冷
初めは、足から消えていきました。靴から足を抜き、靴下を脱ぐと、僕の足は無くなっていました。怪我をした覚えは勿論、生まれつき足が無かったという記憶もありません。けれど家族
や友人の驚く様子は無く、触覚や痛覚は在りました。
次に消えたのは、手でした。確かに物を掴んでいるはずなのに、僕には物が浮いているかに見えるのです。此れが物語であったなら、周囲が驚くとか、超能力だとか、何かあったのかもしれません。でも、此れは現実でした。幻ではないのです。
そうして体の末端から消えていき、残っていた顔も見えなくなりました。視覚は間違いなく有るのです。自分の体以外は、自分の着ている服や持っている物は見えるのに、僕には僕が見えないのです。
気が狂いそうでした。或いは、既に狂っていたのかもしれません。触覚を頼りに生きようと、思っていたのですから。しかし、其の触覚も消えていきました。最後まで残ったのは、痛みだけです。幻肢痛、何時失うかも分からない痛み。
「恨まれた覚えなど、話しませんよね」
間延びした口調で男は言う。人を食い物にするような笑みが客を苛立たせる。男が鼻で笑ったのは、幻覚だろうか。
「普通ならね」
続けられた男の言葉は、核心に一歩近づいたようで、客の心を抉る。心臓に短刀を突立てられた心地。
「では、話を変えましょう。ご自分が普通でないと思う点は、何処です」
自分は、普通の人間だと、何処にでもいる平均的な、一山幾らの人間だと信じていた。仮令、怪異に見舞われていても、平凡な人間に戻り、特別な事などない日常に還る事ができるのだと信じていた。
男の言葉が、脳を握る。
いいや、そんなものは宗教を信仰するのと同じなのだ。自分は、もう普通ではない、真面ではないのだと、気付いてしまった。神は、死んだのだ。
最初に見えなくなったのは、唇でした。声は聞こえていました、話もできていました。でも、私以外の人間には口が在りませんでした。
次は瞳でした。視線は感じても、目の有る人間は誰一人いませんでした。感情が最も表れる目を失ったときの、私の気持ちが分かるでしょうか。そうして頬骨が無くなり、眉が消え、表情を失い、鼻さえも消えてしまいました。
実在の人間だけではありません。写真からも絵からも消えていたのです。つるりとした磁器のような面だけが、残りました。いいえ、「言葉」も残りました。「言葉」がある以上、人間には口が在り、目が在り、鼻が在って然るべきなのです。唯一人顔の残った私の気が違ったわけではないのです。
其れでも、私は気が触れそうでした。感情を声色と態度だけで判断するなど、容易ではありません。表情が在るからといって、理解できるわけではないのに。
此れが夢だったらと何度思ったでしょう。胡蝶の夢だったら、どれだけ良かったか。