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第8話

一人、部室を出たところで、

陽子の提案を受け入れて、約束してしまったことが

千恵美の心に、重くのしかかってきた。


私はいつも、こうやって、誰かの言いなりになっているんじゃないのか…


千恵美の中にいる、もう一人の自分が問いかける。

その瞬間、自分でも驚くくらい強く、

それに反発する声が上がった。


違う!!!

これは、友達からの提案であって、

自由になるための方法なんだ。

私は、もう、誰の言いなりにもならない!!


もう一度、陽子から受け取ったバイトの説明が書かれている紙を開いた。

A4版1枚に書かれた、バイトの募集要項。

いかにも、手作りという感じに、文字だけが並んでいる。


「急募

 親戚・友人として冠婚葬祭に出席してみませんか。

 服装・装飾については、自前になりますが。

 交通費・参加費(祝儀・香典等)の経費については、

 当社が受け持ちます。

 性別・年齢・経験の有無不問

 ただし、口外しないとお約束できる方。

(注:万が一、口外されたことで依頼主に不利が生じた場合には

 相応の賠償金を求められることがあります)

 

 1回 2万円


フレンド・カンパニー

東京都港新宿区◯ 電話:090-XXXX―YYYY」


このようなバイトがあるという噂は、なんとなく耳にしたことがあった。

けれど、まさか本当にあるとは夢にも思っていなかった。

「当社」といっているこの会社の名前も、もちろん知らないし、

だから、この2万円という額が高いのか低いのか、

相場というものを推測することもできなかった。


けれど、1回参加するだけで、2万円ももらえるのは

もちろん、学生にとって破格のバイト代だった。


5回もやれば、旅行代金になる。

たかだか5日で10万円が稼げるのだ。

自分で稼いだお金なら、誰にも文句は言われない。

いや、言わせない。

ふと、母親の顔が浮かび、いつもどこに・誰と・何をしに行くのか

帰宅時間を厳密に言い聞かせる母の、幾分、いや相当に、

しつこい声が蘇った。


千恵美、お母さんに嘘をついてはダメよ。

いいわね。お母さんはね、いつもあなたのことを思って…


と、なだめすかしてくる時もあれば、


誰のおかげで、今の生活ができていると思っているの


脅迫めいた迫力で迫ってくる時もある。


でも、正直、うんざりだった。

千恵美のことは何もかもお見通しというテイで、

一から十まで全てを決めてやらせようとする母に、

今は感謝する気持ちよりも、放っておいて欲しいという希望の方が

はるかに大きかった。

何より、「あなたのため」と言いながら決めていることが、

もはや母自身のためなのではないかとしか思えなくなってきていた。


「私は、もう、ハタチになるのよ。

 それに陽子にだってやれることが、

 私にできないわけ、無いじゃない」


そう言葉にして、つぶやくと

心の中に湧き出てくる不安や罪悪感のような感情一切を

払拭することにした。


「私は、私の力で自分の人生を歩くの」


最後にそう口にすると、長く艶やかになびく髪を掻きあげた。

そして午後の講義を開始している講義棟ではなく、

サークル仲間が空きコマに自主練しているテニスコートへと向かった。




太陽のオレンジがいよいよ濃さをました頃、

冷め切ったコーヒーが、真白なカップの中でかすかに揺れた。

藤原は、深く、長く、息を吐いた。

話を始めた時の息よりも、重さを増していたようだったが、

表情に後悔の色はなかった。


「先生。

 僕の長い独白を、最後まで聞いてくださってありがとうございました。

 これで、また、決意を新たにすることができます」


「藤原くん。

 話は分かりました。

 そして、君の決意も。


 会社という組織で働いたことのない僕には

 正確に君の置かれた立場や、そうさせた状況について

 想像するには限度があるかもしれない。

 けれど君の言う通り、友人としての情けよりも、

 会社の利益を優先したという見方は、確かにできる。

 そうなると、君の言う通り、残念ながら、

 君は彼を傷つけたかもしれない。

 だから、彼は行方をくらませた…」


槇村教授は、重々しく、口を開いた。

額に刻まれた皺が、また深みを増したように、

その表情は、哀しみの色を見せていた。


「でもね、一つ、言えることがある。

 そもそも人は、誰しもが、誰かを傷つけ、

 そして、誰かに傷を負わされて生きる生き物だと思う。

 もし、この世に、『自分は違う』と反論する人がいるならば、

 それは、あまりに自分の言動が与える影響に鈍感だとも思う。


 それくらい、人は、他人を傷つけずには生きられない動物なんだよ。


 だから、人は許し合わなくては生きていけない。

 どんなに、その傷が大きいものであろうと…」


「先生…」


「君は、君なりに自分を罰してきた。

 確かに、それで、三峰くんの負った傷が癒えたかどうかは

 わからない。

 君の想像する通り、一度負った傷は、元には戻らないだろう。


 けれど、君がその傷を認め、その責任を負おうとしたこと、

 それこそが償うという行為なんじゃないだろうか。

 会社を辞め、非常勤講師として働きながら、

 10年間、苦しんできたことを

 そして、今後も、償い続けようとしていることを僕は認めるよ。


 ねえ、藤原くん。

 僕にとっては、三峰くんも、君も、同じだけ大事な存在だ。


 一度、間違いを犯したことで、

 一生許されず、幸せになれないということは

 あまりに悲しすぎる。


 世の中のルールには『時効』というものがあるよね?

 どうだろう。

 君が許される時期というものを、僕は考えてもいいのではないかと思うんだ」


「先生…」


藤原は、真っ赤に潤んだ瞳で、しっかりと槇村を見つめた。


「三峰くんの近況を、分かる範囲で聞いてみよう。

 もちろん、警察ではないから、

 消息不明という結論を覆すことは難しいかもしれない。

 でも、やってみる価値はあると思うんだ。

 彼のことを心配している人は、少なからずいるはずだから。


 僕にできるのはそのくらいだけれど、

 どうだろう?賛成してもらえるかな?」


藤原の瞳から、大粒のしずくがこぼれ落ちた。

張り詰めていた糸が、ようやく緩んだ瞬間だった。


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