忍び寄る者 後編
同意を表しながらも、怜奈の顔は不満そうだ。軽い口調で話していても、ストレスが溜まっているのだろう。無理もない。海人でさえ疲れを感じ始めているのだから、彼女にこの状況が負担にならないはずがないのだ。だからと言って、今すぐ解決出来るだけの手もまだない。
「犯人を捕まえさえすれば万事解決する話だけど、それには確実な証拠が必要だ。なのに、容疑者は出てもその証拠がない」
「しかもー、被害者である慧は犯人を探す気はないって言ってるし? ほんと、お人好しっていうかなんて言うか」
呆れたように首を振り、怜奈はクッションを腕に抱えた。両腕に抑えつけられたクッションにはモデルもびっくりなくびれが出来る。
コップをローテーブルに置いて慧が僅かに目を伏せる。
「あたしは、別にお人好しなんかじゃないよ。無駄なことを切り捨てたがってるだけだ。一度に二つも三つも目を向けられるほど器用でもないからな」
静かな声に反応するように、コップの中で氷が音を立てて落ちた。
あの日、声もなく自分の腕の中で震えていた彼女を海人だけが知っている。初めて抱きしめた彼女の身体は海人よりも随分と華奢で、強く力を入れたら壊れてしまいそうだった。異性であることは知っていたはずなのに、あの時、海人は改めて慧を女として強く意識したのだ。
いつだって、慧は一人で全てを決めようとする。それが悪いとは言わないが、こんな時くらいは頼って欲しい。
海人は抱きしめたくて疼く手を握りしめた。
その時、玄関の方で物音がした。慧が怪訝そうに立ち上がる。
「なんだろう。ちょっと見てくるよ」
「郵便じゃないか?」
壁時計を見ると針は午後三時二十八分を指していた。郵便にしては微妙な時間帯だ。
慧が首を傾げながらリビングを出て行く。
少しすると、戻ってきた彼女の手には白い封筒が握られていた。
「あら、誰からよ?」
「ただのセールス便」
慧の態度に不信なものはなかったが、海人はその封筒から目が離せなかった。真っ白な裏面に僅かに感じる違和感。それは直感だったのかもしれない。
酔いが一気に覚める。海人は俊敏に立ちあがって彼女の手にある封筒を奪う。
「見せてみろ」
「海人、止めろ。勝手に開けるな!」
「ちょっと、いきなりどうしたのよっ?」
玲奈の咎める声を無視して、慌てて取り返そうとする慧の手を避けながら、開封済みの封筒をひっくり返す。すると、バラバラと何かが落ちてきた。
「…………っ」
「なんだよ、これっ」
「嘘でしょ……」
海人はあまりのことに絶句した。事態を飲み込んだ怜奈がよろよろと近づいてくる。
三人の足元に悪意の欠片が広がっていた。切り刻まれたものは、数日前に見た光景を再現しているようだった。
海人は屈んで落ちてきたものを拾う。
「あの時の、写真か?」
色のついた欠片には見覚えがあった。それと同時に粘着質な相手の憎悪を感じ取り、ぞわりと背筋が震える。つまり、相手はわざわざ切り刻んだ写真の一部を持ち帰り、慧の家のポストへ放り込んだということだ。そこには狂気めいたものさえある気がした。
そこではっとする。
「海人っ!?」
「お前は慧の傍にいてくれ! 今放り込まれたってことは、犯人はまだ近くにいるはずだ!」
玲奈の悲鳴のような声にそれだけ言い残し、海人は慧のアパートを飛び出す。通路を右に走る。築二十年と聞いたアパートにはエレベーターが一台しかない。それが動いていないことを確認すると、脇にある階段を駆け降りる。
アパートの前に出ると、密集した住宅街を見回して足が止まる。左方向にはセールスらしきサラリーマン、右には小学生の集団と買い物袋をさげた主婦の姿があるだけだ。この密集地だ。道は無数に存在するし隠れようと思えばいくらでもできる。もう少し早く飛び出していれば、犯人の背中くらいは見つけられたかもしれないが。
「くそ……っ、やっぱ一足遅かったか」
日差しは暑いはずなのに、冷たい手で心臓を撫でられたように寒気がした。写真を切り裂かれた日、彼女の身に迫る危険を感じた。それなのに、なんの変化もなかったここ数日で、油断していた。これ以上のことは起こらないと心のどこかで高を括っていた。
危機感が腹の底からせり上がってくる。
犯人は慧の家を知っているのだ。




