第19話
「奈々未、おはよう」
「おはよう」
反射的に返事をしながら振り向くと、
そこには千恵美の顔があった。
いつも通り、バッチリとメイクされた顔だったが、
いつになく、沈んで見えた。ホンの少しだけ。
「どうしたの?
何か、疲れてる?」
朝1限目は8時40分からだ。
9時前の授業に千恵美が出席するのは、
藤原先生の統計学以外にない。
「んー、べつにぃ…」
つまらなそうにそう言ったように見えたけれど、
次の瞬間、「やっぱり奈々未は私の親友ね」と
いつもの活気を瞳に浮かび上がらせながら、
「奈々未、今日、終わったらさ、
ちょっとつきあわない?お昼、一緒に食べようよ」
と声をかけてきた。
「えっ?今日?」
一方的に「親友」扱いされたことに、
多少の違和感を覚えて一瞬、ためらったけれど、
こんな風に、わざわざ誘いの言葉をかけてくるのは珍しかった。
自分が世界の中心にいると信じて疑わないところのある千恵美は
いつだって、自分の気の向くまま、
一緒にいたり、離れたりしてきたのだから。
「まあ、いいけど・・」
千恵美は当たり前のように「じゃ、後でね」と言って、
今日は、奈々未の隣ではなく、
後方へ、恐らく最後列の非常口そばに、向かっていった。
ジリリリリ…
始業のベルトともに、藤原先生が現れた。
いつもより、ちょっとだけ、先生の来校が遅かったようだ。
胸が、ちょっとだけ、ざわついたけれど、
奈々未はそれを感じなかったことにして、
いつも通り、先生の横顔を見つめた。
「あと2回で、試験になります。
それが終わったら、夏季休業に入ります。
皆さんの到達度を確認するために、
今日は、授業の最後で課題を出します。
それをレポートして次回提出するように」
教室内がざわついた。
さすがに明示する者はいなかったけれど
明らかな落胆の様子が雰囲気として伝わってきた。
けれど、奈々未は、何となく、嬉しくなった。
どんな形であれ、先生とやり取りができる。
これまで、受け身でしかなかった授業での関係が、
少しだけ、能動的に表現できる機会を得られたように思えた。
そして、あれきり、終わってしまいそうな関係を
少しでも続けさせる唯一の方法のようにも。
完璧に仕上げよう…
「では、テキスト148ページを」
奈々未は、意気揚々と、該当ページを開いた。
「ねえ、奈々未、割のいいバイトがあるんだけどさ」
いつもの学食ではなく、
珍しく学外のカフェへと千恵美は奈々未を連れて行った。
日替わりメニューのカフェランチを2つ頼み、
千恵美は切り出した。どうやら、話したかったことはこのことらしい。
「割のいいバイト?」
「そう。
冠婚葬祭でさ、親戚や友人の振りして参加するだけ。
数時間で終わるのに、1回1万円と交通費。
ただし、服装は自前。
どう?やらない?」
千恵美は、無表情に、まるでセリフを話すかのようにして言った。
「なにそれ」
奈々未は、全く理解できない様子で無機質に返答した。
「なにって、だから、バイトよ。
2時間で1万円稼げるっていうさ。
どうなの?
お金、欲しくないの?」
「そんなにいいバイトなら千恵美がやればいいんじゃないの?」
「やってるわよ」
千恵美は、睨むように奈々未を見つめた。
会話のおかしさに気づき、奈々未は、一つ大きめに呼吸をした。
「ごめん。
ちょっと文脈が見えない。
なんで、私を誘ってるの?
人数が足りないの?」
「そういうわけじゃないけど…
折角、美味しいバイトを見つけたから、
親友の?奈々未にもどうかと思ってさ」
奈々未は微笑むというより、苦笑しながら返答した。
「ありがと。その気持ちは有りがたく受け取っとくね。
でも、私、そういうの、あまり興味なくて」
「そういうの?」
「ん…」
そこまで話したところで、「お待たせしました」と
ウェイトレスの女の子の声が割って入った。
千恵美と似たようなメイクで、制服らしき黒のブラウス、スラックスに
細い身を包んだ姿は、隙が全く無い雰囲気で、
ウェイトレスというより、モデルのようだった。
「こちらが本日のランチ、
サラダ仕立てのローストビーフ、グレービーソース添え、
ほうれん草とグロッコリーのポタージュスープです」
目も合わせずにスラスラとそう言って、
いくつかの皿が載った木製トレーを2つ、
二人が座るガラスのテーブルに置いた。
それでテーブルはいっぱいになった。
「この後、食後にコーヒーをお持ちします」
そう言うと、こちらの様子にお構いなしに一礼してさっと身を翻した。
「そういうのって、どういうこと?」
千恵美は、追求する口調で続けた。
「えっと、だから、あまりに割が良すぎるバイト」
「はぁ??」
千恵美は、意表を突かれた様子で、気の抜けた声を出した。
「私ね、千恵美も知っての通り、
至って庶民の子どもでしょ?
だから、『タダより高いものは無い』ってさ、
身にしみてるのよ。
割がいいってことは、
それだけの何かがあるんじゃないかって
思っちゃってね」
その言葉に、何を触発されたのか、
「何も、あるわけないじゃない。
私が現に、やってるんだから。
何もないから勧めているんでしょ」
千恵美は、却ってムキになった。
奈々未はその様子をみて、より落ち着いた様だった。
「ね、冷めちゃうから、食べましょ。
美味しそうよ、ねぇ」
スプーンでスープを一匙すくい、口に運んだ。
「ん、美味しい。
この店、初めてだけど、素敵ね。
ありがとう、紹介してくれて」
奈々未は、にっこり笑って千恵美を見た。
「ねえ、千恵美。
そのバイト、私にはあんまり向いていないみたい。
誰かになって、知らない人の前で、
その人みたいな振りをするなんて、
私には務まりそうにないわ。
向き・不向きがありそうに思うの。
だから、ね、美味しい話し、美味しいモノを紹介してもらうことは
とてもありがたいと思うけど、
バイトの件は、遠慮させてもらうわね」
千恵美は、みるみる表情を崩し、
泣きそうな顔になって、奈々未を見つめた。




