気付かないうちに 後編
結局、質問大会に盛り上がりを見せた教室は、ほとんど講義にならずに終った。初日なので野村も大目に見たのだろう。苦笑しながらも止める様子はなかった。
講義を終えた光星は今、女生徒に囲まれている。飛び交う声は甘いものばかりだ。慧も話かけたいところだが、とてもじゃないが近寄れない。下手に近づけば袋叩きに合いそうだ。
遠くから眺めていると、飛びぬけて背の高い光星がにっこりと笑い、慧を手招きする。
「慧ちゃん、こっちおいで?」
その瞬間、纏わりついていた女達の視線が慧に集中した。
「えっ、桜井さん、光星先生と知り合いなの?」
「ずるーい!」
向けられる視線が痛い。慧は居心地の悪さに顔を顰めそうになった。彼女達の中には、僻みや嫉妬交じりのものさえあり、見当違いな悪意にため息が出た。
しかし、呼ばれて無視するわけにもいかず、慧は目に静かな怒りを溜めて光星に近づくと、彼の目の前で足を止めた。
「普通、ここで呼びますか?」
「そない冷たいこと言わんとええやん。だって、もともとここへは慧ちゃんに会いに来たんやで? それやのに、キミに会わんと誰に会えっちゅうねん」
屈託ない光星の言葉に、教室内に残っていた生徒の間に大きなざわめきが起こる。
慧は悪意のない悪戯に額を押さえた。自分の与える影響を理解しているうえで、言っているのだから始末が悪い。
どうやって場を収めようか考えていると、突然低い声が割りこんできた。
「いいな、コネがある奴は」
皮肉が込められた強い声に、講議室は水を打ったように静まり返る。残っていた男子生徒の一人が、嫌な笑みを浮かべて慧を見ていた。
彼、井上健はこの間のコンテストで銀賞を取っていた相手だ。今までも、慧が賞を取った折には、必ず次点の銀賞か銅賞を取っていたはずだ。
写真科を選択しているので同じ講義を受けることも多いのだが、どういうわけか最初から嫌われていたようだった。
慧としても極力関わらないようにしていたのだ。まさか光星がいる場で、こんなあからさまな挑発を受けるとは思ってもいなかった。
慧は不快感を露にすると、井上を睥睨する。
「どういう意味だ、井上?」
「言わないとわからないのか? 桜井は中津さんと知り合いなんだろう? それなら今までの賞だって、実力じゃないんじゃないか? なにしろ中津さんは世界的な写真家だ。その知り合いともなれば、当然審査員の見る目も違うだろう」
「健君っ、そんな言いがかりよくないよ! 桜井さんにも中津先生にも失礼だよ」
井上とよく一緒にいる女子生徒が、彼の腕を引いて止めようとする。だが、それが癪にさわったのだろう。井上は煩わしそうに彼女の手を振り払うと、慧の頭の上に視線を向けた。
「優子は黙ってろよ。──どうなんです、中津さん?」
「そうやなぁ……」
光星がどんな反応をするのかがわからず、慧は俯いて奥歯を噛みしめた。せっかく講師として来てくれたのに、不甲斐無い姿を見せてしまったことが情けなかった。
頭の上に重く温かなものが乗せられる。顔を上げると、光星が困った顔で笑っていた。
「なんて顔しとんねん。賞を取れたのは全部キミの実力やで? たしかに慧ちゃんはオレの可愛い愛弟子や。けど、それが審査に影響することは絶対にない。なにしろ、今日この日まで表立ってこの子と師弟関係にあるなんて言うたこともなければ、見せたこともないんやからな」
慰めるように頭を撫でられた。覚えのある温もりが酷く懐かしくて、慧は目を伏せる。
──昔、あいつも同じように…………。
心が過ぎ去った時間を遡ろうとする。
泣きたくなるほど愛しい気持ちが溢れていく。
離れていく温もりを、慧は反射的に目で追いかけてしまった。
「僕は、桜井の写真なんて認めない」
ぴしゃりと吐き捨てられた言葉が、慧を現実に引き戻す。
顔を上げれば、井上が険しい顔で睨みつけてくる。慧は無意識に固く握りしめていた拳を開きながら、表情を乗せずに淡々と返す。
「……別に、あんたに認められたくて写真を撮っているわけじゃないよ」
「じゃあ、教えてくれ。桜井はなんのために撮っている? 君には写真に対しての信念があるか?」
しつこく食い下がる井上に、慧は目を眇めた。どうして、ほとんど関わりのない男に絡まれているのか理解できない。
「知りあい未満のあんたに言う必要がどこにある? あんたが認めないというのなら、別に認められなくていい。あんたが嫌いなら別に嫌われたままでいい。あたしがどんなものを撮ろうと、あんたには関係ないし文句を言われる筋合いもないだろ」
「僕にはその権利がある。僕が金賞を取るのは、いつも君がいない作品ばかりだ。それ以外はほぼ全て、君が賞を攫っていってる。許せないのは、それだけの才能がありながら君が手を抜いていることだ! 本気でやる気がない奴が、写真を撮るなよ!」
吐き捨てられた言葉の真意に気付いて、慧は目を見開く。まさかと思ったのだ。
この時始めて、慧はその他大勢の中から、井上健という個人を認識した。
井上の目には激しい感情があった。しかし嫌悪や蔑視という負の要素の中に、それだけではない強いなにかが見えた。
無言の睨み合いに区切りをつけたのは井上が先だった。最後に強く慧を睨みつけると、荒い足取りで講議室を出ていく。
その後を、申し訳なさそうに頭を下げて彼女が追っていった。
ざわめきが戻った講議室で、光星と目を合わせた慧は表情を険しくする。
──もしかしたら井上は、あたしの過去を知っているのかもしれない。




