第1章 潜入
キレ教歴143年5月
リゼンツ王国・王城内の一室
「イェルク」
黒髪の『彼女』の雇い主(正確に言えば使える相手)は、騎士の制服を着て背後に控えている『彼女』に、今しがた部屋を出て行った老公爵のことを考えながら3人掛けのソファに座ったまま『男性』名で呼びかけた。背後から、「はい」という返事を聞くとそちらの方へは顔を向けずに、
「という訳だ。明日からはデトン公爵家に執事として仕えてこい。定期連絡だけ忘れるな」
と命令し、背後にいる茶髪の『女性』は、
「承知いたしました、殿下」
と何の感情もこめずに返答し、その部屋から音もなく出て行った。
『殿下』と呼ばれた雇い主――この国の王位継承権第一位を持っている王太子、グスタフ・ハイレンドンは、ソファから立ち上がると、窓辺へ向かい、窓を開けると、ある方角へ目をやった。
現在23歳の彼は幼い時から数多くの視察を行っており、8年前の夏にも南方へ定期的な視察に向かっており、そこで『不慮の事故』に巻き込まれたときの事を彼は思い出していた。
その当時、王国の北方との治安が良くなく、そちらへ人を回さなければならなかったため、定期視察にはあまり人手を割くことができず、一貴族のお忍び旅行一歩手前の少人数での視察だった。しかし、どこから湧いてきたのか、年端もいかない娘が、『事故原因』である盗賊を実に鮮やかに捕らえ、王太子一行を救ったのだ。その時、彼女は名乗らずに去って行ったが、領主一家の評判を聞いているうちに、その領主令嬢であるわずか13歳のユーリア・ロンデンブルク伯令嬢だと判明した。グスタフは彼女ともう一度会いたかったのだが、視察期間が短かったために諦めざるを得なかったものの、王宮に帰ってから、しばしば茶会や夜会にと招待状を送ったが、欠席の返事しか返ってこなかった。その出来事の数年後、彼女の両親が王都に向かう途中、予定していた道が山火事の影響で、避難民であふれかえったため、急きょ迂回した箇所が、たまたま大雨によって地盤が緩んだために崩落に遭い、共に死亡、その直後に28歳年上の陸軍将であるハインリヒ・ベーリヒと政略結婚したという話を聞いた。しかし、その彼もまた、王家主催の園遊会の際に『流れ矢』にあたって、死亡し、今度は彼女自身が爵位を継いだ。その彼女は、あまりいい思い出のない王都へは顔を出さず、極まれに茶会や夜会へ顔を出すものの、喪服を常に着ていることから『喪服の女伯爵』と評判である。
グスタフにとっては初恋の相手であるユーリアの夫、ハインリヒの死亡理由――『流れ矢』に見せかけた何者かによる毒矢での暗殺の黒幕および実行犯について、既にこの国の治安維持の要である軍務庁による捜査は打ち切られている。しかし、政略結婚でありながらも夫の死後3年もの間、公の場において喪服を着ていることから、ハインリヒのことを愛していたのではないかと思い、グスタフは彼女のために真犯人を探し出すことをしたかった。
そして、3か月前、王立騎士団の模擬戦の様子を見た時、新入りだった『イェルク』と呼ばれる少年のことを少女であるとすぐに見抜き、すぐさま自分の側付きにした。その後、ユーリアのために、黒幕となりうる家へ潜り込ませるための訓練を積ませた。
今回は、その手始めとして、公金横領の噂が流れている国王の従弟、アウグスト・ハイレンドン、デトン公爵のもとへ執事として向かわせ、証拠をそろえるよう指示したのだった。
「さて、どうなることかな」
彼は、机に置かれたある書類に目を向けながらそう呟いた。
そんな計画を彼女――イェルク・デリクは知っていた。
もちろん、イェルク・デリクというのは騎士団に入るための偽名であり、本名は、ユーリア・ロンデンブルク。
そう、彼女こそが現ロンデンブルク女伯爵であり、グスタフの片想いの相手であり、彼女もまた、グスタフに片想いを抱いていた。俗に言う、両片想いの真最中であった。
彼女の家の男子は先祖代々、騎士団に所属してきた、と言っても大して偉くなるわけでもなく、大概が下っ端で生きてきた。しかし、女性はどうしてか、王家との縁が深いのか、たいてい王族の縁故者が嫁いでくる上に、稀に王族と婚姻を結ぶ者もいる。近い例だと、彼女の父方の大叔母や母が良い例で、前者はこの国の国母となり、後者も現王弟夫人の従妹であったらしい。しかし、そんな家であっても女性の権利があまりないこの国では、大して重要視されず、現にユーリアの家はあまり厚遇されておらず、悠々自適と暮らせていたのだった。そんな彼女は、幼少のころから父に武芸を習っており、10歳のころには一騎士にも劣らない腕をしていた。そのため、28もの上の陸軍将と政略結婚し、その相手が不審死を遂げた後は、茶会などに出た時の噂から、その死に王家が関わっているのではないかと思い、騎士団に入り、王族に取り入ることを目標とした。その目標は、騎士団に入ってから数か月で達成してしまい――王太子に女性だとばれたのだ――、彼の考えていることが時間をおかずに理解できるようになってしまった。
その彼には、女性だとばれただけで、本名はおろか実家のことは何も触れておらず、完全に平民であると勘違いさせていた。
「イェルク・デリクですね」
デトン公爵の老齢の執事長はユーリアが持ってきた王太子からの紹介状――一応、公爵自身の了承は得ているものの身元保証書として持参した――を確認した。
「あなたには、こちらの部屋をあてがいます。明日から仕事を始めていただきますが、まずは、私の手伝いをしていただきます。旦那様はご用があるときはすぐにベルを鳴らされます。そしたらすぐに旦那様のもとへ向かい、用件を聞き、出来ることであればあなた自身でこなしなさい。分からなければ誰かしらに聞きなさい」
簡単に間取りなどを説明した後、彼はユーリアの部屋に案内し、仕事について軽く伝えられた。主人である公爵の部屋はどこだろうと考えていると、
「ちなみに旦那様の部屋はイェルクさんの隣でございますので」
と言われた。
「あなたは、すぐに顔に出ていますよ。とは言えども、王太子殿下を欺くくらいには訓練されて言いますがね」
顔に出ていたらしい。しかし、なぜ、王太子に隠し事をしているのがバレたのだろうか。
その後、公爵の居室へ入った。
「君が…」
入るなり、公爵はそう呟いた。
「ファル、君は下がりなさい――ああ、昼食は食堂に2人分用意しなさい」
執事長にそう命じ、彼は一礼後、音を立てずに部屋から下がった。