわからなかった。ゆっくりと頭を起こし、自分の体を眺める。彼の脚は折れていた。おまけに手足の指は軽い凍傷にかかっていたようで、包帯が巻かれている。
少年は今までの出来事を思い出そうとした。しかし彼の頭の中には、何ひとつ情報が残されていなかった。自分は一体誰なのか、どうして今ここにいるのか、思い出そうとしても無理だった。
「そうだ。名前は何というんだ?」
男は立て続けに質問した。名前――果たして自分にそんなものはあっただろうか? 誰かつけてくれるような人はいたのだろうか? 考えたが、何も浮かんでは来ない。ただ、自分は何か重大なことを忘れているような気はしていた。
少年が黙って首を振ると、男は困ったように首をひねった。そして、仕方なさそうに微笑んで、こう言った。
「言いたくないのか、それともわからないのか。名前がないなら仕方がない。こちらで勝手に付けるとしよう。……そうだな。お前の名前はクヌートだ」