第四話
「あなたが仕事を決めるとき、何を重視しますか」
その講義は、いつも、先生の問いかけから始まる。
講義室には、20数名の学生。
100名定員の講義室だったから、空席の方が圧倒的に多い。
だから、確かに人気があるとは言えないけれど、
それは、ただ座っていれば単位が取れるというタイプの授業ではないことが理由で、
履修している学生が欠席(代返含め)しないことで有名な授業だった。
その講義の担当者は槇村正という教授で、
貫禄を感じさせる、年季の入った額の皺と
多少なりとも薄くなった頭髪で、
「初老」と呼ぶに相応しいイメージの還暦過ぎの男性だった。
学生たちはいつも通りの順に、
思い思いに回答を出す。
先生の問いに応えるのが、当たり前になっている、それが証拠だった。
「将来の安定性」
「やりがい」
回答する学生の順に、先生の視線がそれをなぞる。
学生は、テンポよく回答を続けた。
「自分のやりたいことをやらせてくれるか」
「自分の専門性を活かせるか」
「給料の高さ」
あははは…
その回答の素直さに、照れ笑いに似た笑い声が上がった。
「国枝さん」
不意に、私の名が呼ばれ、私は驚きを隠せないまま、
先生の顔を見た。
「は、はいっ」
「あなたは、どう思いますか?」
穏やかな微笑を浮かべ、先生は問うた。
「わ、私は…」
一瞬、皆と同じような回答が過ぎったけれど、
その時、頭の中に浮かんだ新しい答えを述べることにした。
「自分を必要としてもらえるかどうか、じゃないかと思います」
先生は、にっこりと笑って、皆を見回した。
「そう、うちの大学生全員に聞いたとしても、
恐らく、回答の種類は出揃ったかな‥」
そして、大きな2段重ねの黒板に向かい、
「金銭の獲得」
「自己実現」
「承認欲求の充足」
と書いて、学生の方へ向き直った。
「生計を立てるため働くというのが、
最も多い回答だろうね。
数パーセントしかない大企業に学生が群がるのも、
より多くの金銭をもらえるから、
倒産の危険が少ないことを望むのも、
今後もずっと継続した収入を得るためだろう。
けれど、いくら生きていくためとはいえ、
できれば、嫌な仕事はしたくない。
自分が楽しんで働くためには、
『自分の専門性が活かせる』などの自己実現の場になることが必要だ。
だけれど、果たして、そんな仕事は多いだろうか?
我が国の労働者たちは、皆、自分を活かして働いていると思えているだろうか」
そこまで言って、私たちを見回した。
学生は、神妙な顔で続きを待った。
「我が国の非正規雇用率は4割に近づいている。
おそらく、労働者の半分しか正規雇用をしてもらえない。
つまり、企業は、低賃金で働かせ、
いつでも解雇できる状態で人を雇っているということだ。
この現状が一体、どんな影響を君たち若い人に与えているだろうか。
君たちは、今、就職に向けてどんな風に考えている?
どんな準備をしている?」
「…できるだけ、大きな企業に、正規雇用してもらえるよう、
スキルを身につける必要があります」
最前列にいた学生が答えた。
「スキルって何だろう?」
「英会話とか…、プレゼン能力とか…」
「そう…、だから君たちは、大学での教養教育科目は最低限に、
英会話教室やら、就職試験のための予備校などに通うんだろう。
もちろん、コミュニケーション能力として、
語学力やプレゼンの方法を学ぶことも必要かもしれない。
それを否定するつもりはないよ。
でも、企業が求めるスキルなんてものは、
そこでの労働において必要とされるものだろう?
大学に進学してきた君たちが今、身につけるべきスキルとは何だ?」
先生は、ゆっくりと教壇を降りて、学生の周りを歩きはじめた。
「資本主義の限界は、労働力を商品として扱うこと、
つまり、人間をモノとして考えるようになることだと、
マルクスは言っている。
私たちは、だれも一人では生きていけない。
だからこそ、助け合い、自分にないものがあれば、
自分にあるものと交換して、必要性を充足するという営みは生来的なものだ。
けれど、その交換が経済活動となり、
金銭を媒介することによって、それは非人道的な活動へとなりうる。
企業を守ろうとして、カットすると効果が大きい経費は人件費だ。
人を安く雇って、酷使すればするほど、企業の利益は大きくなる。
そして、いつでも、解雇させることができる、
代わりの者はいくらでもいる、
そういわれれば、弱い立場にいる被雇用者は、
解雇を恐れながら働かなくてはならない。
少し前までの日本は、そんな企業の暴走を法律で止めてきた。
けれど、今は、もう、そんな法律は無くなろうとしている。
トリクルダウンとかいう、できもしない論理で、
ほんの一部の大企業、つまり強者の保護にまわり、
今まで地道に日本の技術を支えてきた中小企業をつぶしている。
今、我が国の政治家が見ている将来は、
多くの弱者を切り捨てることで成り立つ将来だ。
そんな中で、私たちは生き抜かなければならない」
先生は、そう言って、私を見つめた。
「自分を必要としてもらえるかどうか。
それが仕事の条件だという考え方は、本質を突いていると思う。
自分ができることというのは、自分が決めているようで、
実は、周りが決めているのだから。
自分が求められることに応えることこそが、
生産的な活動の基盤になるはずだ。
だからこそ、どうか覚えておいてほしい。
『あなたたちを必要としている人は、必ずいる』と。
君たちが、これから出会う人々と、共同的な視点で
その時々で、何が必要かを考え、自分ができることを担っていくことで、
必ず、居場所はできる。
例え今の社会に、明るい未来が見えなくても、
かならず、自分を活かせる場所はある」
槇村先生の熱い語りを私たちは黙って受け止めた。