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第五話

先生の部屋は、いつも、コーヒーアロマの香りがした。


「飲みたかったら、ご自由にどうぞ」


私の知る限り、いつも資料室にいて雑用を引き受けている先生の助手が

先生の講義が終わるのを見計らってコーヒーを作る。

講義の後、先生の部屋を訪ねると

ドリップ仕立てのコーヒーが、待ち受けていてくれるのだ。


「いただきます」


私は、そう言って、先生のマグカップと

来客用のコーヒーカップに焦茶色の液体を注いだ。


「さて、何かいいアイデアは浮かんだ?」


黒い革張りのアームチェアに腰掛け、

私の差し出したマグカップを受け取ると、

先生は、私を見つめてゆっくりと言った。


「はい…いえ、まだです」

 

「そう。まあ、まだ時間はたっぷりある。

 君の将来は可能性に満ちあふれているんだ。

 焦る必要もない」


私は、先生の机をはさんで置かれた椅子に座り、

一口、コーヒーを啜った。

まろやかな苦味が口に広がった。


「先生。

 来年のゼミでは、やっぱり、宿泊研修をするんですか?」


「ん?そのつもりだけど、

 何か都合が悪いの?」


「いえ…

 ただ、卒業研究のゼミって、論文を書くためだけにあると思っていたので

 正直、フィールドワークするってことに戸惑いがあって…」


私は、正直に先生に思いを伝えた。

すると、先生は、フフフと笑った。


「あなたは『人間科学部』

 つまり、人間を理解したくてここに入ったのでしょう?


 だったら、生身の人間と向き合って、自分以外の価値観を肌で感じなくちゃ。

 頭で考えて解るものじゃないんだよ。


 ただし、肌を通して得た感覚を分析するためには、

 それを言語化するための、視点となる哲学、理論が必要だ。


 レヴィ・ストロースはどこまで読んだ?」


先生から薦められて、私はフランスの社会人類学者レヴィ・ストロースの

「悲しき熱帯」を読み始めていた。

興味深い本ではあったけれど、

もちろん簡単に読み進められるタイプのものではなかった。

まだまだ、理解するには程遠い、途中だった。


「上巻の第四部、『土地と人間』です」


「へえ。

 じゃあ、インドへフィールドワークに行きたくなったんじゃない?」


突然、背後から男性の声がした。

低く、優しく響く、この声は…


「藤原先生!?」


驚くのと、その名を呼ぶのとは、ほぼ同時だった。

午前中に統計学を教えてくれた先生が、何故、ここに…


「槇村先生。お久しぶりです。

 お話中に、お邪魔してすみません」


藤原先生は、穏やかな笑顔を浮かべ、ゆっくりと会釈した。


「やあ、藤原君。

 久しぶり。よく来てくれたね。


 君がここで非常勤講師をしているとは知っていたんだけれど、

 あいにく、大学というところは蛸壺でね。

 なかなか自然に会えるような環境には無かったかな。


 紹介しよう。

 彼女は学部2年生の国枝さん。

 うちの研究室に興味をもってくれているお嬢さんだよ」


藤原先生は、私の方へと視線を移すと、

「存じあげていますよ」と言った。

私は、意外な答えに驚いて、先生を見つめた。

「文系に近い学部の学生に対して統計学を教えたところで、

 殆ど、興味がないというのが正直なところでしょう。

 その授業を真面目に聞いてくれている数少ない学生さんですから、

 そりゃ、顔くらい覚えますよ。

 ただ、名前までは記憶していなかったな。

 

 ここのゼミ生になるということは、僕の後輩になるということだ。

 とりあえず、よろしく」

と続けた。


その眼差しは、優しかったけれど、私を突き抜けて、

どこか遠くを見つめているような瞳に思えた。


「よ、よろしくお願いします」


私は、慌ててお辞儀した。

少し、鼓動が速くなるのを感じて、理由もなく恥ずかしくなった。


「まだ、ここのゼミになることを決めたわけではないよ」


槇村先生がゆっくりと正した。


「いま、テーマを模索中なんだ。


 とにかく、僕のゼミ生になったからって、

 何か就職に有利になるわけでもないからね。


 慎重に決めればいい」


そう言ってくれる先生の発言は、全くもって正しかったけれど、

なぜだか、意地悪く聞こえるような気がした。


「いえ。

 私は、先生のゼミ生になります」


思わず、私は言い切った。


「それがいい。

 槇村先生から学んだことは、必ず役に立つ。

 就職なんていう目先のことに囚われる必要はないよ」


藤原先生が応じた。


「先生…」


「いや。

 非常勤で働く、その日暮らしの俺がいう言葉じゃ、

 説得力がないか…」


すぐさま、いたずらをした子どものように肩をすくめた。

その仕草が、すごく可愛らしく見えて、ドキッとする。


「先生は、槇村先生のゼミ生だったんですか?」


統計学という理系の先生が、

社会人類学という文系の槇村先生のゼミ生だったとは

にわかに信じられず、思わず聞いてしまった。


「ああ。

 統計学は趣味ではじめたんだ。

 もともとは、心理学専攻だよ」


「心理学…」


「この大学のいいところは、自由にゼミを選べるところでね。

 とにかく、卒業論文を書けば、出してくれる。

 心理学って言ったって、理系とも文系とも定かでない学問なんだから。

 屁理屈をこねれば、理屈になるってね」


藤原先生は、楽しそうに笑った。

その笑顔が眩しくて、私は目を細めた。


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