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隠された涙


 ******


 カーテンが引かれた薄暗い準備室。写真科の機材が複数に並ぶその部屋で、慧は携帯を見つめて顔を曇らせていた。


「海人君か?」


 それまでの怖い空気を霧散させると、光星が笑みを含んだ声で言う。担当講師として付き添ってくれた野村だけは不可解そうにしている。


「誰だ?」


「慧ちゃんの友達や。写真のことを知ってかけてきたんやろ」


「ほぅ、いい友達じゃないか」


 野村が感心したように腕を組む。

 慧は携帯を後ろのポケットにしまうと、わずかに目を伏せた。


「あたしにはもったいないくらい、いい奴です。余計な心配をかけてしまって……」


「そら、心配するやろ。慧ちゃん、ほんまに警察呼ばんくてええんか? そら、大学側は嫌がるやろうけど、こう言うのはしっかりしとかんと。慧ちゃん自身が怪我させられたら困るやろ」


「そうだぞ。もし桜井が言いにくいなら、オレから言うこともできる」


「危機感がないわけじゃないんです。ただ……」


 テーブルの上に置かれた写真の残骸に、指先で触れる。

 何度も繰り返し刃物で切りつけたのだろう。徹底した行為には、強い悪意がある。

 ズタズタに切り裂かれたものを見ていると、怒りよりも悲しみが先立つ。まるで慧の今までの努力や生き方を否定された気がしたのだ。


「大事にしたくないんです。ただでさえ、今回のことで周囲は騒がしくなるでしょうから。あたしはカメラ以外に気を散らせたくない」


 昔だったら、こうは思わなかったかもしれない。自分に起こったことを人並に悩み、苦しんだかもしれない。

 だが、一人で立つことを選んだ日から、慧は進むべき道を決めていた。こんな所で足止めされている無駄な時間など、一秒もない。

 

 慧は写真から指を離すと、二人の講師を静かに見つめる。これ以上ないほど、強く思う。


「あたしは絶対にプロになります。どんなことがあっても、必ず」


 説得力がある言い分ではなかっただろう。しかし彼等は、生徒の願いを無碍に扱わずに折れてくれた。


「あぁ、わかった。桜井がそれを望まないなら、今回の件はオレから上手く伝えよう。なにかあったら、いつでもすぐに知らせてくれ。必ず力になるからな」


「けど、忘れたらあかんで。目ぇ瞑るんは今回だけや。もしもう一度、これ以上のなにかが起こったら、そん時は君が嫌がっても警察に通報する。それでええな?」


「はい。ありがとうございます、先生方」


 柔らかな苦笑をもらって、慧はようやく安堵する。クーラーが効いた室内であるにも関わらず、気付けば手の平がじっとりと汗ばんでいた。無意識にそれだけの緊張を感じていたのだ。


 一人の学生と二人の講師の間で一つの決着がついた時、息せき切って海人が飛び込んできた。


「慧っ!」


 全力で走っていたのか、彼は大きく呼吸を乱していた。髪もしっとりと汗に濡れている。

 その姿に、胸を温かなものが包む。海人には悪いが、こんなにも心配してくれたことが、嬉しく思えてしまった。


「なんや暑いし喉乾いたわ。ちょっと飲み物でも買うてくる。お前も来るんや、奢ったるで」


「そりゃ嬉しいお誘いだな」


 光星と野田が海人の傍をすり抜けて、部屋を出て行く。二人だけで話ができるようにしてくれたのだろう。

 慧は改めて海人と向き合った。自分の胸元を掴んで、風を送っている彼の呼吸も落ち着いたようで、物言いたげな目を向けられた。


「悪いな。あんたにも先生にも、気を遣わせてしまって」


「いや、それよりもお前は大丈夫なのか? あぁ、いや、言わなくていい。大丈夫じゃないよな。そうじゃなくて…………」


 言葉を探すように目を彷徨わした海人は、机の上に置かれた写真に気付く。凍りついた視線に、慧も自分の作品だったものに目を向ける。


「気にしなくていい。心の整理ならもうつけた。それに、嘆いたところで写真が元に戻るわけじゃないしな」


「そういう問題じゃないだろっ? こんな、こんな酷いことされて、なんで許してんだよ!」


 海人は大股で近寄ってくると、乱暴な仕草で机を叩いた。慧を見下ろす目は、激しい怒りで燃えている。

 それが嬉しくもあり、苦しくもある。慧は宥めるように、彼の腕に手で触れた。


「別に許してるわけじゃない。言っただろう? ここで嘆いたところでどうにもならない。だったら、無駄なことはしたくないんだ」


 それは偽りのない慧の本心だった。

 海人の表情が苦しそうに歪む。まるで熱い怒りを飲み込むように、彼は大きく呼吸した。そして、再び口を開く。


「……悲しくないのか?」


「悲しいな」


 落された言葉は、慧の心を微かに波立たせた。

 海人の凪いだ目にも、揺れる感情が見えた。


「……憎くないのか?」


「憎いよ」


 それも、まぎれもない慧の本音だった。


「だったら……今だけ泣いとけよ」


 腕を引かれて、海人に抱き寄せられる。背中に回る強い腕と彼の香りに包まれて、慧は目を閉じた。


「悔しいから、泣かない」


 目の縁から溢れた涙が一つだけ、海人のシャツに落ちて消えた。




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