アトリエ【流れ星】 前編
******から視点が代わります。
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「桜井!」
写真科の講義を終えた慧は、背後から声をかけられて振り向いた。
「野村先生……」
講師の野村冬彦だった。野村は二十代とまだ若いが、講義の仕方がとても上手く、生徒からも人気がある教師だ。
「なんですか? 課題ならもう提出しましたよ?」
「いや実はな、その写真を見たんだが……お前、人を撮る気はないのか?」
「……それが問題ですか?」
「そうじゃない。風景画は文句なしのいい絵が撮れてた。ただな、それだけの腕を持ちながら、人物を一切排除しているのは、勿体ないと思ったんだよ。試しに一度撮ってみないか?」
「あたしは人を撮る気はありません。……話がそれだけなら、失礼します」
「あっ、おいっ!」
後ろで野村がなにか言っている。だが、慧は振り向かずにその場を足早で去った。
誰に言われようと、それだけは譲れない。風景画を撮ろうと決めた時に、人物は二度と撮らないと決めたのだ。
慧は固く拳を握ると、前をしっかりと見据える。こんなところで立ち止まっている時間はない。今日の講義はこれで終了だが、この後バイトが入っているのだ。
廊下を抜けてホールに出る。携帯で時間を確認していると、着信が入った。
表示された相手を見て、慧は僅かに目を見張る。相手は随分と会っていない友達だった。しかし、通話ボタンを押しかけて、親指が彷徨う。出ることに、ほんの少し躊躇いがあった。
脳裏にぼやけた記憶が蘇っていく。
夏の白い日差し。
弾ける水しぶき。
手を振る大きな影。
微かな笑い声が耳の中で木霊する。
胸を抉るような痛みを感じて、慧は目を閉じた。渦巻く記憶の海に溺れてしまいそうだ。鮮烈な苦痛は、慧を過去へと引き戻そうとしている。
一瞬が永遠に感じる瞬間を、喘ぐように呼吸を繰り返してやり過ごす。徐々に耳が現実を捉えていくと、身体の冷えを感じた。瞼を開いた慧は身震いする。背中を滑り落ちる水のような感触。暑かったはずなのに、全身に感じるのは冷や汗だった。
慧は鳴り続けていた携帯に再び目を落とすと、ゆっくりと通話ボタンを押した。
『出ないかと思ったぜ?』
「……久しぶり。珍しいな、あんたが電話してくるなんて」
落ち着いた低い声に、慧は緩く目を細める。
怪我などしていないはずなのに、胸が疼く。
恋しい記憶が、どこかで大きく脈打つのを感じた。
大学から徒歩で十五分。自宅アパートからは五分の場所に、慧のバイト先はある。大学の講義が終るとほぼ毎日、ここ【流れ星】で働くのが日課になっている。
外観は一見すると、半分にカットされたホールケーキ状の建物で、傍に螺旋階段がついている。それだけではなんの建物かわからないだろうが、ここは、知る人ぞ知るある写真家のアトリエなのだ。
一階は主に接客として使われており、二階がメインの仕事場だ。慧は螺旋状の階段を上りきり、現れた板チョコのようなドアを開く。
室内は木目の床で、中央にキャスター付きの白の丸テーブル。入口を入って右の壁には資料用の木製の棚があり、部屋の奥にパソコンが三台と印刷機が二台設置されている。さらに、黒い壁には、縁に入った写真達が品よく飾られており、柔らかな雰囲気に一役買っている。
「こんにちは」
慧が挨拶しながら中に入ると、パソコン操作や資料の束を持っていた女の先輩が一人、男の先輩が二人、立ち上がって歓迎してくれる。学生である慧と違い、彼女達は社会人の正式なアシスタントだ。
「待ってたわよ、慧ちゃん」
「今日もよろしくな」
「張り切って行こうぜ」
「はい、よろしくお願いします」
頭を下げると、先輩達が優しく笑ってくれる。温かな空気が漂う居心地がいい職場だ。しかし、今日はいつもより浮き足だっているような気がした。よく見ると、先輩達の頬がいつもより上気している。
「あの、なにかあったんですか?」
「やっぱりわかっちゃう? 実はね、予定よりちょっと早いんだけど、光星さんが帰ってきたのよ!」
「えっ、そうなんですか? それじゃあ、挨拶しないと」
「そう慌てなくても大丈夫だって。あの人、今暗室に入っちまってるからさ。もう少しすれば出てくるよ」
「──もう出て来たで」
そう答えたのは、頭にバンダナを巻いた男だった。
縛れるほど長い金髪と、左耳を飾るカフス。きつくつり上がった眉と、面白そうに輝いている目。身長は百九十あると聞いたが、派手な外見に長い手足は、モデルと言っても通じそうだ。
男は目を細めて、口元を綻ばせる。
「ひっさしぶりやなぁ、慧ちゃん。元気にしとったか?」
「はい、お久しぶりです」
関西弁をしゃべるこの男、中津光星は、プロの風景写真家であり、このアトリエの主だ。
現在はその才能を認められ、世界中を飛び回っている人なのだが、少しも偉ぶったところがない。慧にとって、最も尊敬する相手であり、写真を撮る上では偉大な目標だ。
ここでアルバイトをすることになったのも、高校生の時に、光星が声をかけてくれたことがきっかけだった。