透明人間
男が指で示したのは、窓の向こうの景色だった。
男が見たのは、自分が鏡で見るのと同じ、異様な光景だった。行き交う人、否、人かどうかも怪しい。彼等には顔も腕も足も無く、服や装飾品が宙を浮いて蠢いていた。
男は短く悲鳴を上げて、視線を戻すと、目の前の男以外は皆、自分と同様の姿になっていた。
見慣れたようで、確かに異常な風景。心臓が早鐘を打ち、脳から酸素が枯れ、顔から血の気が引いていく。間違いなく自身の視覚から得た情報なのに、疑い深く、到底信じられない。けれど、自分の見たものは、現実のはずなのだ。其れを頭も心も受け入れられず、思考は其の場に佇んだ。
座した儘、腰を抜かし、声も出せないで、意識は有るのに気絶したかの様だ。
「ほら、此れで普通に成れたでしょう」
男はおどけて嗤う。悪趣味だ、男を罵ってやりたいのに、声は出ない。
「また否定しようとしたな」
骸骨か死人か、という程血色の悪かった男の顔に、緋が差す。瞳は爛々と輝き、唇は血塗れた様に赤付き、生気が戻る。男の魂を吸い込み、息を吹き戻していく。荒れた大地が、華を咲かせる。
男の言葉にはっと息を呑んだ。自分の悪癖を、今初めて認識する。口から飛び出す、否定の言葉を、漸く知る。
「人の言葉は、其の人の体内を巡り、心を流れ、脳に蓄積された物語の欠片。其れを否定するということは、其の物語を否定することと同じ。ひいては、其の人の人生を、其の人自身を否定することになる」
否定というのは即ち死である。否定し続けるというのは、墓を建て続ける行為に他ならない。
「人の物語は、大いなる物語の断片でしかなく、其れ等は繋がっている。お前が物語を否定し続け、大いなる物語さえ拒絶した結果、お前自身が亡き者になったんだ」
愕然とした儘、再び窓の向こうに目をやる。先程まで宙ぶらりんだった服と其の類は、風に吹かれていた。飼い主を失った犬が、首輪を付けた儘、奔り回っている。
店内の人影も無く、残ったのは男と男だけ。
男の脳から物語が消えていく。昨日の夕飯、先月友人と一緒に出掛けた記憶、恋人に祝われた誕生日。其の時、自分は何をして、何を思ったのか。自分を理不尽に叱った上司は、高校時代に迷惑を掛けた恩師は、祖父母は、兄弟は、両親は、一体どんな姿をしていた、果たしてどんな名前だった。男の脳には、自分自身の墓が寂しく遺る。
照明の反射で、窓に映っていたのは、独りの男だけ。
「自分と異なる物語を抱く者を恨み、其れ故の歪みを怨み、そうして周囲との間で軋む自分すら憾んでしまった。其のウラミが、お前を物の怪に、怪異という現象にしたんだ」
男は独りごちる。骨の肌は乾き枯れ、唇はくすんだ薄桜色。