卑
何時から見えなくなったのでしょう。鏡に映るのは、自分の着ている服だけなのです。そう、まさに透明人間。だのに、周囲の人間は常と変わらず接してくるのです。彼等には、見えているのです。
「お客さん、今あんたの挙げた名は、物の怪の類だ」
「物の怪......」
人ならざるモノの仕業であるなら、自分に要因は無いのだ、と客は安堵する。誰も悪くないのだ、物の怪など存在というより現象なのだから。
男は客の表情を見て、唇の片方を吊り上げて、皮肉気に言う。
「物の怪ってのは、人間に恨みの有る霊が容を現したモノを指す」
客の安堵は、早合点であった。後出しの情報に、客の心はざわめいた。恨みが引き起こした現象であれば、其れは天災ではなく人災だ。誰かが、悪いのだ。
「恨み、ですか」
心当たりなど無い、私は普通の人間だ、普通の善き人間だ。そう意図を込めて、客は口を開く。
「そう、恨み。或いは怨み、又は憾み。生きている以上恨まれないなど、有り得ない。お心当たりが有るでしょう」
客が普通かなど、善き人間かなど関係はない。恨む人間にとって、相手がどんな人間であるかなど、気に留める必要は露ほども無い。客が込めた意図を振り払い、お前は恨まれているのだと言外に示す。
何がそんなに愉快なのだ。客の喉まで出かかった言葉は、呑み込まれ、血肉となった。目を細め、口角を上げた儘、男は客を見つめる。呑み込んだ言葉を読まれている様で、客の身が強張る。
「恨みなど......」
「買った事はない、と」
言い切れるかな。男の言葉はひどく癇に障る。其れでも客に反論する術はなかった。自分が如何に善人であっても、普通であっても、他人の気持ちを知る事などできないのだから。自分が恨まれていないなど、明言できるはずがない。客は、論点をずらす事で、答えから逃れた。
「それでは、この怪異の原因は外に在ると」
縋るように客は尋ねるが、男は答えない。巫山戯た笑みの儘、黙っている。
沈黙とは果たして、肯定だろうか。
分からないのです。彼等の顔には表情などありません。いいえ、其れどころか怒りに震える唇も、嘲笑う鼻も、涙を流す瞳も、何一つ無いのです。そう、あれはのっぺらぼう、のっぺらぼうなのです。